市民に分かるようにケインズ「雇用・利子及び貨幣の一般理論」を解読する 第10回
第3講 「ケインズのヴィジョン」(1)
この第3講において、宇沢氏は聴講生に見通しを与えるため、ケインズ「一般理論」の目指すところ、古典派との相違点、ケインズの最大の特徴である「有効需要の原理」を解説する。いわば第3講は本書のエッセンスであり、第5講以降は経済諸要因の各論であると言ってもいい。ケインズは現代資本主義の制度的特徴を、資本(企業)、労働者、利子生活者の3つでとらえた。利子生活者という言い方は不在地主とおなじく現在では殆ど意味をなさないので、資本、労働(家計)の2つが私的経済の主体である。これにたいして古典派の理論は市場経済を構成する経済主体はあくまで個人である。したがって古典派の理論は合理的な基準によって行動する個人行動への分解可能性を前提としている。企業には生産設備、知的人的資源、生産技術・マーケットに関するノーハウなどの無形資産らは、市場的な条件が急変しても簡単には処分・組み換えは出来ないという有機的組織の固定的生産要素から成り立っている。これに対して古典派が想定する企業体は融通無碍の変化体とされ、その時々の市場条件において、利潤が最も大きくなるように遅滞なく瞬時に組み合わせをかえる集合体として捉えられる。企業の経営者は変化を読み企業の形を変えるカメレオン的な能力が要求されているが、現実はそうはゆかない。企業の法的所有権は株主にあり、企業の具体的な経営には直接コントロールできない。私的企業における経営と所有の分離は「法人資本主義」ともいわれ、株式会社は日本では独立した意思体である。生産設備を所有するのも個人ではなく企業である。アメリカなど新古典派が想定する個人から離れた企業ではこのような経営と所有の分離は起らないとされている。
企業の投資活動は将来の市場の条件(短期期待と長期期待)を予想して、長期的な計画を立てることである。秦古典派はすべての現象について人々が確実な知識を持って行動している(合理的期待形成仮説)とするに対して、ケインズの世界は将来の事象のもつ不確実性が人々の行動にどのような影響を与えるかに注目する。完璧に将来を予期できなければ、合理的判断などありえないから古典派の理論は「ありまほしき仮説」という無理なツッパリに見える。現実が期待したとおりに実現する保証は無い。ここに資本主義制度の下における経済循環のメカニズムが必ずしも安定的では無いとする要因が隠されているとケインズは見た。古典派は期待について考察してこなかったし、投資という計画もない。条件が変わるとすべての要因は自動的に新たな平衡を目指して変化するいわば「自動制御理論」(神の手)みたいなもので、恐慌などは多少のダンピングを伴った過渡現象(摩擦)と理解していた。高度な発展を遂げた資本主義制度では投資を決定するのは企業であり、消費・貯蓄性向を決定するのは家計(労働)である。異なった動機に基づいて投資と消費が行なわれ、それが流動性の高い金融資産を介して行なわれるため、国家の果す役割も大きい現代資本主義の枠組みは複雑怪奇な様相を示すというケインズ流経済学の見方である。
(つづく)
第3講 「ケインズのヴィジョン」(1)
この第3講において、宇沢氏は聴講生に見通しを与えるため、ケインズ「一般理論」の目指すところ、古典派との相違点、ケインズの最大の特徴である「有効需要の原理」を解説する。いわば第3講は本書のエッセンスであり、第5講以降は経済諸要因の各論であると言ってもいい。ケインズは現代資本主義の制度的特徴を、資本(企業)、労働者、利子生活者の3つでとらえた。利子生活者という言い方は不在地主とおなじく現在では殆ど意味をなさないので、資本、労働(家計)の2つが私的経済の主体である。これにたいして古典派の理論は市場経済を構成する経済主体はあくまで個人である。したがって古典派の理論は合理的な基準によって行動する個人行動への分解可能性を前提としている。企業には生産設備、知的人的資源、生産技術・マーケットに関するノーハウなどの無形資産らは、市場的な条件が急変しても簡単には処分・組み換えは出来ないという有機的組織の固定的生産要素から成り立っている。これに対して古典派が想定する企業体は融通無碍の変化体とされ、その時々の市場条件において、利潤が最も大きくなるように遅滞なく瞬時に組み合わせをかえる集合体として捉えられる。企業の経営者は変化を読み企業の形を変えるカメレオン的な能力が要求されているが、現実はそうはゆかない。企業の法的所有権は株主にあり、企業の具体的な経営には直接コントロールできない。私的企業における経営と所有の分離は「法人資本主義」ともいわれ、株式会社は日本では独立した意思体である。生産設備を所有するのも個人ではなく企業である。アメリカなど新古典派が想定する個人から離れた企業ではこのような経営と所有の分離は起らないとされている。
企業の投資活動は将来の市場の条件(短期期待と長期期待)を予想して、長期的な計画を立てることである。秦古典派はすべての現象について人々が確実な知識を持って行動している(合理的期待形成仮説)とするに対して、ケインズの世界は将来の事象のもつ不確実性が人々の行動にどのような影響を与えるかに注目する。完璧に将来を予期できなければ、合理的判断などありえないから古典派の理論は「ありまほしき仮説」という無理なツッパリに見える。現実が期待したとおりに実現する保証は無い。ここに資本主義制度の下における経済循環のメカニズムが必ずしも安定的では無いとする要因が隠されているとケインズは見た。古典派は期待について考察してこなかったし、投資という計画もない。条件が変わるとすべての要因は自動的に新たな平衡を目指して変化するいわば「自動制御理論」(神の手)みたいなもので、恐慌などは多少のダンピングを伴った過渡現象(摩擦)と理解していた。高度な発展を遂げた資本主義制度では投資を決定するのは企業であり、消費・貯蓄性向を決定するのは家計(労働)である。異なった動機に基づいて投資と消費が行なわれ、それが流動性の高い金融資産を介して行なわれるため、国家の果す役割も大きい現代資本主義の枠組みは複雑怪奇な様相を示すというケインズ流経済学の見方である。
(つづく)