インドの狂虎の招聘に応じて海外への渡航中,不慮の航空機事故に見舞われその一命を終えることになってしまったハル・薗田。プロレスの世界では,プロモーターが選手の派遣を要請する場合,レスラー本人に要請するのではなく,別のプロモーターにブッキングを要請するのが普通です。ですからこのときも,シンから薗田に直接的な要請があったというわけではなく,シンからプロモーターである馬場の方に選手の派遣の要請があり,それに馬場が応じたと考える方が合理的です。つまり馬場とシンは,リング上では水と油のような関係で敵対していましたが,一プロモーターとしては友好な関係にあったと考えていいでしょう。
たぶんシンからは単に選手の派遣の要請があっただけで,薗田をという指名ではなかったのだろうと思います。むしろ薗田を指名したのは馬場の方。ではなぜ馬場がこのとき薗田を指名したのかといえば,それは当時の薗田が新婚だったからです。つまりこの遠征は,新婚旅行を兼ねてのものだったといえるでしょう。レスラーは巡業が多く,新婚といえども夫婦で過ごせる時間は限られていますから,馬場はそうした配慮をしたのでしょう。ですからこの遠征には薗田の新婚の奥さんも同行していまして,共に帰らぬ人となってしまいました。本当なら馬場の配慮となるところだったのですが,このときばかりはそれがむしろ仇となってしまったのです。たぶん薗田の死をだれよりも深く悲しみ,また悔いたのは,ほかならぬ馬場であったかもしれません。
馬場はこうした配慮を,所属レスラー以外にもしていました。シンのパートナーは上田馬之助でしたが,鶴見五郎も同じチームでした。この鶴見は一時期,出場停止という形で全日本プロレスを追放されていたのですが,鶴見のインタビューによると,実際にはこれは,鶴見を海外に派遣するための措置であったとのこと。これは馬場がその海外の団体に窓口を設けたいというプロモーターとしての意図もあったようですが,同時にこの時期の鶴見もまた新婚であり,その旅行も兼ねてという意味合いがあったと,鶴見自身が語っています。
月が変わって3月に入り15日の木曜日は,母の磯子中央病院の脳外科の診察日でした。脳外科の場合は午前中ですので,母が妹を作業所まで送るということができなくなりますので,この日は僕にその役が回ってきたことになります。妹の作業所の近くにホームセンターがありまして,僕はそこでついでの買い物をしてから帰宅。それが10時45分頃であったかと思いますが,このときにはすでに母は診察を終えて帰っていました。
母の帰宅が早かったので,血液検査だけをしたのかと思ったのですが,脳のCTの撮影も行ったとのこと。母が小脳出血を起こしたのは一昨年の10月のこと。その後,入院中は僕も何度か撮影されたCTの画像というのを見せてもらったのですが,確かにそれには白くなっている部分があり,そこが出血を生じた部位であるということが分かりました。その白い部分というのは,僕が何度か見せてもらっている間にも徐々に小さくなっていっていました。それはつまり,出血してしまった血液が,徐々にではあるけれども引いていっていることの証拠でした。そしてその後の経過時間というのを考えますと,もうそれは完全になくなっていてもよい頃だったようなのですが,この日の検査でもまだ残っていたとのこと。ただし,だから問題であるのかといえば必ずしもそうではなかったようで,消滅はしていないのだけれども,以前に比べて広がっているかといえばそうではないとのことでした。
母が退院してからは,僕は実際にその写真を見ているわけではありませんから,それがどの程度まで小さくなってきていて,またどの程度まで残っているのかということは具体的には分かりません。ただ,僕はこの話を聞きまして,2月に母が美容院に行ったおりに,目眩と吐き気の症状を訴え,ごく短い時間ではありましたが家で横になっていたことを連想せずにはいられませんでした。もしかしたらあのとき,非常にわずかな量ではあってもまた出血を起こしていて,その分の血液が今回の検査で撮影されていたために,それ以前より大きくなってはいないものの,この時点でも出血の痕跡が残っていたという結果が出た可能性というのも,皆無であるとはいいきれないのではないかという気がするのです。もちろんあくまでもこれは僕自身の連想にすぎないものであり,医学的な意味でそういう可能性が本当にあるのかどうかは分かりません。
たぶんシンからは単に選手の派遣の要請があっただけで,薗田をという指名ではなかったのだろうと思います。むしろ薗田を指名したのは馬場の方。ではなぜ馬場がこのとき薗田を指名したのかといえば,それは当時の薗田が新婚だったからです。つまりこの遠征は,新婚旅行を兼ねてのものだったといえるでしょう。レスラーは巡業が多く,新婚といえども夫婦で過ごせる時間は限られていますから,馬場はそうした配慮をしたのでしょう。ですからこの遠征には薗田の新婚の奥さんも同行していまして,共に帰らぬ人となってしまいました。本当なら馬場の配慮となるところだったのですが,このときばかりはそれがむしろ仇となってしまったのです。たぶん薗田の死をだれよりも深く悲しみ,また悔いたのは,ほかならぬ馬場であったかもしれません。
馬場はこうした配慮を,所属レスラー以外にもしていました。シンのパートナーは上田馬之助でしたが,鶴見五郎も同じチームでした。この鶴見は一時期,出場停止という形で全日本プロレスを追放されていたのですが,鶴見のインタビューによると,実際にはこれは,鶴見を海外に派遣するための措置であったとのこと。これは馬場がその海外の団体に窓口を設けたいというプロモーターとしての意図もあったようですが,同時にこの時期の鶴見もまた新婚であり,その旅行も兼ねてという意味合いがあったと,鶴見自身が語っています。
月が変わって3月に入り15日の木曜日は,母の磯子中央病院の脳外科の診察日でした。脳外科の場合は午前中ですので,母が妹を作業所まで送るということができなくなりますので,この日は僕にその役が回ってきたことになります。妹の作業所の近くにホームセンターがありまして,僕はそこでついでの買い物をしてから帰宅。それが10時45分頃であったかと思いますが,このときにはすでに母は診察を終えて帰っていました。
母の帰宅が早かったので,血液検査だけをしたのかと思ったのですが,脳のCTの撮影も行ったとのこと。母が小脳出血を起こしたのは一昨年の10月のこと。その後,入院中は僕も何度か撮影されたCTの画像というのを見せてもらったのですが,確かにそれには白くなっている部分があり,そこが出血を生じた部位であるということが分かりました。その白い部分というのは,僕が何度か見せてもらっている間にも徐々に小さくなっていっていました。それはつまり,出血してしまった血液が,徐々にではあるけれども引いていっていることの証拠でした。そしてその後の経過時間というのを考えますと,もうそれは完全になくなっていてもよい頃だったようなのですが,この日の検査でもまだ残っていたとのこと。ただし,だから問題であるのかといえば必ずしもそうではなかったようで,消滅はしていないのだけれども,以前に比べて広がっているかといえばそうではないとのことでした。
母が退院してからは,僕は実際にその写真を見ているわけではありませんから,それがどの程度まで小さくなってきていて,またどの程度まで残っているのかということは具体的には分かりません。ただ,僕はこの話を聞きまして,2月に母が美容院に行ったおりに,目眩と吐き気の症状を訴え,ごく短い時間ではありましたが家で横になっていたことを連想せずにはいられませんでした。もしかしたらあのとき,非常にわずかな量ではあってもまた出血を起こしていて,その分の血液が今回の検査で撮影されていたために,それ以前より大きくなってはいないものの,この時点でも出血の痕跡が残っていたという結果が出た可能性というのも,皆無であるとはいいきれないのではないかという気がするのです。もちろんあくまでもこれは僕自身の連想にすぎないものであり,医学的な意味でそういう可能性が本当にあるのかどうかは分かりません。