市民に分かるようにケインズ「雇用・利子及び貨幣の一般理論」を解読する 第7回
第2講 第1篇「序 論」 (2)
これから一般理論の解説には図、数式は一切使わないことにする。図や数式で誤魔かされてはならない、言葉で納得できなければならないと思うからである。古典派の「一般均衡」の状態では、労働について需要と供給が一致するだけではなく、すべての財やサービスについて需要と供給が実現し、生産者は利潤が最高になるように生産活動を行い得りたいと思うだけの涼を販売することが出来るという。この均衡を「ワルラス均衡」と呼ぶ。ケインズはビグーを批判の対象とするというが、ワルラスの一般均衡理論の考えが批判の対象なのである。1929年の大恐慌のとき、完全競争的市場を通じて資源配分が行われるとき、社会的に見て最適な資源配分が行われるので、政府の介入は無効であると云う見解が古典派から出された。古典経済学の第1公準は生産曲線を基にしている。労働雇用量を変数とする生産量は数学関数的アナロジーを使って、曲線の関数表現も根拠もなく、労働者あたりの生産量が最大となる変曲点において利潤(生産)が最高となるとしているが、理科系の私にはこれを自明と認めることはどうしてもできない。ケインズは古典派のいう労働雇用や生産要素は遅滞なく可変的であることに疑問を呈し、生産要素は過去の投資によってきまる固定的な要素であり、新たな状況での投資変更がなければ即応でき似るものではないとする。ここに時間という要素が入るが、一定の時間(現実には生産構成変更には1,2年かかる)を経れば均衡に達するかといえば、それはまた新たな状況への過渡的な過程で何が主要な要素となるか予測不可能性がある。古典派の第2公準は労働の供給についてである。限界非効用と実質賃金とが等しくなるという考えであるが、労働時間を変数とする実質所得曲線を労働の供給曲線を右上がりの曲線を想定していることにみそ(うそ)がある(現実は労働時間が多くなっても賃金は頭打ちする逓減曲線、ルート√曲線になるはず)。企業は利潤が最大となる水準で労働を雇用し、労働者は自ら選択した労働時間(日数)だけ働くことが出来る。これは完全雇用の考えである。古典派は摩擦的(一時的雇用調整)失業と自発的失業が基本であるとする点はケインズが批判するところである。ケインズは第1公準はそのまま認めるが(スパンを長く考えれば)、第2公準は否定する。
(つづく)
第2講 第1篇「序 論」 (2)
これから一般理論の解説には図、数式は一切使わないことにする。図や数式で誤魔かされてはならない、言葉で納得できなければならないと思うからである。古典派の「一般均衡」の状態では、労働について需要と供給が一致するだけではなく、すべての財やサービスについて需要と供給が実現し、生産者は利潤が最高になるように生産活動を行い得りたいと思うだけの涼を販売することが出来るという。この均衡を「ワルラス均衡」と呼ぶ。ケインズはビグーを批判の対象とするというが、ワルラスの一般均衡理論の考えが批判の対象なのである。1929年の大恐慌のとき、完全競争的市場を通じて資源配分が行われるとき、社会的に見て最適な資源配分が行われるので、政府の介入は無効であると云う見解が古典派から出された。古典経済学の第1公準は生産曲線を基にしている。労働雇用量を変数とする生産量は数学関数的アナロジーを使って、曲線の関数表現も根拠もなく、労働者あたりの生産量が最大となる変曲点において利潤(生産)が最高となるとしているが、理科系の私にはこれを自明と認めることはどうしてもできない。ケインズは古典派のいう労働雇用や生産要素は遅滞なく可変的であることに疑問を呈し、生産要素は過去の投資によってきまる固定的な要素であり、新たな状況での投資変更がなければ即応でき似るものではないとする。ここに時間という要素が入るが、一定の時間(現実には生産構成変更には1,2年かかる)を経れば均衡に達するかといえば、それはまた新たな状況への過渡的な過程で何が主要な要素となるか予測不可能性がある。古典派の第2公準は労働の供給についてである。限界非効用と実質賃金とが等しくなるという考えであるが、労働時間を変数とする実質所得曲線を労働の供給曲線を右上がりの曲線を想定していることにみそ(うそ)がある(現実は労働時間が多くなっても賃金は頭打ちする逓減曲線、ルート√曲線になるはず)。企業は利潤が最大となる水準で労働を雇用し、労働者は自ら選択した労働時間(日数)だけ働くことが出来る。これは完全雇用の考えである。古典派は摩擦的(一時的雇用調整)失業と自発的失業が基本であるとする点はケインズが批判するところである。ケインズは第1公準はそのまま認めるが(スパンを長く考えれば)、第2公準は否定する。
(つづく)