ペレストゥピーチというロシア語に注目すると,ラスコーリニコフとソーニャの関係が,ラスコーリニコフからみてどのようなものであったのかということに関して,ある解釈が成り立つことになります。
ラスコーリニコフは,まだソーニャと出会う前に,ソーニャの父であるマルメラードフから,ソーニャが娼婦であるということを聞かされていました。そしてそれは,ソーニャの性格に起因するのではなく,マルメラードフの性格から引き起こされた暮らしぶりに起因するということも知っていたわけです。このゆえにラスコーリニコフは,ただのひとりの娼婦としてソーニャを見ることができなかった,あるいは難しかったということは確かだと思うのです。
しかしそれは,同情という観点からではなかったといえることになります。ラスコーリニコフがペレストゥピーチということばをソーニャに向けるとき,それはソーニャも自分も一線を踏み越えた人間であるという意味で,ある種の仲間意識のような感覚を抱いていたと解釈するべきであろうからです。
ラスコーリニコフが踏み越えた一線とは,いうまでもなく殺人です。とりわけラスコーリニコフにとって,金貸しの老婆を殺しただけでなく,居合わせたソーニャの友人であるリザヴェータも殺したということが,一線を踏み越えたという強い意識となって現れているように思います。しかしソーニャが踏み越えた一線とは何だったのでしょうか。
ラスコーリニコフにとって,おそらくそれは,ソーニャが娼婦として,不特定多数の男を相手に春を売ったという点にあったのだと思います。というよりもそうとしか考えられません。これでみれば,自分のように自身の思想から人を殺すことと,ソーニャのように止むを得ないとしか考えられないような状況に置かれて売春行為に及ぶということが,同じ意味で一線を踏み越える行為であったということになります。
僕にはこのふたつの行為が,同等の否定的価値を有するようには思えません。多くの方がそう感じるのではないでしょうか。そしてもしもその通りなら,ラスコーリニコフの倫理観は特異なものであったことになります。
スピノザの哲学でいわれる神の決定ということが,僕たちが普通にその語句でイメージするであろう内容と比べれば,ごく軽いものと考えて差し支えないということは,以前に説明した通りです。なぜならこの決定は,神が何らかの意図をもってなすような決定ではなく,単に神から発する法則に適合するという意味での決定であるからです。いい換えればそれは,神がある意志をもってなす決定ではありません。第一部定理三二系一は,神が何らかの意志をもって決定を下すということを,明確に否定しているといえるでしょう。
ライプニッツからすれば,こうしたことのすべてが,神からの人格の排除に該当するわけです。他面からいえば,こうした考え方に依拠する限り,神を宿命的で必然的なものと規定することになるわけです。そこでライプニッツは,こうした規定というのを脱した哲学を構築しなければなりませんでした。
このために最初に必要なことは,神の意志を神の本性に帰すことであるということは明白でしょう。そしてそれが,ライプニッツが神が人格的なものでなければならないと考える場合の,第一の意味合いであるということになります。要するにここでは,スピノザが必然性ないしは法則と規定するものに対して,ライプニッツが意志と規定するものとの間での対決が展開されることになります。これは他面からいうなら,自由という概念を巡っての対決であったともいえるでしょう。第一部定理一七系二において,スピノザは神が自由原因であるということを認めています。しかしそれは神が自身の本性の必然性のみによって働くからです。このことはこの系が第一部定理一七の系であるということからも明白です。ライプニッツの考え方からすれば,おそらくそれは自由であるということではありませんでした。ライプニッツにとって人格を排除したような自由,意志と関係を有さないような自由というのはあり得なかった,より正確にいうならあってはならなかったということなのでしょう。
したがって,自然は神の自由な意志によって決定されるものでなければならないというように,ライプニッツは考えることになる筈です。
ラスコーリニコフは,まだソーニャと出会う前に,ソーニャの父であるマルメラードフから,ソーニャが娼婦であるということを聞かされていました。そしてそれは,ソーニャの性格に起因するのではなく,マルメラードフの性格から引き起こされた暮らしぶりに起因するということも知っていたわけです。このゆえにラスコーリニコフは,ただのひとりの娼婦としてソーニャを見ることができなかった,あるいは難しかったということは確かだと思うのです。
しかしそれは,同情という観点からではなかったといえることになります。ラスコーリニコフがペレストゥピーチということばをソーニャに向けるとき,それはソーニャも自分も一線を踏み越えた人間であるという意味で,ある種の仲間意識のような感覚を抱いていたと解釈するべきであろうからです。
ラスコーリニコフが踏み越えた一線とは,いうまでもなく殺人です。とりわけラスコーリニコフにとって,金貸しの老婆を殺しただけでなく,居合わせたソーニャの友人であるリザヴェータも殺したということが,一線を踏み越えたという強い意識となって現れているように思います。しかしソーニャが踏み越えた一線とは何だったのでしょうか。
ラスコーリニコフにとって,おそらくそれは,ソーニャが娼婦として,不特定多数の男を相手に春を売ったという点にあったのだと思います。というよりもそうとしか考えられません。これでみれば,自分のように自身の思想から人を殺すことと,ソーニャのように止むを得ないとしか考えられないような状況に置かれて売春行為に及ぶということが,同じ意味で一線を踏み越える行為であったということになります。
僕にはこのふたつの行為が,同等の否定的価値を有するようには思えません。多くの方がそう感じるのではないでしょうか。そしてもしもその通りなら,ラスコーリニコフの倫理観は特異なものであったことになります。
スピノザの哲学でいわれる神の決定ということが,僕たちが普通にその語句でイメージするであろう内容と比べれば,ごく軽いものと考えて差し支えないということは,以前に説明した通りです。なぜならこの決定は,神が何らかの意図をもってなすような決定ではなく,単に神から発する法則に適合するという意味での決定であるからです。いい換えればそれは,神がある意志をもってなす決定ではありません。第一部定理三二系一は,神が何らかの意志をもって決定を下すということを,明確に否定しているといえるでしょう。
ライプニッツからすれば,こうしたことのすべてが,神からの人格の排除に該当するわけです。他面からいえば,こうした考え方に依拠する限り,神を宿命的で必然的なものと規定することになるわけです。そこでライプニッツは,こうした規定というのを脱した哲学を構築しなければなりませんでした。
このために最初に必要なことは,神の意志を神の本性に帰すことであるということは明白でしょう。そしてそれが,ライプニッツが神が人格的なものでなければならないと考える場合の,第一の意味合いであるということになります。要するにここでは,スピノザが必然性ないしは法則と規定するものに対して,ライプニッツが意志と規定するものとの間での対決が展開されることになります。これは他面からいうなら,自由という概念を巡っての対決であったともいえるでしょう。第一部定理一七系二において,スピノザは神が自由原因であるということを認めています。しかしそれは神が自身の本性の必然性のみによって働くからです。このことはこの系が第一部定理一七の系であるということからも明白です。ライプニッツの考え方からすれば,おそらくそれは自由であるということではありませんでした。ライプニッツにとって人格を排除したような自由,意志と関係を有さないような自由というのはあり得なかった,より正確にいうならあってはならなかったということなのでしょう。
したがって,自然は神の自由な意志によって決定されるものでなければならないというように,ライプニッツは考えることになる筈です。
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