4日に香港のシャティン競馬場で行われたチャンピオンズマイルGⅠ芝1600mに,一昨年の京都金杯と昨年の七夕賞を勝っているマイネルラクリマが出走しました。
発馬はまずまず。スピードの違いで先頭に出た勝ち馬のVaraiety Clubに内から1頭が競りかけ,この2頭で後ろをやや引き離すという展開。直後も2頭の並走で,その外側に位置したのがマイネルラクリマ。並んでの逃げということもあったでしょうが,あまりペースに緩みが生じませんでした。それでも3番手以降は直線の入口にかけて前との差を詰めていきました。マイネルラクリマはそこまでは対応できたのですが,そこからは後続の馬群に飲み込まれる形。直線の半ばまでは前とは離れていたもののそこそこの抵抗をしていましたが,それが精一杯。14頭中10着でした。
この馬は日本で大レースに出走しても上位人気にはならないであろうというクラスの馬。ここで対抗するのはいささか荷が重かったようです。勝ったVaraiety Clubは南アフリカ馬で,3月のゴドルフィンマイルの優勝馬。そのときはそれほど感じ入るものはなかったのですが,先行して抜け出し,4馬身もの差をつけるというこのレースの勝ち方は,かなりの強さを感じました。
ここまで,無限の一義性の理解においては僕と相違があっても,数的に区別が可能な二種類の因果性が存在することはなく,因果性は唯一であると解されなければならないとする識者たちの見解を呈示してきました。今度は逆に,無限の一義性においてはその把握の仕方で同様の相違はなくても,因果性が唯一であるという結論は一致せず,スピノザの哲学には数的に区別されるべき二種類の因果性があると結論する識者の論考を検討することにします。すでに述べたように,「二重因果性の問題」の結論として,松田克進は,因果性は唯一であるとするクレーファーの主張に対して,数的に区別可能な二種類の因果性があるというゲルーの解釈に軍配をあげています。なぜ松田がそのように判断するのかを詳しく検討します。
『デカルトの哲学原理』の第一部でスピノザは,その存在の原因を追及できない事物は何もないという主旨の内容を公理十一として記述しています。これはスピノザによるデカルトの哲学の再構成ですから,スピノザはデカルトはそう考えていたと理解していたということです。存在の原因を追及できない事物は何もないというのは,どんな事物にも存在の原因を追及することが可能であるということです。こういい換えてもまだもってまわったようないい方が残っているといえなくもありません。原因を追求できるのは答えがあるからなので,どんな事物であっても,それが存在するには存在する原因というものがあるというのが真の意味です。この公理は存在というものだけがその対象にはなっているものの,第一部公理三の強い意味がもっている内容と,同じだけの重さをもった公理であると僕は理解します。したがって,存在するものに関しては,それがどんなものであったとしても,それが存在する原因というものがあり,原因がなければ存在することは不可能であるとデカルトは考えていたと,スピノザは理解していたと僕は解します。
この公理が重要なのは,どんなものといわれている以上,そこには実体も,そして当然ながら神も含まれなければならないからです。スピノザはデカルトにそこまでは見出していたということになるのです。
発馬はまずまず。スピードの違いで先頭に出た勝ち馬のVaraiety Clubに内から1頭が競りかけ,この2頭で後ろをやや引き離すという展開。直後も2頭の並走で,その外側に位置したのがマイネルラクリマ。並んでの逃げということもあったでしょうが,あまりペースに緩みが生じませんでした。それでも3番手以降は直線の入口にかけて前との差を詰めていきました。マイネルラクリマはそこまでは対応できたのですが,そこからは後続の馬群に飲み込まれる形。直線の半ばまでは前とは離れていたもののそこそこの抵抗をしていましたが,それが精一杯。14頭中10着でした。
この馬は日本で大レースに出走しても上位人気にはならないであろうというクラスの馬。ここで対抗するのはいささか荷が重かったようです。勝ったVaraiety Clubは南アフリカ馬で,3月のゴドルフィンマイルの優勝馬。そのときはそれほど感じ入るものはなかったのですが,先行して抜け出し,4馬身もの差をつけるというこのレースの勝ち方は,かなりの強さを感じました。
ここまで,無限の一義性の理解においては僕と相違があっても,数的に区別が可能な二種類の因果性が存在することはなく,因果性は唯一であると解されなければならないとする識者たちの見解を呈示してきました。今度は逆に,無限の一義性においてはその把握の仕方で同様の相違はなくても,因果性が唯一であるという結論は一致せず,スピノザの哲学には数的に区別されるべき二種類の因果性があると結論する識者の論考を検討することにします。すでに述べたように,「二重因果性の問題」の結論として,松田克進は,因果性は唯一であるとするクレーファーの主張に対して,数的に区別可能な二種類の因果性があるというゲルーの解釈に軍配をあげています。なぜ松田がそのように判断するのかを詳しく検討します。
『デカルトの哲学原理』の第一部でスピノザは,その存在の原因を追及できない事物は何もないという主旨の内容を公理十一として記述しています。これはスピノザによるデカルトの哲学の再構成ですから,スピノザはデカルトはそう考えていたと理解していたということです。存在の原因を追及できない事物は何もないというのは,どんな事物にも存在の原因を追及することが可能であるということです。こういい換えてもまだもってまわったようないい方が残っているといえなくもありません。原因を追求できるのは答えがあるからなので,どんな事物であっても,それが存在するには存在する原因というものがあるというのが真の意味です。この公理は存在というものだけがその対象にはなっているものの,第一部公理三の強い意味がもっている内容と,同じだけの重さをもった公理であると僕は理解します。したがって,存在するものに関しては,それがどんなものであったとしても,それが存在する原因というものがあり,原因がなければ存在することは不可能であるとデカルトは考えていたと,スピノザは理解していたと僕は解します。
この公理が重要なのは,どんなものといわれている以上,そこには実体も,そして当然ながら神も含まれなければならないからです。スピノザはデカルトにそこまでは見出していたということになるのです。
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