『外国人レスラー最強列伝』の第1章は鉄人ことルー・テーズです。
テーズは1916年生まれで,日本ではまず力道山のライバルでした。ですから馬場からみても先輩格のレスラーになります。
1964年2月5日に,馬場はデトロイトで当時はNWA王者だったテーズに挑戦しています。これは馬場の2度目のアメリカ遠征の末期,三大タイトル挑戦のひとつで,高額なファイトマネーが支払われた試合です。『1964年のジャイアント馬場』というタイトルからも分かる通り,このとき馬場はアメリカでもスターでしたが,試合はテーズが勝っています。
馬場が帰国の決断をして日本プロレスのエースになった後,1966年2月に日本武道館で馬場のNWAインターナショナルタイトルにテーズが挑戦。この試合は馬場が勝ちました。僕はテーズは馬場のことをアスリートとしては高く評価してなかったのではないかと思っていますが,この敗戦を受け入れたのは,馬場が日本プロレスのエースであるということは肯定していたからだと思います。
その後,テーズは新日本プロレスや国際プロレスに参戦するようになったため,馬場とは疎遠になりました。しかし国際プロレスの倒産後に,馬場がレフェリーとしてテーズを招聘。1982年に2度,1983年に1度,レフェリーとして全日本で試合を裁くとともに,選手に対する指導も行いました。ジャンボ・鶴田がバックドロップを使うようになったのはこのときの指導の賜物です。また,1983年の来日のときは,若手レスラーによるルー・テーズ杯争奪リーグ戦が行われ,ここで準優勝して出世のきっかけをつかんだのが三沢光晴です。
テーズはこの後,また新日本に出たりUWFインターで顧問を務めたりしました。節操がないといえばその通りですが,高く評価して呼ばれるならそこに行くというのは,ビジネスとしては当然でしょう。
UWFインターに参戦していたゲーリー・オブライトに身の振り方を相談されたとき,馬場は誇り高く正直なプロモーターだから,全日本に行くチャンスがあるならそうするべきだと答え,それが全日本に移籍する決断につながったとオブライトは言っています。馬場の死に際しても,プロモーターとしての馬場を高く評価する発言をしており,レスラーとしてはともかく,馬場がプロレス業界において優秀な人物だと考えていたのは間違いないでしょう。
この日の夜にロサンゼルスの伯母が来日しました。僕の家に着いたのは午後7時50分ごろです。この来日は母の病気に合わせたというものではなく,それ以前から予定されていたものです。そこに母の事情が重なりました。この翌日から,可能であれば伯母が夕飯の支度をするようになりました。
10月4日,水曜日。伯母はみなと赤十字病院にはどのように行ったらよいのか分からないということで,前日と同様に途中で妹をピックアップしつつ,3人で母の見舞いに行きました。これは同時に,妹の通所施設がどこにあるのかを伯母が知ることができたということです。母はリハビリでは昨日よりも長く歩くことができたようですが,38℃台の発熱が続いているとのことでした。体温は看護師が朝と夕方に計測している筈ですが,熱を下げるための処方はしていないということでしたから,おそらくその必要はないという判断があったのだろうと思います。また,手術後は絶食中でしたが,この日の昼食から食事が可能になりました。
伯母は母の顔には黄疸が出ているという意味のことをいいました。母の癌は肝臓に転移していましたから,黄疸はその症状です。ただ,僕は毎日顔を合わせていることもあってか,母の顔にそのような変化が出ているということにはあまり気付いていませんでした。伯母は久々に会ったので,母の顔色が顕著に変化しているということに気付いたのだと思います。
10月5日,木曜日。伯母は中学校の同窓会に出掛けました。来日が事前から予定されていたのでこのような予定もあり,母も自分のためにそうした予定を中止してほしくはないということでしたので,伯母も事前に組んでおいた日程はこの日に限らずすべてこなしました。午前9時に家を出て,帰ってきたのが午後3時50分ごろです。妹は伯母に任せることができる状況になりましたので,この日はその後で僕がひとりで母の見舞いに行きました。僕が着いたとき,Kさんも見舞いに来ていました。この日のリハビリでは,母が入院している病棟を歩いて1周したようです。ただ母は,退院後の家に介護用のベッドを所望し,また介護認定も受けたいと要望しました。
テーズは1916年生まれで,日本ではまず力道山のライバルでした。ですから馬場からみても先輩格のレスラーになります。
1964年2月5日に,馬場はデトロイトで当時はNWA王者だったテーズに挑戦しています。これは馬場の2度目のアメリカ遠征の末期,三大タイトル挑戦のひとつで,高額なファイトマネーが支払われた試合です。『1964年のジャイアント馬場』というタイトルからも分かる通り,このとき馬場はアメリカでもスターでしたが,試合はテーズが勝っています。
馬場が帰国の決断をして日本プロレスのエースになった後,1966年2月に日本武道館で馬場のNWAインターナショナルタイトルにテーズが挑戦。この試合は馬場が勝ちました。僕はテーズは馬場のことをアスリートとしては高く評価してなかったのではないかと思っていますが,この敗戦を受け入れたのは,馬場が日本プロレスのエースであるということは肯定していたからだと思います。
その後,テーズは新日本プロレスや国際プロレスに参戦するようになったため,馬場とは疎遠になりました。しかし国際プロレスの倒産後に,馬場がレフェリーとしてテーズを招聘。1982年に2度,1983年に1度,レフェリーとして全日本で試合を裁くとともに,選手に対する指導も行いました。ジャンボ・鶴田がバックドロップを使うようになったのはこのときの指導の賜物です。また,1983年の来日のときは,若手レスラーによるルー・テーズ杯争奪リーグ戦が行われ,ここで準優勝して出世のきっかけをつかんだのが三沢光晴です。
テーズはこの後,また新日本に出たりUWFインターで顧問を務めたりしました。節操がないといえばその通りですが,高く評価して呼ばれるならそこに行くというのは,ビジネスとしては当然でしょう。
UWFインターに参戦していたゲーリー・オブライトに身の振り方を相談されたとき,馬場は誇り高く正直なプロモーターだから,全日本に行くチャンスがあるならそうするべきだと答え,それが全日本に移籍する決断につながったとオブライトは言っています。馬場の死に際しても,プロモーターとしての馬場を高く評価する発言をしており,レスラーとしてはともかく,馬場がプロレス業界において優秀な人物だと考えていたのは間違いないでしょう。
この日の夜にロサンゼルスの伯母が来日しました。僕の家に着いたのは午後7時50分ごろです。この来日は母の病気に合わせたというものではなく,それ以前から予定されていたものです。そこに母の事情が重なりました。この翌日から,可能であれば伯母が夕飯の支度をするようになりました。
10月4日,水曜日。伯母はみなと赤十字病院にはどのように行ったらよいのか分からないということで,前日と同様に途中で妹をピックアップしつつ,3人で母の見舞いに行きました。これは同時に,妹の通所施設がどこにあるのかを伯母が知ることができたということです。母はリハビリでは昨日よりも長く歩くことができたようですが,38℃台の発熱が続いているとのことでした。体温は看護師が朝と夕方に計測している筈ですが,熱を下げるための処方はしていないということでしたから,おそらくその必要はないという判断があったのだろうと思います。また,手術後は絶食中でしたが,この日の昼食から食事が可能になりました。
伯母は母の顔には黄疸が出ているという意味のことをいいました。母の癌は肝臓に転移していましたから,黄疸はその症状です。ただ,僕は毎日顔を合わせていることもあってか,母の顔にそのような変化が出ているということにはあまり気付いていませんでした。伯母は久々に会ったので,母の顔色が顕著に変化しているということに気付いたのだと思います。
10月5日,木曜日。伯母は中学校の同窓会に出掛けました。来日が事前から予定されていたのでこのような予定もあり,母も自分のためにそうした予定を中止してほしくはないということでしたので,伯母も事前に組んでおいた日程はこの日に限らずすべてこなしました。午前9時に家を出て,帰ってきたのが午後3時50分ごろです。妹は伯母に任せることができる状況になりましたので,この日はその後で僕がひとりで母の見舞いに行きました。僕が着いたとき,Kさんも見舞いに来ていました。この日のリハビリでは,母が入院している病棟を歩いて1周したようです。ただ母は,退院後の家に介護用のベッドを所望し,また介護認定も受けたいと要望しました。
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