ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 津久井進著 「大災害と法」 岩波新書

2013年03月10日 | 書評
大災害の被災対応と復旧・復興に法の課題とはなにか 第10回

第3部 「法の課題」 (3)
 個人情報保護法制(2003年「個人情報保護法」、2003年「行政機関・独立行政法人の保有する個人情報の保護に関する法律」)は、IT化の情報社会において個人情報の適切な管理をするための、一定の理由が無い限り「目的外使用」や「外部提供」をしてはならないというもので、被災者の支援においてはこれが問題となった。救助すべき障害者を教えてもらえない、避難者同士の連絡をつけようとしても連絡先を教えてもらえないとか、一人住まいの高齢者が把握できないといった事例である。これらの法制は「個人の権利・利益を保護することが目的」であるはずだが、これによってかえって権利や利益が損なわれる危険性があるというのだ。災害時に各種福祉団体に個人情報を教えることを「外部提供」というが、原則として外部提供には本人の同意が必要である。2006年厚生省・総務省「災害時要援護者の批難支援ガイドライン」では個人情報収集の方法として、「手上げ方式」、「同意方式」、「関係機関共有方式」であった。行政機関としては持っている個人情報を共有しあう方式が一番スムーズである。行政は業務委託先できることになっているので、あらかじめ諸団体に支援業務を委託いておけばいいことになる。いずれにせよ官には個人情報が把握できるが、災害時の民間支援団体のアクセスのハードルは高い。阪神淡路大震災後、兵庫県西宮市は住民台帳から被災者検索システムを開発し罹災証明書発行に役立ったという。

 阪神淡路大震災では市民ボランティアが芽生え、延べ約200万人がボランティア活動に参加したという。1995年はボランティア元年といわれ、1月17日は「防災とボランティアの日」と定められた。ところが東日本大震災では最初から官僚統制が露骨で、メディアなどはボランティアを厄介者扱いをしてきた。日本の東と西ではかくもボランティア文化が異なっている。1998年「特定非営利活動促進法(NPO活動促進法)」が制定された。災害ボランティアの本質は。「自由」、「自立」、「利他」にある。決して行政の末端ではなく、自立性を欠いた活動(創造性を欠いた活動)に成り下がってはいけない。政府の政策審議をスムーズにするための官制NGO(政府系NGO?)であってはならない。かゆいところに手が届く、官が考えられもしないはっと驚くような提案と実績を挙げるNPOでなければ意味が無い。「官統制下における手弁当持参の日雇い労務者」のようなボランティア扱いはあまりに惨めでは無いか。ただし東日本大震災ではボランティア活動を支える資金を募金する活動と労働寄付が融合した中央共同募金会の活動はボラアンティアに18億円の助成を行った。2011年6月NPO活動促進法の改正と新寄付税制が相次いで成立した。認定NPOの条件を緩和し、法人認定を国税庁から都道府県がすることになった。個人寄付の税額控除が行なえるようになった。災害対応における女性参加はあいかわらず低調で、各種委員会や会議の女性参加率は5%以下である。2005年の防災基本計画には始めて「男女双方の視点」が盛り込まれた。
(つづく)

読書ノート アダム・スミス著 「国富論」 中公文庫(1-3冊)

2013年03月10日 | 書評
古典経済学が説く社会的生産力の構造と近代自由主義 第50回

第5篇 国家の収入(財政策)
第1章 主権者または国家の経費について
[3節:公共事業及び教育](3)


 第2項「青少年教育のための施設の経費について」においてスミスは、殆ど私立学校論を展開しているようである。青少年教育こそは国家の重要な義務だといいながら、今日の無償義務教育ではなく、有償(授業料をとり)で学校と教師の競争を原理とする私学校万能論である。(アメリカでは私学校が発展していたが、日本では明治以来富国強兵の国民作りのために、ドイツ学制を採用し義務教育でスタートしたことが学制の歴史であった) そういう意味ではスミスの教育制度はアメリカ式に近いかもしれない。教育施設は寄付財産によってまかなえるが、これは教育のためにはよくないという。人は人生の成功を目指して目標を立て努力するものであるが、それが最初から成功や評判と無関係な基金から出ていると対抗と競争心が働かないからである。教師の報酬の大部分が生徒の謝礼ではなく俸給から出ていると、職務精神が利害関心に向かず義務を忘れてしまうからだ。全額俸給で養われる大学教師は自分の義務をなおざりにし、他人がなおざりにしても寛容精神を発揮する。大学を外部から管轄するという制度でも、理事らの無関心と気まぐれから管理が行なわれるとは期待できない。大学卒業の特権が在学したというだけでもらえるとか、教師の評判とは無関係に一定数の学生を入学させるという諸制度は、かならず大学間・教師間の自由競争を阻害する。13歳以上の学生には強制や拘束は殆ど教育的意味を持たないからである。公立学校でも授業料に依存していて特権を持たない場合は、比較的腐敗は少ない。大学よりはるかに腐敗は少ない。古代ギリシャ・ローマ時代には有名な哲学・法学者の私学しか存在しなかったが、中世以降大学は宗教と聖書を読むためのギリシャ語・ラテン語の語学しか教えなかった。スミスが古代教育賞賛論に赴くのは、無制限な競争が、かならず掻き立てずにはやまない対抗心が最高度のレベルに引きかげるという競争万能論を信奉しているからだ。しかし近代社会の分業という単純労働のため庶民は必ず堕落するものであり,、これを防ぐために国が教育を行なう意義があるという。このあたりのスミスの論理は間違っている。国家の関与の意義と分業の弊害と堕落論はこじつけである。近代産業は庶民を白痴にするという暴論には根拠は無い。逆に高度な知識と経験のみが近代産業の発展には欠かせないというべきでそこに教育の意義があるというべきではないだろうか。
(つづく)

文芸散歩  金田鬼一訳 「グリム童話集」 岩波文庫(1-5冊)

2013年03月10日 | 書評
ドイツ民俗研究の宝庫「児童と家庭向けのおとぎばなし」 第71回

* KHM 104  ちえのある人たち
 お百姓の親父が旅に出ることになり、女房に牝牛3頭を200ターレル以上で売ることを言いつけます。この女房は少しおつむが足りないところがあって親父は心配でなりません。暫くして牛飼いが女房のところにやって来て、いい値で牝牛3頭を買いたいが今金を持ってきていないので1頭を担保において2頭を引き取るといった。女房はすっかり得した気分になったが、亭主が帰ってくるとペテンにかかったことでひどく怒られた。呆れ果てた亭主は内の女房以上の馬鹿を探しに村道に出たところ、百姓のおかみさんに自分は天国から来たとうそを言って、天国にいるおかみさんの亭主にお金を届けるといって騙し取った。又それをきいたおかみさんの息子が馬に乗ってお百姓の亭主を追いかけると、その馬も巻き上げた。「ばかちゅうことが、いつもかもこんなに儲けさせてくれる、おばか様だわい」といってほくそ笑んだ。人はいつも馬鹿を食って世渡りをするものらしい。市場経済原則を聞くような、一寸いやな気分となる話。

* KHM 105  蛇のお話・ひきがえるのお話
 小さな子どものお昼はいつも牛乳とパンです。お庭に坐ってお食事中に、いつも壁から、頭に輪型の対いた蛇が出てきて子どもに牛乳を戴いていました。それを見た母親が薪でもって蛇をたたき殺しました。それ以来子どもの成長は止まり、次第にやせ衰えて死んでしまいました。ヘッセン地方のウンケ(環紋蛇)のお話です。ウンケは地方・時代によって蛇であったり、カエルであったりします。
(つづく)