スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&前日と当日

2020-08-28 19:01:51 | 将棋
 25日に指された第33期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
 丸山忠久九段の先手で角換り早繰り銀。後手の羽生善治九段は腰掛銀で対抗。先手が銀を6四まで繰り出して歩得を果たしましたが,そこまでとそれからの銀の動きによる手損のデメリットの方が大きく,作戦負けになってしまったようです。
                                        
 後手が歩を突いた局面。局後の感想によると,先手は5八の金を攻めに活用する構想を有していたようですが,ここでは破綻していたために☗6八金右と寄りました。後手も☖4三金右
 6八に金を寄ったので,☗5八飛から攻めがあればよいのですが,ここでは成立しません。ということで☗6九金と手待ち。ここから☖4五銀☗5八金☖5四歩☗6八金右☖5五歩と先手は手待ちを繰り返し,ここで☗5八飛と回りましたが☖5六銀と防がれました。
                                        
 ここで先手が待っている間に後手が有効手を指せたことにより,差がついてしまったようです。待ってカウンターを狙うというのは将棋にはある戦術ですが,どちらかといえば後手の作戦であり,先手でそういう手順に進めるほかなくなってしまった時点で,先手の作戦負けだったのでしょう。第2図から先手はカウンターの反撃に出ましたが,やや無理な攻めで,後手が勝っています。
 羽生九段が勝って1勝1敗。第三局は来月19日です。

 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』によれば,スピノザは1677年2月21日の日曜日に死にました。スぺイクHendrik van der SpyckがコレルスJohannes Colerusに証言したその日と前日のことを,詳細に確認しておきます。
 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,2月22日の土曜日に,スぺイクは妻を連れて牧師の説教を聞きに行ったとされています。ただし1677年のカレンダーを調査したところ,この年の2月は21日が日曜ですので,これは20日のことであったと思われます。スぺイク夫妻が教会から帰ったのは午後4時でした。スピノザはスぺイクの家の2階を借りていたのですが,夫妻が帰宅すると階下に降りて,煙草をふかしながらスぺイクと話をしました。スぺイクはこの日に行われた説教の話をしたとしていますが,以前にいっておいたように,スぺイクの証言というのはそのすべてを信じてはいけないのであり,この部分は聞き手のコレルスも牧師であったがゆえの発言であったかもしれません。
 土曜日の説教は翌日,すなわちスピノザの死の当日の日曜の説教の予備の説教だったそうです。21日は懺悔節前の日曜日にあたっていたとのことで,特別の行事があったようです。ですからこの日も一家は教会にいくことになっていました。スピノザはその礼拝の時間の前,朝のうちに階下に降り,スぺイク夫婦と話をしました。そしてアムステルダムAmsterdamの医師を呼んでもらいました。この医師が,伝記ではL.M.とだけ表記されています。これはスピノザの友人としてはマイエルLodewijk Meyerを指します。ですがここでの物語では,これはスぺイクの勘違いで,シュラーのことだったとしておきます。この医師はスぺイクに対し,年老いた鶏を買ってきて,朝のうちに調理をして昼にスピノザにそのスープを飲ませるように言いつけたそうです。これがどのような意味の治療であるかは僕には分かりません。とにかくスぺイクは,というかスぺイク家の人はこの言いつけを守りました。
 スぺイクは午前の礼拝を終えて帰宅しました。そのときはスピノザはそのスープに舌鼓を打っていたそうです。そして午後は一家が総出で教会に出掛けました。このときにはアムステルダムの医師すなわちここでいうシュラーは家にいました。

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