ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 津久井進著 「大災害と法」 岩波新書

2013年03月11日 | 書評
大災害の被災対応と復旧・復興に法の課題とはなにか 第11回 最終回

第3部 「法の課題」 (4)
 今回の東日本大震災では基礎自治体が損害を受けて災害対応に限界がある事が示された。といって国のトップダウンで各地の実情を知らない中央官庁が指揮できるとはとても考えられない。被害が深刻化した原因の一つに自治体の基本能力の不足という実情があった。地方自治体の財政国庫負担割合は宮城県が41%、岩手県は47%、福島県は40%であった。これでは地方自治とか権限委譲とは名ばかりで、総務省と財務省の強い監督下にある倒産会社と同じ扱いである事は先に述べた。 市町村は県を向き、県は霞ヶ関を向いて仕事をしている。国の事業の下請けに徹した公共工事中心の市町村行政では人的・物的な自治体機能が育たなかった戦後の悪弊の結果である。中央からの仕事の仕分けと解釈と報告に追い回されてきた地方の役人に、抜本的な主体的な仕事が出来るとは思えない。地方が力をつけるのはまだかなりの時間が必要である。アメリカは独立以来地方政府(州)によって国作りが行なわれ、日本は明治以来国によって国作りが行なわれた。中央集権制で知事さえ戦前までは官僚の任命によった。(今でも知事の半分は官僚出身である。形式的には選挙を経ているが) したがって地方政府という考えも存在せず、地方は中央の下請け機関とみなされてきた。
(完)

読書ノート アダム・スミス著 「国富論」 中公文庫(1-3冊)

2013年03月11日 | 書評
古典経済学が説く社会的生産力の構造と近代自由主義 第51回

第5篇 国家の収入(財政策)
第2章 社会の一般収入あるいは公共収入の財源について(1)


 統治に必要な経費をまかなうべき収入は、主権者に属する国民の収入とは独立した何らかの基金からか、あるいは国民の収入からの2つの道がある。主権者に属する基金或いは財源とは、簡単に言えば小さな王国であれば王の持つ個人的な資産である土地や資本の事である。小さな共和国でもかなりの収入を商業的利益からあげることもできた。公立銀行の利潤、郵便事業などがあるが、貴族制の行政で注意深く商業を経営することが全く期待できないし、たとえ成功しても君主の浪費はたちまち食いつくし、君主の代理人の横領など腐敗がつきものである。従って大国家の政府で、公共収入の大部分を資本や信用という財源から引き出すことはかってあったためしはない。国民が土地から引き出す収入とは地代ではなく土地の生産物に比例することは明白である。そこで大きな政府は国民の収入を当てにした租税という道をとる。租税は地代、利潤、賃金から支払われるか、これら3つの収入すべてから無差別に(消費税など)支払われるのである。租税には4原則がある。①公平(各人の負担力に比例する) ②明確(確定的に決められ、恣意性がないこと) ③納税の便宜(納め易い時期、方法で) ④徴集費の節約(圧政的でなく、検査・書類の手数の簡略、迷惑をかけないなどである) そして税制は各時代、各国において様々な失敗と経験を経てきたものであり、その経過を[第1項]土地と家屋の賃料にかける税、[第2項]資本の利潤にかける税、[第3項]労働の賃金にかける税、[第4項]無差別にかける税(人頭税、消費税、関税)についてみてゆこう。
(つづく)

文芸散歩  金田鬼一訳 「グリム童話集」 岩波文庫(1-5冊)

2013年03月11日 | 書評
ドイツ民俗研究の宝庫「児童と家庭向けのおとぎばなし」 第72回

* KHM 106  かわいそうな粉ひきの若いものと小猫
 ある水車小屋に粉引きのおじいさんがいました。年をとって妻子もなく奉公人の若者が三人いました。兄弟子二人は利口者でしたが、末弟子のハンスはわからずやでした。粉引き爺さんはある日皆を呼んで、一番いい馬を持ってきたものにこの水車小屋を譲るが、おじいさんの老後の世話をすることを条件にしました。三人は旅に出ましたがハンスは兄弟子二人に置いてけぼりにされ、森の中をさ迷っていると、小さな三毛猫が現れハンスにこういいました。「7年間奉公すれば立派な馬一頭をあげる」というのです。猫御殿にゆくとその猫は王女で毎日薪を小割りにする仕事や、干草を取り込む仕事、小さな家を建てる仕事で7年目を迎えました。年季が過ぎたのでハンスはお暇を願い出ると、3日後に水車小屋に馬を届けると猫の王女様がいいました。家に帰ると、兄弟子二人の持ち帰った馬はびっこでめくらです。3日後王女様は6頭立ての馬車に乗って、立派な馬を引き連れて水車小屋にやってきました。親方はハンスに水車小屋を譲るといいましたが、ハンスは断って王女様と小さな御殿にゆき結婚しました。特に倫理的理由はありませんが、魔法による末子成功譚の一種です。愚かな子供にも希望を持たせるための話かな。

* KHM 107  旅あるきの二人の職人
 かなり長い話の展開となっています。筋の破綻もなくうまくできた話です。人間社会には善玉と悪玉が一緒にぶつかり合うことが多い。仕立て屋さんは陽気で気前がよく仕事にむらがありません。また神様への信心も深いひとです。一方靴屋さんは斑気で仏頂面で人を哀れむ心というものをもっていません。また神様を自分の心から追い出してしまった男です。この二人がひょんなことから一緒に旅をすることになり都を目指して仕事探しに出かけました。森を抜けて都へ行く路が二つに分岐しており、仕立て屋さんは持ち前の陽気さと楽観さから2日分のパンしか持ってゆきません。靴屋は悲観さから7日分のパンを持ちました。選んだ道は7日かかる道です。3日目には仕立て屋さんのパンはなくなり、5日目の朝あまりにひもじさから、靴屋にパンを分けて欲しいと頼みました。靴屋は意地悪心でパンと右の目を交換しました。それで7日目の朝もやはり靴屋にパンを分けてくれというと、靴屋はパンと左目と交換しました。こうして仕立て屋はめくらとなり、置いてけぼりにされ絞首台の下でくたばっていました。すると絞首台の二人の死体が話しているのが聞こえます。死体の露を目に付けると目が甦るというので、そうすると仕立て屋さんの目が回復し、歩いて都へ向かいました。途中栗毛の子馬やコウノトリや小鴨、女王蜂らに哀れみをかけ命は奪いませんでした。都に入った仕立て屋さんは仕事口が見つかり、1日1日評判が上がりました。仕事振りがいいので王様の耳に入り、王室に出入りする仕立て屋さんになりました。靴屋も王室のお抱え靴屋でいましたので、仕立て屋を妬んで王様に讒言をし、その度に命を助けた動物の力で切り抜け、王様の長女と結婚しました。靴屋は都から追放され、絞首台の下でカラスによって両目をくりぬかれたというお話。
(つづく)