スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&包容

2012-10-18 19:01:58 | 将棋
 15日と16日に指された第25期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績は渡辺明竜王が10勝,丸山忠久九段が7勝。
 振駒で丸山九段の先手。角換り相腰掛銀で先手から同型を避け,飛車を4筋に。桂馬を2五に跳ね,角を2八に打つ,わりとよくある戦型に。戦いに入っても類例がある将棋で,先手が75手目にこれまで指されていない手を出しました。
                         
 ここで▲2三歩の叩き。王で取ると桂馬を取られるので△同金。対して▲1七角とぶつけ,△同角成▲同香と交換に。▲3一角を防いで△3ニ金と寄りました。先手から角を交換しにいったのですから,本当ならここで▲4四角の筈ですが▲8一龍。△7七歩成▲同金の後,△3三角と後手がこのラインに角を打つことになりました。
                         
 これはまだ1日目の局面なのですが,先手から角を交換したものの後手の方がそれを有効に使うことになり,少しリードしているようです。先手は入玉なども視野に粘り強く指す方法があったのではないかとも思えるのですが,2日目はやや淡白な指し回しとなり,一局を通しては後手の快勝といえるような内容で終っています。夜のうちに諦めてしまったのかと感じてしまうような将棋でした。
 渡辺竜王の先勝。第二局は今月31日と来月1日です。

 では個物の観念が現実的に存在するのではなく,神の思惟の属性に包容されて存在するといわれる場合には,第二部定理九で示されている原因と結果の無限連鎖は妥当しないのかといわれれば,僕はそうではないと考えています。このことは今回の考察よりも第二部定理九そのものに関係する考察であり,実際に前回のテーマの中で詳しく分析したことですから,ここでは繰り返しません。思惟の属性に包容されて存在している個物の観念の原因と結果の連結は,それが現実的に存在している場合の個物の観念の原因と結果の連結とは,異なった連結ではあるでしょうが,それが無限連鎖をするという点では同様であるというのが僕の見解です。
 ここで再び第二部定理八系に注意を向けてみれば,実はスピノザは,僕がいっているように個物の観念が神の思惟の属性に包容されて存在するとはいってなく,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといっています。もう何度か指摘したように,スピノザの哲学では観念の総体のことを知性というのですから,これは神の無限知性が存在する限りで存在するというのと同じであると僕は理解します。いい換えれば,無限知性は思惟の属性の直接無限様態なのですから,第一部定理二一で神の思惟の属性の絶対的本性を原因とするような様態が存在する限りで,個物の観念も存在するということになります。
 僕は,それが神の思惟の属性に包容される限りで存在するというのと,無限知性が存在する限りで存在するということの間に,意味の上で重大な差異があるとは考えません。しかしこれには疑問が生じる恐れもありますので,弁明しておきますと,この系をみれば分かるように,スピノザは観念の対象ideatumについては,神の属性の中に包容されて存在するといういい方をしています。これはこの系だけでなく,第二部定理八でも同様です。しかるに第二部定理七によって,観念の秩序と観念の対象ideatumの秩序は同一でなければなりませんから,観念の対象ideatumが神の属性に包含されて存在するするなら,その観念も神の属性,つまり思惟の属性に包容されて存在するというのも妥当だというのが僕の見解です。
コメント
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