スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京優駿&受動の有用性

2017-05-28 19:23:19 | 中央競馬
 第84回日本ダービー
 マイスタイルが逃げました。トラスト,アルアイン,ダンビュライトの順で追走。5番手はクリンチャーとダイワキャグニーの2頭。この後ろはスワーヴリチャード,サトノアーサー,ベストアプローチ,ウインブライトの4頭の集団。以下はアメリカズカップ,ペルシアンナイト,アドミラブルの順の追走に。最初の1000mが63秒2の超スローペースになったこともあり,後方にいたレイデオロが向正面で一気に外を進出。3コーナーの入口では2番手に。
 マイスタイルはあまり外に出ませんでしたが,レイデオロはより外に出たので直線ではこの2頭が馬体を離して競り合い。この競り合いからはレイデオロが抜け出し,迫ってきたのがスワーヴリチャード。勢いからはスワーヴリチャードが交わしそうだったのですが,外から迫られるとレイデオロがもう一伸び。フィニッシュまで抜かせずに優勝。スワーヴリチャードが4分の3馬身差で2着。大外から追い込んだアドミラブルが1馬身4分の1差の3着を確保し,ペースを落として逃げたマイスタイルがクビ差の4着。アドミラブルの1頭内から伸びたアルアインがハナ差で5着。
 優勝したレイデオロは昨年12月のホープフルステークス以来の勝利。重賞2勝目で大レース初制覇。ホープフルステークスまで3連勝で,2歳終了時点ではこの馬が実力トップではないかとみていました。今年に入って順調さを欠き,ぶっつけとなってしまった皐月賞でも追い込んで5着まで来ていましたので,このレースへ向けてのローテーションという観点からは最も上積みが大きそうに思えた馬で,優勝候補の1頭と考えていました。今日はスローペースを見越して向正面で動いた騎手の判断が的確で,それが勝利に大きく貢献することとなったのではないでしょうか。4着のマイスタイルは展開の利が大きかったと思いますが,ほかの上位入着馬は実力に遜色があるとは思えず,よいライバル関係を続けていくことになるものと思います。父は第71回の覇者のキングカメハメハで父仔制覇。母の父はシンボリクリスエス。3代母がウインドインハーヘア。母の半弟に2012年の帝王賞を勝ったゴルトブリッツ。Rey de Oroはスペイン語で金の王。
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手と管理している藤沢和雄調教師は先週のオークスに続いての大レース制覇。日本ダービーは共に初勝利。

 自身の力potentiaのうちにはないということに対して,悲しみtristitiaを除去するという手段を選択すると不適切な結果,つまりより大なる悪malumを招いてしまうことがあるのは,それが他人の力のうちにあるという場合に限定されるわけではありません。この場合には憎しみodiumの対象が人間ではありませんから,憎しみの連鎖が発生することはないのですが,より大なる悪を招き得る点では同様なのです。
 ここでも同じように不安metusという悲しみtristitiaを例材としましょう。ある人が,何らかの自然災害に対して不安を感じたとします。これはその自然災害を憎むという意味ですが,自然は人間を憎んだりはしませんから,憎しみの連鎖が発生しないということは明白です。
 このとき,その人が不安を軽減するために,災害に対して万全の準備をしたとします。この場合には,おそらく自然災害への対策を理性的に概念した場合と同じような対策を施すことになるでしょう。したがって,もし不安がこのような対策を人に生じさせるのなら,それはただ原因が不安という受動passioであるか理性ratioという能動actioであるのかという点だけが相違し,結果としての対策は同じですから何も問題はありません。むしろこの限りにおいては不安という感情affectusはとても有用な感情であるといえるでしょう。
 このように,受動感情あるいは悲しみであっても,それが有用であるという場合があるということをスピノザは認めます。たとえば第四部定理五〇は,憐憫commiseratioという悲しみは理性の導きによって生活する人間には無用であるといっていますが,これは裏を返せば理性の導きによって生活しない場合には有用である,少なくとも有用であり得るということだからです。また,第四部定理六三は,不安に導かれて悪を避けるために善bonumをなす人間は理性に導かれていないといっていますが,これなどは不安という悲しみから善をなす場合があることを端的に認めているといえます。
 また,単に能動と受動だけに着目すれば,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で聖書が賞賛されるのも同じ理由です。神Deusへの服従obedientia,obsequium,obtemperantiaという受動が,理性的な,つまり精神の能動actio Mentisによる行動としての敬虔pietasという同じ結果を産出させるから,聖書が肯定されているからです。

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