4日の第17期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦。対戦成績は北村桂香女流二段が2勝,大島綾華女流初段が2勝。
振駒で北村女流二段の先手となり大島女流初段の横歩取り。先手は青野流で対抗し,早々に飛車角が総交換になりました。
先に角が交換となり,飛車も交換になった局面。ここで☗3七角と打って2六の歩を外しにいったのですが,この手が問題であったように思います。
後手は☖7三角と打ち返しました。☗同角成☖同桂は明らかに損。かといって☗2六角は☖1九角成。しかし放置すると☖3七角成で処置に困ります。よって☗4六歩と交換を阻止しました。後手は☖3三桂と活用。先手は☗2八歩と受けることになりました。
この間の手順は明らかに後手の得で,ここで差がつきました。第1図は単に☗2八歩と受けておく方がよかったでしょう。とにかく先手は後手の攻めをすべて封じれば自然とよくなるという方針で指すべきだったということになります。
大島女流初段が勝って挑戦権を獲得するとともに規定で女流二段に昇段。タイトル戦は初出場。第一局は来月9日に指される予定です。
第一部定理三三備考一が,人間には偶然に思えるものでもその背後には必然性necessitasがあるという観点から偶然を否定していることは間違いありません。國分はこの観点を,認識論的視点からの偶然の否定negatioと仮称しています。これに対して,そもそも自然Naturaのうちには偶然は存在しないという観点からの偶然の否定は,存在論的な視点からの偶然の否定と名づけています。ここでもこの國分の命名に倣って考察をしていきます。
國分は『エチカ』には存在論的視点からの偶然の否定は明示されていないといっています。僕はたとえば第三部序言でスピノザがいっていることは,偶然や必然について直接的に言及しているわけではないとしても,間違いなく存在論的観点からの偶然の否定,あるいはこの場合は必然の肯定affirmatioといった方がいいかもしれませんが,明らかにそれを示していると思いますので,國分の見解opinioに同意はしません。しかしこの点について争うことに意味はないといったのは,國分は,スピノザは認識論的な観点からだけ偶然を否定しているといいたいわけではなくて,存在論的な観点からも偶然を否定しているということを示そうとしているからです。つまりそれが『エチカ』に明示されているか否かという点だけ僕と國分の間に相違があるのであって,スピノザは存在論的な観点からも偶然を否定しているということについては,國分も僕も同じです。そして國分はこのことを,空虚vacuumの存在existentiaをスピノザが否定しているということから導こうとしているのです。
スピノザにとっての必然性というのは,第一部公理三にあるように,因果論的な必然性を意味するのであって,因果論的な必然性だけを意味します。他面からいえば,それ以外の必然性というのをスピノザは認めません。したがって,もし存在論的な観点から偶然が否定されるのであれば,存在論的観点の必然性が肯定されなければならないことになりますから,それは自然のうちに存在する一切のものが,因果論的関係を通して連関しているということを意味しなければなりません。もちろんこれは全自然を貫く視点からの結論で,たとえば僕たちがその連関のすべてを十全に認識できるという意味ではありません。
振駒で北村女流二段の先手となり大島女流初段の横歩取り。先手は青野流で対抗し,早々に飛車角が総交換になりました。
先に角が交換となり,飛車も交換になった局面。ここで☗3七角と打って2六の歩を外しにいったのですが,この手が問題であったように思います。
後手は☖7三角と打ち返しました。☗同角成☖同桂は明らかに損。かといって☗2六角は☖1九角成。しかし放置すると☖3七角成で処置に困ります。よって☗4六歩と交換を阻止しました。後手は☖3三桂と活用。先手は☗2八歩と受けることになりました。
この間の手順は明らかに後手の得で,ここで差がつきました。第1図は単に☗2八歩と受けておく方がよかったでしょう。とにかく先手は後手の攻めをすべて封じれば自然とよくなるという方針で指すべきだったということになります。
大島女流初段が勝って挑戦権を獲得するとともに規定で女流二段に昇段。タイトル戦は初出場。第一局は来月9日に指される予定です。
第一部定理三三備考一が,人間には偶然に思えるものでもその背後には必然性necessitasがあるという観点から偶然を否定していることは間違いありません。國分はこの観点を,認識論的視点からの偶然の否定negatioと仮称しています。これに対して,そもそも自然Naturaのうちには偶然は存在しないという観点からの偶然の否定は,存在論的な視点からの偶然の否定と名づけています。ここでもこの國分の命名に倣って考察をしていきます。
國分は『エチカ』には存在論的視点からの偶然の否定は明示されていないといっています。僕はたとえば第三部序言でスピノザがいっていることは,偶然や必然について直接的に言及しているわけではないとしても,間違いなく存在論的観点からの偶然の否定,あるいはこの場合は必然の肯定affirmatioといった方がいいかもしれませんが,明らかにそれを示していると思いますので,國分の見解opinioに同意はしません。しかしこの点について争うことに意味はないといったのは,國分は,スピノザは認識論的な観点からだけ偶然を否定しているといいたいわけではなくて,存在論的な観点からも偶然を否定しているということを示そうとしているからです。つまりそれが『エチカ』に明示されているか否かという点だけ僕と國分の間に相違があるのであって,スピノザは存在論的な観点からも偶然を否定しているということについては,國分も僕も同じです。そして國分はこのことを,空虚vacuumの存在existentiaをスピノザが否定しているということから導こうとしているのです。
スピノザにとっての必然性というのは,第一部公理三にあるように,因果論的な必然性を意味するのであって,因果論的な必然性だけを意味します。他面からいえば,それ以外の必然性というのをスピノザは認めません。したがって,もし存在論的な観点から偶然が否定されるのであれば,存在論的観点の必然性が肯定されなければならないことになりますから,それは自然のうちに存在する一切のものが,因果論的関係を通して連関しているということを意味しなければなりません。もちろんこれは全自然を貫く視点からの結論で,たとえば僕たちがその連関のすべてを十全に認識できるという意味ではありません。
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