グランプリを控えた選手のうち3人が参加に踏み切った広島記念の決勝。並びは小松崎-渡辺-佐藤の北日本,武田-神山の茨城栃木に牧,脇本-伊藤の近畿で和田は単騎。
脇本と武田が出ていき,外から武田に促されたように脇本が誘導の後ろに入って前受け。3番手に武田,6番手に小松崎,最後尾に和田で周回。残り2周前のコーナーから小松崎が上昇。ホームで脇本を叩き,4番手に脇本,6番手に武田,北日本を追わなかった和田が最後尾の一列棒状に。打鐘前のバックから武田が発進。小松崎に合わされて苦しくなりましたが,コーナーでインに斬り込み,佐藤を跳ねて渡辺もどかし,小松崎の後ろに。トリッキーな動きでしたが神山もうまく続き,4番手に渡辺。バックから武田の番手捲り。これは展開有利かと思ったのですが,番手を取るのに力を使っていたようでいつもの粘りがなく,神山が差して優勝。大外を捲り追い込んだ脇本が写真判定の末に4分の1車輪差の2着に届き,武田はタイヤ差で3着。
優勝した栃木の神山雄一郎選手は先月の高松記念に続く記念競輪98勝目。広島記念は1995年,2007年,2009年と優勝していて,5年ぶりの4勝目。当地では1993年の共同通信社杯でも優勝しています。メンバー的には武田が残るか神山が差すかというレース。武田は意外に粘りを欠いた感はあります。インに斬り込んでいった動きに離れず追走できたというのが勝因ということになるでしょう。何とかあとふたつ,勝ってほしいところです。
ライプニッツはスピノザの形而上学の論理を崩壊させることができると考えていたわけですが,それが容易なことであると思っていなかったことも確かなようです。
『宮廷人と異端者』によれば,1714年に,ライプニッツの哲学のうちにスピノザ主義が含まれているのかという質問を文通相手から受けたとき,ライプニッツは,自身の哲学によってスピノザ主義は破壊されると答えた上で,もし自分の哲学が誤っているとするなら,スピノザの哲学が正しいことになるという主旨の答えをしたそうです。
ここから分かるように,ヤコービがそうであったように,ライプニッツもまた,スピノザの形而上学の論理の優秀性は認めていました。そして宮廷人という立場から,それに対峙しようとしたのです。マシュレが『ヘーゲルかスピノザか』という題名の本を著し,そこでヘーゲルとスピノザの対決を示したのと同じような意味で,ライプニッツはスピノザと対決したのだといってよいでしょう。ヘーゲルにとってスピノザは過去の人でした。しかしライプニッツにとってのスピノザは,多少は先輩であったわけですが,実際に会見したということからも分かるように,紛れもなく同時代の人でした。ですから当人が抱く対決ということの重みは,ヘーゲルよりもライプニッツの方がずっと大きかっただろうと思います。
ここでいうライプニッツの哲学というのは,いわゆるモナド論というものです。モナド論について詳しく説明することはしませんが,この解答の書簡の中で,ライプニッツがモナドと実体とを同一視するような説明をしていることは重要です。というか,僕の考察においては,それだけが理解できれば十分であるといえます。というのも,ライプニッツは無限に多くのモナドがあるというように考えているからです。したがってモナドが実体と同一視できるなら,無限に多くの実体があると考えていることになります。これは第一部定理一四と真向から対立する見解です。つまりここの部分に,ライプニッツとスピノザの大きな差異があることになります。それは形而上学的な差異に還元できると僕は考えます。しかしそれは後に明らかにしましょう。
脇本と武田が出ていき,外から武田に促されたように脇本が誘導の後ろに入って前受け。3番手に武田,6番手に小松崎,最後尾に和田で周回。残り2周前のコーナーから小松崎が上昇。ホームで脇本を叩き,4番手に脇本,6番手に武田,北日本を追わなかった和田が最後尾の一列棒状に。打鐘前のバックから武田が発進。小松崎に合わされて苦しくなりましたが,コーナーでインに斬り込み,佐藤を跳ねて渡辺もどかし,小松崎の後ろに。トリッキーな動きでしたが神山もうまく続き,4番手に渡辺。バックから武田の番手捲り。これは展開有利かと思ったのですが,番手を取るのに力を使っていたようでいつもの粘りがなく,神山が差して優勝。大外を捲り追い込んだ脇本が写真判定の末に4分の1車輪差の2着に届き,武田はタイヤ差で3着。
優勝した栃木の神山雄一郎選手は先月の高松記念に続く記念競輪98勝目。広島記念は1995年,2007年,2009年と優勝していて,5年ぶりの4勝目。当地では1993年の共同通信社杯でも優勝しています。メンバー的には武田が残るか神山が差すかというレース。武田は意外に粘りを欠いた感はあります。インに斬り込んでいった動きに離れず追走できたというのが勝因ということになるでしょう。何とかあとふたつ,勝ってほしいところです。
ライプニッツはスピノザの形而上学の論理を崩壊させることができると考えていたわけですが,それが容易なことであると思っていなかったことも確かなようです。
『宮廷人と異端者』によれば,1714年に,ライプニッツの哲学のうちにスピノザ主義が含まれているのかという質問を文通相手から受けたとき,ライプニッツは,自身の哲学によってスピノザ主義は破壊されると答えた上で,もし自分の哲学が誤っているとするなら,スピノザの哲学が正しいことになるという主旨の答えをしたそうです。
ここから分かるように,ヤコービがそうであったように,ライプニッツもまた,スピノザの形而上学の論理の優秀性は認めていました。そして宮廷人という立場から,それに対峙しようとしたのです。マシュレが『ヘーゲルかスピノザか』という題名の本を著し,そこでヘーゲルとスピノザの対決を示したのと同じような意味で,ライプニッツはスピノザと対決したのだといってよいでしょう。ヘーゲルにとってスピノザは過去の人でした。しかしライプニッツにとってのスピノザは,多少は先輩であったわけですが,実際に会見したということからも分かるように,紛れもなく同時代の人でした。ですから当人が抱く対決ということの重みは,ヘーゲルよりもライプニッツの方がずっと大きかっただろうと思います。
ここでいうライプニッツの哲学というのは,いわゆるモナド論というものです。モナド論について詳しく説明することはしませんが,この解答の書簡の中で,ライプニッツがモナドと実体とを同一視するような説明をしていることは重要です。というか,僕の考察においては,それだけが理解できれば十分であるといえます。というのも,ライプニッツは無限に多くのモナドがあるというように考えているからです。したがってモナドが実体と同一視できるなら,無限に多くの実体があると考えていることになります。これは第一部定理一四と真向から対立する見解です。つまりここの部分に,ライプニッツとスピノザの大きな差異があることになります。それは形而上学的な差異に還元できると僕は考えます。しかしそれは後に明らかにしましょう。
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