スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&憤慨の感じやすさ

2018-03-30 19:27:36 | 将棋
 東京将棋会館で指された第43期棋王戦五番勝負第五局。
 振駒渡辺明棋王の先手。永瀬拓矢七段の風変りな序盤戦術から相居飛車の力戦型に進みました。
                                     
 先手が3六にいた銀を引いたところ。ここから後手は☖7五歩☗同歩☖同角とまず7筋を交換し☗3六歩に☖8六歩☗同歩☖同角☗同角☖同飛☗8七歩☖8二飛と角を交換しながら8筋も交換しました。
 たぶんこの将棋はここでの折衝が後手にとって拙かったのではないかと思います。7筋を先に交換しておくことで一歩を手持ちにはできますが,その後で角を交換するのは手損ですし,7筋を交換したことで後にそこを攻められることになってしまったからです。
 先手が☗3七桂と跳ねたのは第1図で銀を引いたときからの狙い。ここから☖3一玉☗5八金☖5二金☗2九飛☖4二金右☗1六歩☖1四歩☗4八王と駒組。先手は盤面の左から攻めることになるので右玉にしたのはいい判断であったと思います。
 後手が☖2四銀と上がったのに対して先手は☗7四歩と垂らしました。成り捨てて☖同桂に☗7四歩と打つ狙いです。後手は☖6二角と打って受けました。
                                     
 自分から交換した角をこのように受け一方に打たざるを得ないのではすでに後手が苦しいのではないでしょうか。後手の序盤に大いに問題があった一局だったという印象です。
                                     
 3勝2敗で渡辺棋王が防衛第38期,39期,40期,41期,42期に続き六連覇で6期目の棋王です。

 第三部定理四九は,愛amorと憎しみodiumについて記述されています。しかしこの定理Propositioは,僕たちが自己嫌悪humilitasという感情affectusを抱く場合とも関連しています。すなわち,僕たちは自分が自由libertasであると表象するimaginariなら,自分は自由ではないと表象する場合より,自己嫌悪を感じやすくなるのです。自己満足acquiescentia in se ipsoは自己嫌悪の反対感情ですから,同様のことは自己満足の場合にも生じます。すなわち自分を自由であると表象する場合には,自分を自由であると表象しない場合より,自己満足を感じやすいのです。
 このために,自分の力potentiaの中にあることによって生じた喜びlaetitiaは,自己満足を伴いやすく,よってその喜びは正当であると判断されることになります。同様に,自分の力の中にあるけれどその力が及ばなかったことによって生じた悲しみtristitiaは,自己嫌悪を伴いやすく,この悲しみは不当であると判断されにくくなるのです。僕がこの感情を説明する例として,将棋の対局を採用したのは,この点と関連します。棋士の指し手はその棋士の力のうちにあると表象されやすい,いい換えればその棋士の自由の範疇にあると表象されやすいと思われるからです。
 この第三部定理四九を受けて,第三部定理四九備考では,人間は人間が自由であると表象するために,自由ではないと表象されるものよりも相互に愛し合いまた憎み合うようになるということがいわれていたのでした。そして僕が排他的思想を産出しやすい感情のふたつめとして検討中の憤慨indignatioは,第三部諸感情の定義二〇でいわれているように,人間に対する憎しみの一種です。よって僕たちは僕たち自身が自由であると表象する限りにおいて,憤慨という感情をとても感じやすいといえることになります。第三部定理二一の様式で僕たちのうちに感情の模倣imitatio affectuumが生じるとき,その愛する者を悲しみに刺激するもののことを僕たちは憎みます。第三部定理二二は悲しみを齎すものが人間に限定されていますが,たとえ人間でなくとも同じ論理が成立しなければならないからです。しかし人間である場合には,その人間がその人間の自由の範疇で悲しみを齎したと表象しやすいのですから,憤慨は人間以外への憤慨に類する憎しみよりも生じやすいのです。

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