ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 津久井進著 「大災害と法」 岩波新書

2013年03月02日 | 書評
大災害の被災対応と復旧・復興に法の課題とはなにか 第2回

第1部 「法のかたち」(1)
 災害対応の法制度の「そもそも論」であり、第1章で歴史的にたどり、江戸時代から東日本大震災までを総覧する。第2章「災害法制の仕組み」では法の構成、日本の防災中心主義法制、諸外国の災害法制を総覧する。まず災害法制度の歴史をみてゆこう。江戸時代以前には義援金を備蓄する「義倉」、避難・福祉施設「悲田院」などがケースごとに見られる程度で、教訓を一般的に制度化する「法の整備」には至らなかった。江戸時代に入ると、享保.・天明・天保の大飢饉のときには、幕府は米の支給をおこなう「御救米」、被災民らに仕事を与え賃金を支給する「御救普請」、仮設小屋・避難所にあたる「御救小屋」、見舞金の支給にあたる「御救金」、町会費から災害準備金を積み立てる「7分金積み立て制度」などの制度的救済措置がとられるようになった。明治政府の近代政策と富国強兵の中央集権体制が整えられる中で、災害対策も中央政府が行なう形で、1880年「備荒儲畜法」が最初の災害救助法となった。しかし1999年「罹災救助基金法」により責任主体は地方府県に移った。1923年関東大震災は死者行方不明者15万人を出す未曾有の大惨事となった。政府は国民を救助するのではなく戒厳令下治安支配を重視したため、大惨事にあわせて虐殺が官憲の手で行なわれた。戦中から戦後にかけて大規模災害があいついだ。1946年11月発布の日本国憲法にあわせて災害法も大きく変わった。まず、昭和南海地震をきっかけに1947年「災害救助法」、カスリーン台風をきっかけに1949年「水防法」、福井地震をきっかけに1950年「建築基準法」が制定された。伊勢湾台風を契機に戦後の防災対策の転換点となる、「災害対策基本法」が1961年、1962年に「激甚法」が制定された。

 高度経済成長期1960年代から1970年代は大災害の少ない比較的平穏な時代であった。豪雪、火山被災にたいして、1962年「豪雪地帯対策特別措置法」、桜島噴火を契機に1973年「活動火山対策特別措置法」が制定された。新潟地震を契機に保険が見直され1966年「地震保険に関する法律」が制定された。羽越豪雨水害を契機に1973年「災害弔慰金法」が制定された。宮城沖地震を契機に建物の耐震基準の見直しがおこなわれ1981年「建築基準法」の改正が行なわれた。そして1990年代は日本中で地震や噴火などの災害が立て続きに起きた。1991年雲仙普賢岳噴火災害、1993年、奥尻島津波災害、そして1995年1月阪神・淡路大震災と続いた。阪神・淡路大震災は6400人の死者をだし、25万棟の全半倒壊延焼となった。住宅問題では借地・借家問題、住宅政策の問題、住宅再建支援の問題を主とした都市型災害であった。二重ローン問題や孤独死問題が大きく社会問題となったが解決の道はなかった。この時点では政府は、「自然災害による損害に政府の責任はなくあくまで個人の問題である」という見解に終始した。1998年「被災者生活再建支援法」が制定され救済の道が出来た。東海村JOC臨界事故を契機に1999年に「原子力災害対策特別措置法」が制定されたが、2011年3月の東日本大震災が待っていた。東日本大震災では死者行方不明者1万9000人をだし、福島第1原発では大量の放射能漏れが発生した。災害後1年間で45の法律が急遽制定された。この国の行政は人が死ななければ動かないらしい。警察は犯罪が起きなければ発動しないのと同じである。
(つづく)

読書ノート アダム・スミス著 「国富論」 中公文庫(1-3冊)

2013年03月02日 | 書評
古典経済学が説く社会的生産力の構造と近代自由主義 第42回

第4篇 経済学の諸体系(重商主義)
第7章 植民地について (4)

 アメリカ植民地および東インド航路よりヨーロッパが収めた利益について総括しよう。アメリカ植民地からヨーロッパが得た利益は、財貨の増加と産業の発展であるが、母国の排他的貿易はこれを阻害したといえる。植民地の大量の生産物はヨーロッパという一大貿易圏に年々投入され、ヨーロッパ諸国民に財貨(消費物資)を分配した。通常の植民地からの母国が取得する利益とは兵力の供出と税収であるが、アメリカ植民地から母国の防衛に為に兵力を供出した例は一度もない。軍隊の分担金を負担したのはスペインとポルトガルの植民地だけに過ぎない。つまり植民地とは母国にとって出費の原因でこそあれ、税収増加の実利とはならなかった。また母国が植民地から取得する特殊利益は排他的独占貿易であるが、これも外国資本が参入できないため独占のためかえって結果は不利となる。独占貿易は自由貿易のもとでの生産物が到達するレベルに引き上げることは出来なくて、他国の産業や生産を抑圧することによる利益を超えられないからである。イングランドだけの資本では植民地が必要とする財貨の一切を供給することは出来ない。さらにイングランドの資本は植民地の余剰生産物を買い上げなくてはならない。独占の結果イングランド母国では他の産業から資本を引き上げ、植民地貿易へ資本を投入しなければならない。独占は増加したイングランドの資本を近隣の市場から遠隔の植民地貿易に向けさせ、貿易の方向を転換したのである。独占貿易は通常の他国との貿易に比べて高い利潤率を維持することが出来たが、他面でヨーロッパ貿易や地中海貿易では不利な立場に立つことになった。また遠隔の植民地貿易は資本の回転率が低くなり(近隣貿易では年2―3回の回転が可能だが、遠隔貿易では2,3年に1回程度となる)、リスクという点でも国内消費物の直接貿易より遠隔地の迂回貿易は不利である。こうして資本は国内消費物直接貿易から極めて効率の低い植民地遠隔迂回貿易の方向へ向かった。
(つづく)

文芸散歩  金田鬼一訳 「グリム童話集」 岩波文庫(1-5冊)

2013年03月02日 | 書評
ドイツ民俗研究の宝庫「児童と家庭向けのおとぎばなし」 第63回

* KHM 99  ガラス瓶の中のばけもの
木こりは一生懸命働いて稼いだお金で息子を上の学校で勉強しましたが、とうとうお金も尽きて息子は学校を辞め、ふたりで森には入り木をきることになりました。作業のお昼に息子は小鳥を探しに森を歩きましたが、太い柏の木のあたりから「だしてくれ」という声を聞きました。木の根っこに小さな瓶を見つけ、その中に得体の知れないものがいました。息子が瓶の栓を開けてやると、瓶の中から妖怪が現れ大きな化け物となりました。そして化け物は息子の首をひねってやると騒ぎ出すので、息子は知恵者で、もし本当に化け物なら元の小さいな者に戻れるはずだといって、それに乗せられた化け物を再び瓶の中に閉じ込めました。妖怪は息子にわびて再度出してもらえるなら一生涯困らないものを差し上げるといいました。妖怪がくれたものは薄汚い布切れですが、どんな傷も直し、それで拭くと物が銀になるという。こうしてお父さんの家は裕福となり、息子もどんな傷をも治す名医となりました。

* KHM 100  悪魔のすすだらけな兄弟分
 除隊となった兵隊さんが森の中で悪魔のこびとに出あいました。一文無しの兵隊さんは悪魔の提案に乗りました。一生涯生活を楽にしてやる代わりに、7年間地獄で死人の釜ゆでの火の番と家の清掃・ごみだしの奉公をするというものでした。そしてその間体を洗ったり髪にくしを入れてはならないという条件もありました。7年間きっちり奉公を果した兵隊さんは悪魔から背嚢いっぱいにゴミを詰めてもらい、帰路に人に聞かれたら「悪魔のすすだらけの兄弟分でオイラの王様」と答えるよう指示されました。地上に上がった瞬間に背嚢の中身は黄金に化けていました。体を洗ったり髪にくしを入れてはならないという条件の意味はいまいち不明です。
(つづく)