ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 津久井進著 「大災害と法」 岩波新書

2013年03月06日 | 書評
大災害の被災対応と復旧・復興に法の課題とはなにか 第6回

第2部 「災害サイクルと法」 (3)
3) 次に復興期の法制度を見て行こう。阪神淡路大震災のときもそうであったが、「復興の定義がない」、「復興の法がない」という災害基本法の大きな欠陥に直面した。復興は「災害対策基本法」の射程外であったといわざるを得ない。法学者の集まりでも「復興」の議論は進んでいない。それはあるべき社会の姿を示す価値観の問題から一義的な結論は出ないのである。町づくりを支える法制度としては、「建築基準法」、「都市計画法」(1966年)、「都市再開発法」(1969年)、「土地区画整理法」(1954年)などがある。これらは通常時の町づくりの仕組みであるが、災害時に活用される都市整備法制度として「都市再開発法」、「土地区画整理法」が利用できそうである。阪神淡路大震災後の長田地区の復興を見ると、高いビルの林立する町に変わったことが果たして是か非か議論が起きる。法制度からみるとどうしてこうなるのかは、法の誘導策が働いているからである。国からの補助率の高い制度を選択することが優先され現場と住民のニーズは置き去りにされた。事業主体の神戸市の強いリーダーシップが働く仕組みで、地域や町は政策の客体にしか過ぎない。事業のみが強調されコミュニティを形成する要素は忘れられた。「土地区画整理法」では保留地を作り出すために自分の土地の一部を提供する「減歩」があり、「照応の原則」で価値増加によるその分だけ土地が減る仕組みなっていた。被災地を立体的に利用するために「都市再開発法」は住民の持つ土地は新しいビルの一部分に置き換えられる第1種開発「権利変換方式」と第2種開発「管理処分・用地買収方式」があり、第2種の場合は住民は買収・収用後に地域から離れてゆく現実もあった。1997年「被災市街地復興特別措置法」が制定された。早期の住宅建設のために共同住宅などの建設を容易にすることが目的であった。神戸市は建築制限期間が2年と長い事を嫌って同法の適用を見送った。東日本大震災後、2011年「市街地における建築制限の特例に関する法律」が制定され、最長8ヶ月に緩和された。津波対策の住宅集団移転問題に対処するには、「防災のための集団移転促進事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」(1972年)が活用できる。過去には新潟県中越地震で115戸、奥尻島津波災害で55戸、三宅島噴火では301戸などの実績がある。集落の自主性を重んじ強制を排するため政令で集落の単位は5戸と緩和されている。
(つづく)

読書ノート アダム・スミス著 「国富論」 中公文庫(1-3冊)

2013年03月06日 | 書評
古典経済学が説く社会的生産力の構造と近代自由主義 第46回

第5篇 国家の収入(財政策)
第1章 主権者または国家の経費について(1)


 第5篇(中公文庫Ⅲ 第3分冊)は18世紀後半(江戸幕府末期ー明治初期)の英国国家財政を論じる。第1章は国家の支出についてであるが、その述べることはかって小泉首相の「民の出来ることは民でやればいい」ということに尽きる。スミスはサッチャー・レーガンの新自由主義路線の「小さな政府」とこそは言わないが、政府機能を防衛と教育を除いては「百害あって一利なし」といわんばかりの論を展開する。逆に言ってしまったが、グローバル資本主義は資本の自由を最大限に発揮する新自由主義のことでスミスの古典経済学と自由主義思想の継承者である。新自由主義とは政治的には共産主義が崩壊して後の資本の1人勝ちを反映し、分配が資本側に大きく偏ってしまった資本主義の独壇場として経済行為者の単純化につながった。その根拠を経済学理論としてスミスの「古典経済学」においているといえよう。第1章国家の経費については、第1節「軍事費」、第2節「司法費」、第3節「社会資本/インフラ整備、教育制度」、第4節「儀礼費」(つまらないので省略する)と項を分けて解説するが、いまさら言っても仕方ないが福祉に関する国家費用、国家・地方行政費用や国会政治運営費用、財政投融資など特別会計が皆目見当たらないのは歴史的限界であろうか。スミスの時代としては欧州主要国は植民地戦争ばかりやっていたので国家財政が破綻していたこと、労働貧民にたいする福祉などはもともと考慮の外にあったのであろうか。反対に英国国教会維持のための費用ばかりを熱心に議論しているのは、政教分離のいまとしては逆に奇異に映る。スミスはこの章で「安価な政府」を主張したかったようであるが、今の我々としては問題を単純化することはかえって誤る事を知るべきである。
(つづく)

文芸散歩  金田鬼一訳 「グリム童話集」 岩波文庫(1-5冊)

2013年03月06日 | 書評
ドイツ民俗研究の宝庫「児童と家庭向けのおとぎばなし」 第67回

* KHM 107  旅あるきの二人の職人
 かなり長い話の展開となっています。筋の破綻もなくうまくできた話です。人間社会には善玉と悪玉が一緒にぶつかり合うことが多い。仕立て屋さんは陽気で気前がよく仕事にむらがありません。また神様への信心も深いひとです。一方靴屋さんは斑気で仏頂面で人を哀れむ心というものをもっていません。また神様を自分の心から追い出してしまった男です。この二人がひょんなことから一緒に旅をすることになり都を目指して仕事探しに出かけました。森を抜けて都へ行く路が二つに分岐しており、仕立て屋さんは持ち前の陽気さと楽観さから2日分のパンしか持ってゆきません。靴屋は悲観さから7日分のパンを持ちました。選んだ道は7日かかる道です。3日目には仕立て屋さんのパンはなくなり、5日目の朝あまりにひもじさから、靴屋にパンを分けて欲しいと頼みました。靴屋は意地悪心でパンと右の目を交換しました。それで7日目の朝もやはり靴屋にパンを分けてくれというと、靴屋はパンと左目と交換しました。こうして仕立て屋はめくらとなり、置いてけぼりにされ絞首台の下でくたばっていました。すると絞首台の二人の死体が話しているのが聞こえます。死体の露を目に付けると目が甦るというので、そうすると仕立て屋さんの目が回復し、歩いて都へ向かいました。途中栗毛の子馬やコウノトリや小鴨、女王蜂らに哀れみをかけ命は奪いませんでした。都に入った仕立て屋さんは仕事口が見つかり、1日1日評判が上がりました。仕事振りがいいので王様の耳に入り、王室に出入りする仕立て屋さんになりました。靴屋も王室のお抱え靴屋でいましたので、仕立て屋を妬んで王様に讒言をし、その度に命を助けた動物の力で切り抜け、王様の長女と結婚しました。靴屋は都から追放され、絞首台の下でカラスによって両目をくりぬかれたというお話。
(つづく)