先週の土曜日(1月21日)、<教育シンポジウム・「大阪府教育基本条例」で大阪の教育は良くなるのでしょうか? PARTⅢ」(主催:異議あり!「大阪府教育基本条例案」100人委員会)に出てきました。でも、今回の分はシンポジウムというより、ジャーナリストの斎藤貴男さんの「橋下政治の危険性と民意のつくられかた」という講演が中心だったのですが。また、斎藤さんの講演の中身そのものは、今までいろんな方々が語ってこられたことの整理のような感じだったので、あえて今、ここでは紹介しません。
ただ講演のおわりのほうで、斎藤さんがこの状況を変えていく「ウルトラCはない」こと、「必要なのはまともな人間」ということ、「問題点・矛盾点をついて批判する」こと、感情に訴えるような術に巻き込まれない、相手のペースに巻き込まれないということ。そして、教員がダメになれば子どもの世代までダメになる、だから教員は最後のとりでなのだ、ということ。こういった趣旨のことを語っておられました。また、「知性のデフレスパイラル」というレジュメの言葉に関していえば、私の記憶では、斎藤さんは「わかりやすければ中身はどうでもいい」という風潮をマスメディアがあおっているとか、「あまりにもモノを考えていなさすぎ、単純に割り切りたがる」「権力のチェックという役割の法規」といったことを語っておられました。こうしたことが、私には特に印象的でした。
で、このような斎藤さんの講演をうけて、あらためて自分に今、何ができるのかを考えてみました。その結果、でてきたことは<「教育基本条例案」の中身や、教育や子育てなどに関する橋下市政・松井府政、大阪維新の会の教育政策等々を批判的に見ていくのに必要な文献、資料を集めて、私なりに読み解き、紹介する形で、ここで積極的に情報発信していくこと。特に、マスメディアがなかなか言わないこと、紹介しないことを中心に発信していくこと>だということに、あらためて気づきました。
「なんだ、今までやってきたことと、何も変わりないじゃないか?」と思うかもしれません。ですが、私や私の周囲にいる人たちと、「教育基本条例案」を支持したり、大阪維新の会の教育政策や教育・子どもに関する橋下市政・松井府政を支持したりする人たちの間にあるのは、この批判的な観点からの情報・知識の有無、ある場合の量や質の差ではないのか、とも思うわけです。
たとえば「学校選択制」や「施設一体型小中一貫校」ですが、これは他の自治体ですでに失敗している、あるいは軌道修正を余儀なくされている教育施策でもあります。そういうことは教育学の関係者の間では知られていても、それ以外の研究領域の人々や、さらに一般の人々は別かもしれません。このような知識や情報の有無、あったとしてもその量や質の差が、同じ現象を見たときの評価の差を生んでいるとするならば、そこをまず埋め合わせていく作業からはじめていく必要があると思ったわけです。
そのようなわけで、今後もできるだけ、いろんな文献・資料から情報を集めて、地道に、こつこつと、ここで「教育基本条例案」などを批判的に読み解くために必要なことを発信していこうと思いました。