スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

クイーンエリザベスステークス&非階級性

2020-04-11 18:58:25 | 海外競馬
 オーストラリアのランドウィック競馬場で行われたクイーンエリザベスステークスGⅠ芝2000m。
 ダノンプレミアムは好発から控えて5番手の外に。逃げた馬が飛ばしていったこともあり,先頭からの差は,隊列が決まったあたりでは5馬身くらいでしたが,一時的に8馬身くらいまで開きました。直線の手前のコーナーの途中から動き出して直線では大外に。1頭が抜け出し,残り300m付近で単独の2番手に。しかしそこからは伸びを欠き,内から1頭に差されて勝ち馬から3馬身強の差で3着でした。
 この馬は能力は世界レベルにあると思います。ただ,安定した成績を残せていないことからも分かるように,自身との闘いをまず克服しなければいけないタイプ。今日はわりとまともにレースができたように思います。最後は一杯になってしまって,これはスタミナ面の問題と感じられました。久々のレースだった影響があったのかもしれませんし,あるいは本質的にはもう少し短い距離が向くタイプなのかもしれません。

 まずもって,現象学や実存主義,あるいはもっと広くみて,意識の哲学といわれる哲学一般は,ブルジョアジーの哲学であるというアルチュセールLouis Pierre Althusserの見解opinioが,正しいのかどうかが僕には不明瞭です。しかしこのことはここでは仮に成立しているとしておきましょう。このとき,内在の哲学は意識の哲学に対抗します。他面からいえば,意識の哲学を克服するためには内在の哲学が必要とされます。このことはアルチュセールというより,近藤の見解といった方が正確で,その近藤の見解が正しいことは僕も同意します。ですがだから同時に,内在の哲学がブルジョアジーの哲学をも克服するとは限らないと僕は考えます。ある思想が意識の哲学であるということと,その同じ思想がブルジョアジーの哲学であるということは異なることであり,必ず両立するとは限らないと思うからです。そしてそれと同様に,それが内在の哲学,意識の哲学に対立的な内在の哲学であるということと,それがブルジョアジーの哲学に対立する哲学であるということは,必ず両立するとはいいきれないと僕は思います。アルチュセールはマルクス主義者ですから,もしブルジョアジーの哲学に対立する哲学があるとすれば,それはプロレタリアートの哲学であるというだろうと僕は推定します。そしてこの意味で僕の考えをいえば,スピノザの哲学は内在の哲学ではありますが,プロレタリアートの哲学ではありません。より正確にいうなら,スピノザの哲学はそのような階級的な哲学ではありません。つまり,プロレタリアートの哲学でもなければブルジョアジーの哲学でもないのです。しかしそれがなぜかということは,後で,アルチュセールの党派性を一般的な仕方で批判するときに同時に説明しましょう。
                                        
 アルチュセールはゲルーMartial Gueroultのスピノザの哲学の講義が学生たちの間でグレートヒットであったということを認めていますが,同時にそのスピノザ論に不満を感じていました。そしてそれは,ゲルーのスピノザ論がアルチュセールには,非政治的にみえたからだとされています。しかしおそらく実際にアルチュセールが抱いた不満は,単にゲルーがノンポリにみえたという点にあるのではないのです。

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