昨晩の第53回戸塚記念。クラジャンクが出走取消となって13頭。
ヨルノテイオーが逃げて4馬身くらいのリードを取りました。サントノーレとローリエフレイバーが2番手。3馬身差でシシュフォスとムットクルフェとペルセヴェランテ。7番手にグラッシーズマンとアジアミッション。9番手にキタノヒーロー。10番手にマコトロクサノホコとオーウェル。12番手がフロインフォッサルで最後尾にカタルシス。ヨルノテイオーのリードは1周目の正面でも変わりませんでしたが,2番手の2頭と4番手の差は縮まりました。ミドルペース。
2周目の向正面でキタノヒーローが外から上昇していったことでレースが動きました。ヨルノテイオーのリードがみるみるうちに縮まっていき,3コーナーからサントノーレが内から前に出て先頭に。マコトロクサノホコが単独の2番手に追い上げ,その後ろにローリエフレイバーとペルセヴェランテとシシュフォスの3頭。直線に入るとシシュフォスが単独の3番手に。先頭に立っていたサントノーレは直線で差を広げていって圧勝。シシュフォスはマコトロクサノホコにも追いつけず,後方から大外を追い込んできたフロインフォッサルが強襲。内の2頭を差し切って6馬身差で2着。マコトロクサノホコがクビ差の3着でシシュフォスがクビ差で4着。
優勝したサントノーレは前走の京浜盃から連勝。南関東重賞は鎌倉記念以来の2勝目。重賞を勝っているくらいですから能力は上位。京浜盃の後に骨折があり,復帰戦という点は心配でしたが,能力発揮に大きく影響するほどではなかったようです。この馬は重賞でも通用することがもう分っていますし,たぶん古馬相手でも通用すると思います。父は2016年に北海道2歳優駿を勝ったエピカリスでその父はゴールドアリュール。母の父がサウスヴィグラスで祖母の父がサクラローレル。Saint Honoreはパリにある通りの名称。
騎乗した大井の笹川翼騎手はルーキーズサマーカップ以来の南関東重賞20勝目。第49回以来となる4年ぶりの戸塚記念2勝目。管理している大井の荒山勝徳調教師は第39回以来となる14年ぶりの戸塚記念2勝目。
書簡六十八から分かるように,スピノザはハーグDen Haagに住むようになってからも,アムステルダムAmsterdamまで出掛けることがありました。これと同様に,アムステルダムにいたと思われるシュラーGeorg Hermann SchullerやマイエルLodewijk Meyerが,しばしばハーグを訪れていたとすれば,そのときにはスピノザと会うためにスペイクの家にも来たと思われます。この場合は,マイエルやシュラーとスペイクの間に面識があったと考えるべきであって,スペイクがマイエルを他人と間違えることはなかった筈です。よってこの場合は,アムステルダムから来た医師はマイエルであるとスペイクがコレルスJohannes Colerusに伝えているわけですから,確かにこの医師はマイエルであったといわなければならないでしょう。
さらに,この医師がマイエルではなくシュラーであったとする場合には,シュラーがハーグを訪問することもなかったとしなければなりません。マイエルとスペイクとの間に面識がないのであれば,スペイクは別人をマイエルであると思い込むことはあり得ますが,シュラーとスペイクの間に面識があったならば,マイエルをシュラーと間違えるということは生じ得ないからです。その場合はアムステルダムから来た医師のことをスペイクはシュラーであると認識することになりますから,その医師をマイエルであったとスペイクに伝えることはあり得ないからです。
したがって,もしもアムステルダムから来た医師が本当はマイエルではなくシュラーであったということを主張する場合には,スペイクとマイエルの間には面識はなかったし,スペイクとシュラーの間にも面識はなかったということが条件になります。これがあったかなかったかを確定することは僕にはできませんが,なかった可能性を否定することができないということは認めます。たとえば書簡七十の冒頭で,シュラーはスピノザが元気であるかどうかを尋ねています。もしもシュラーが頻繁にスピノザと会っていれば,そのような質問をする必要はないでしょう。なので,シュラーとスペイクの間に面識がなかった可能性は否定できません。マイエルに関してはまったく分かりませんから,マイエルとスペイクの間に面識がなかった可能性も否定できません。
ヨルノテイオーが逃げて4馬身くらいのリードを取りました。サントノーレとローリエフレイバーが2番手。3馬身差でシシュフォスとムットクルフェとペルセヴェランテ。7番手にグラッシーズマンとアジアミッション。9番手にキタノヒーロー。10番手にマコトロクサノホコとオーウェル。12番手がフロインフォッサルで最後尾にカタルシス。ヨルノテイオーのリードは1周目の正面でも変わりませんでしたが,2番手の2頭と4番手の差は縮まりました。ミドルペース。
2周目の向正面でキタノヒーローが外から上昇していったことでレースが動きました。ヨルノテイオーのリードがみるみるうちに縮まっていき,3コーナーからサントノーレが内から前に出て先頭に。マコトロクサノホコが単独の2番手に追い上げ,その後ろにローリエフレイバーとペルセヴェランテとシシュフォスの3頭。直線に入るとシシュフォスが単独の3番手に。先頭に立っていたサントノーレは直線で差を広げていって圧勝。シシュフォスはマコトロクサノホコにも追いつけず,後方から大外を追い込んできたフロインフォッサルが強襲。内の2頭を差し切って6馬身差で2着。マコトロクサノホコがクビ差の3着でシシュフォスがクビ差で4着。
優勝したサントノーレは前走の京浜盃から連勝。南関東重賞は鎌倉記念以来の2勝目。重賞を勝っているくらいですから能力は上位。京浜盃の後に骨折があり,復帰戦という点は心配でしたが,能力発揮に大きく影響するほどではなかったようです。この馬は重賞でも通用することがもう分っていますし,たぶん古馬相手でも通用すると思います。父は2016年に北海道2歳優駿を勝ったエピカリスでその父はゴールドアリュール。母の父がサウスヴィグラスで祖母の父がサクラローレル。Saint Honoreはパリにある通りの名称。
騎乗した大井の笹川翼騎手はルーキーズサマーカップ以来の南関東重賞20勝目。第49回以来となる4年ぶりの戸塚記念2勝目。管理している大井の荒山勝徳調教師は第39回以来となる14年ぶりの戸塚記念2勝目。
書簡六十八から分かるように,スピノザはハーグDen Haagに住むようになってからも,アムステルダムAmsterdamまで出掛けることがありました。これと同様に,アムステルダムにいたと思われるシュラーGeorg Hermann SchullerやマイエルLodewijk Meyerが,しばしばハーグを訪れていたとすれば,そのときにはスピノザと会うためにスペイクの家にも来たと思われます。この場合は,マイエルやシュラーとスペイクの間に面識があったと考えるべきであって,スペイクがマイエルを他人と間違えることはなかった筈です。よってこの場合は,アムステルダムから来た医師はマイエルであるとスペイクがコレルスJohannes Colerusに伝えているわけですから,確かにこの医師はマイエルであったといわなければならないでしょう。
さらに,この医師がマイエルではなくシュラーであったとする場合には,シュラーがハーグを訪問することもなかったとしなければなりません。マイエルとスペイクとの間に面識がないのであれば,スペイクは別人をマイエルであると思い込むことはあり得ますが,シュラーとスペイクの間に面識があったならば,マイエルをシュラーと間違えるということは生じ得ないからです。その場合はアムステルダムから来た医師のことをスペイクはシュラーであると認識することになりますから,その医師をマイエルであったとスペイクに伝えることはあり得ないからです。
したがって,もしもアムステルダムから来た医師が本当はマイエルではなくシュラーであったということを主張する場合には,スペイクとマイエルの間には面識はなかったし,スペイクとシュラーの間にも面識はなかったということが条件になります。これがあったかなかったかを確定することは僕にはできませんが,なかった可能性を否定することができないということは認めます。たとえば書簡七十の冒頭で,シュラーはスピノザが元気であるかどうかを尋ねています。もしもシュラーが頻繁にスピノザと会っていれば,そのような質問をする必要はないでしょう。なので,シュラーとスペイクの間に面識がなかった可能性は否定できません。マイエルに関してはまったく分かりませんから,マイエルとスペイクの間に面識がなかった可能性も否定できません。
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