2231冊目はこの本。
川人博『過労自殺(第二版)』(岩波新書、2014年)
この本と先ほど紹介した『群発自殺』を続けて読みますと、一方でマスメディアを通じた自殺報道が次々と自殺の連鎖を引き起こす危険性をはらむものの、他方で過労自殺などの背景にある企業の雇用形態・就労環境の問題などを訴えていくためには、マスメディアがくり返しこうした課題を取り上げていかなければいかない・・・・という課題を感じてしまいますね。
2231冊目はこの本。
川人博『過労自殺(第二版)』(岩波新書、2014年)
この本と先ほど紹介した『群発自殺』を続けて読みますと、一方でマスメディアを通じた自殺報道が次々と自殺の連鎖を引き起こす危険性をはらむものの、他方で過労自殺などの背景にある企業の雇用形態・就労環境の問題などを訴えていくためには、マスメディアがくり返しこうした課題を取り上げていかなければいかない・・・・という課題を感じてしまいますね。
2230冊目はこの本。
高橋祥友『群発自殺 流行を防ぎ、模倣を止める』(中公新書、1998年)
この本は精神医学の立場から、ある人の自殺に関するマスメディアを通じた情報の拡散が、次々に類似の自殺を引きおこすという現象について検討した本です。
それこそ、1980年代半ばや90年代半ばの中学生いじめ自殺の続発、「ユッコ・シンドローム」と言われたアイドル歌手・岡田有希子の自殺とそのあとの後追いでの若者の自殺などが、この本で取り上げられている主な事例です。
また、このことにかかわって、この本が書かれた時点での諸外国の自殺に関するマスコミ報道のガイドラインや、日本での自殺報道の問題点なども、精神科医の立場から「自殺の連鎖を防ぐ」という観点から綴られています。
この本を読んで「なるほど」と思う部分もいくつかありました。やはり、ある子どもや若者に関する自殺のあと、同時期に似たような年代の人たちの自殺が多発する現象が、マスメディアの報道によって引き起こされてる側面というのは、ゼロではないと思います。その自殺報道をきっかけにして「こういう道もある」と思った人もいるのでしょう。そういう意味では、確かに情報の出し方を慎重にしなければいけない部分もあるでしょう。
ただ、報道を見て当事者たちがそのように思うに至る背景要因としての生活困難、ここはなぜ、著者は問題にしないのかな・・・なんてことも、この本を読んで思いました。また、当事者サイドに立って、マスコミを通じて、その生活困難な状況を改善して自殺予防を行ってほしいという訴えをすること自体も、著者たちはダメだというのでしょうか。気をつけないと、この著者たちの議論は、ある種の「問題の隠ぺい」にもつながりかねない側面があるな・・・と、一読して思った次第です。
2229冊目はこの本。
パオロ・マッツァリーノ『「昔はよかった」病』(新潮新書、2015年)
「この人何者なの? 実在しているの?」といつも思う自称「イタリア生まれの日本文化史研究家」による本。どうも複数の日本人研究者(文化史や社会史、あるいは社会学などが専門領域)や雑誌のライターが、外国人の方の話も聴きながら、共通のペンネームで書いているんじゃないかと思ったりもします(あくまでも私の推測なんですけど)
それはさておき。
内容的には「昔はよかった」とついつい私たちが思ってしまうさまざまな出来事について、過去の新聞記事などを読み直してみて、「必ずしも、そうでないことも多々ある」という、そういうことに気づかせるもの。その点では、文体も軽くて読みやすく、なかなかいい本です。
それだけに・・・。「これ、ほんとうは誰が書いているの? 実在の人物?」ということが、どうしても気になってしまうのでした。
2228冊目はこの本。
安田浩一『ヘイトスピーチ 「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書、2015年)
この本を先日、教養科目「政治学」の授業のなかで、学生たちに紹介しました。
学生たちのなかには右翼的あるいは保守的な考え方の支持者や、「日本って素晴らしい国」と言いたい人もいるようでしたが、さすがにこの本に出てくる「ヘイトスピーチ」の事例の数々に触れると、「ああいう人たちと自分たちはちがう、いっしょにしないでくれ」とか、「あれが保守(右翼)だと思われると心外だ」という意見がでてきます。
だとしたら、そういう右翼的あるいは保守的な考え方の支持者のみなさん、あるいは「日本って素晴らしい国」と言いたい人々は、やはり「ヘイトスピーチ」を容認しないという態度を示さないといけませんねえ・・・ということを私、授業のなかで、この本に関連づけて話しました。
2227冊目はこの本。
本川達雄『人間にとって寿命とはなにか』(角川新書、2016年)
自分が糖尿病をかかえていることもあって、書店でタイトルを見かけてなんとなく気になって、この本を買って読みました。なにしろ本のオビには「42歳を過ぎたら体は保証期限切れ」なんてことも書いてありましたからね。
そんなわけで、ナマコの研究者である著者のこの本を読んでみたんですが・・・。
これがけっこう奥の深い本で、とても興味深いものでした。
この本は生物にとっての「時間」とは何かという、かなり原理的・思想的な問題を生物学者として扱ったもの。
たとえば一日に数センチだけ動くナマコの「時間」と、他の生き物の「時間」(たとえば人間の「時間」)は、ずいぶんちがっているのではないかと。ナマコはそのくらいしか動かないがゆえに、他の生き物に食われないように、自分のからだのかたちを「食ってもあまりうまくない」皮の部分とそれ以外の部分とに分けられるようなかたちにした・・・・とか。
でも、哺乳類の動物は人間もネズミもゾウも、個体の大きさによって1回の心拍数にかかる時間(秒)がちがうものの、でも心臓が動物の一生のあいだに打つ心拍数自体は約15億回程度と一定の幅におさまる。とすれば、15億回を早く打ち尽くす動物の寿命は短く、逆に長く時間をかけて打つ動物の寿命は長くなる・・・・なんて話がでてきます。
たぶん「42歳過ぎたら体は保証期限切れ」なんて話も、この15億回の心拍数を人間がほぼ打ち尽くすのがその時期だからのようです。
あと、「ブログは書けても責任ある文章は書けない」など、本業の生物学の話だけでなく、著者がいまの私たちの暮らしを見ていて感じていることのなかにも、随所に示唆に富むことばがありました。
たとえば私たち教育学の研究者などが書く本などのなかでも、ブログの文章をそのまま本に転載したかのようなものって、時々「思いつきをそのまま書いて人々の負の感情をあおっているだけで、ほんとうに読むに堪えない」とか、「ほんとうにこの議論のウラとれているの?」とか、あるいは「このものの見方は一面的すぎる。他方から見たら別の見解がでてきて、そっちにはそっちで説得力があるんだけど」なんて思う代物もいくつかありますから。
2226冊目はこの本。
白鳥秀行『「学び直し」が学校を変える!―教育困難校から見えた義務教育の課題―』(日本標準、2015年)
この本は千葉県市原市教委の元・教育長であり、元・千葉県立高校の校長でもあった著者が、ある「教育困難校」と呼ばれた高校の立て直しをどのようにはかったかをふりかえって、ブックレットにまとめたもの。タイトルにある「学び直し」ということばにひかれて読みました。
この本でいう「学び直し」のニーズは、小学校から中学校へ、中学校から高校へ、高校から大学・短大・専門学校等へと、学習面でのつまづきや生活習慣の乱れなど、子どもたちの課題が累積的に引き継がれていることから、実は大学においても見られるニーズだと思っています。
実際「中学校や高校の社会科・公民科の内容」からやり直したほうが、大学の1~2回生の「政治学」など教養科目の学習がすすむことを、私も大学教員として実感することが多々あります。
そのような次第で、3年がかりで著者たちが高校での学習につまづいている生徒たちの実情を検討し、カリキュラム改革で学校設定科目「マルチベーシック」を設けるとともに、複数の教職員がチームになってその科目を運営するなど、学校全体を挙げて学び直しのニーズに対応しようとしてきた実践は、大学にとっても参考になるなと思いました。
他方で、おそらく意見が分かれるのは、学校での子どもたちの「荒れ」を食い止めるために、初年度に校則違反等の対応を徹底したあたり。校門で頭髪等の校則違反があると「直してくる」ことを求めたあたりなどは、おそらく「子どもの学ぶ権利の保障」という観点から見て、違和感を覚える人が出るだろうな、と思います。実際、著者もそういう批判があるだろうことは、校長としても覚悟していたような記述がこのブックレットにはありました。
ただ、このブックレットから見えてくるのは、そういう「子どもの学ぶ権利の保障」という観点からの議論だけでは見えてこない、この高校の生徒たちを取り巻く環境の厳しさです。
「あそこにだけは子どもを通わせたくない」「あんな高校があるから地域が乱れる」とまで、地元の保護者や住民などに言われていた当時のこの高校の教職員や生徒にとっては、その悪評をどのように変えていくか・・・ということは、大きな課題だったのではないかと。また、この悪評をある程度払拭することなしには、「どうせあの高校にしか行けないのだから」と、そこに入学した生徒たちの自己肯定感も下がる一方だったのではないかと推測します。
だから、そういう当時のこの高校を取り巻く厳しい状況をふまえつつ、他方で「この子たちの学ぶ権利の保障のためには、この校則指導の方法しかないのか?」という議論を展開しないことには、きっと、この高校のような「教育困難校」や「課題集中校」の教職員に響く話を私たちは展開できないだろうな、と思います。
同様に、この高校の教職員と生徒たちにしてみると、「自分たちの努力で何か向上できるものがある」ということを体験的に学ぶ機会として、スポーツ系・文化系のさまざまな部活動や生徒会活動の取り組みがあったのではないかと。だから学校の部活をすべて否定的に語るだけの教育批判の言説の担い手には、このような学校のリアリティはわからないのだろうなあって思ったりもします。
そういういろんな意味で、とても参考になったブックレットでした。
2225冊目はこの本。
小林昭文『アクティブ・ラーニング入門 アクティブ・ラーニングが授業と生徒を変える。』(産業能率大学出版部、2015年)
文科省が今、次の学習指導要領の内容等々を検討中で、そのなかにどうやら、各教科・科目の学習のなかに、「アクティブ・ラーニング」と呼ばれる方法を積極的に活用することが盛り込まれそうです。
また、これから実施されるであろう大学等の教職課程の改革でも、教員志望者に対して、この「アクティブ・ラーニング」に対応した教育方法等の修得が求められそうです。
そんなわけで、「そもそもアクティブ・ラーニングって、なに?」と思って、読んでみました。
詳しいことはここでは書きませんが・・・・。
「わからないことを他の生徒に尋ねられる」など、授業を受けている子どもたちが思っていることを自由に表現できるように、あるいは難しい課題にも積極的にチャレンジできるように、「安全・安心の場づくり」を心がけるなど、随所に共感・納得できるところがあることも確か。
しかしその一方で、本書の書き手がそういう関心だったのかもしれませんが、「教科書的な知識を効率よく、短時間で修得できるための手法」として、この「アクティブ・ラーニング」を活用するのであれば・・・・。やはり私などは「子どもたちのその教科書的な知識に対する疑問、問いかけなどは、どこで育つの?」と思ってしまいました。
なので、「アクティブ・ラーニング」のすべてを批判・否定するかのような論調には慎重でありたいと思いましたが、他方でこの学習方法を用いる教職員や、この学習方法を導入しようとする教育政策の立案者などが、「どのような子ども観や教育観に立って、何を実現しようとしているのか?」という次元については、やはりきっちりとメスを入れたほうがいいように思いました。
2224冊目はこの本。
想田和弘『観察する男 映画を一本撮るときに、監督が考えること』(ミシマ社、2016年)
この本は著者の想田さんがうちの大学に来られて、講演会をされたときに買って、著者サインをいただいたもの。当日の講演内容も、この本の内容や「牡蠣工場」の話などとつながっていました。
この本は、今度公開される映画「牡蠣工場」の撮影、編集プロセスを中心に、「観察映画」と呼ばれる作風になぜ想田さんが至ったのかをまとめた本。
従来のテレビのドキュメンタリー番組制作への違和感等々を含めて、想田さんが率直に語っておられる内容のなかに、学校事故・事件での事実究明の調査にも相通じる内容があって、いくつか自分も共感できるところがありました。
おかげさまで昨日、ようやく今年最初の「繁忙期」を抜けました。
前にブログを書いたのが1月9日でしたから、そこから考えると約3週間ですね。
まあ、実質的には1月16日から昨日までの15日間が「繁忙期」だったのですが。
というのも・・・・。
1月16~17日は大学入試センター試験の関連業務で、翌日18日は文部科学省の「学校事故対応に関する調査研究」有識者会議。
1月19日はうちの大学の「卒業プロジェクト(必修)」の報告書提出日(まあ、短めの卒論のようなものです)。
20日・21日と大学で通常どおり授業をして、22日は大阪市西成区のある公立中学校で生徒指導のケース会議。
1月23日は子ども情報研究センターの研究部会、24日は「体罰をみんなで考えるネットワーク」の年次総会&冬のつどい(講演会)。
25日は大学で重要な会議、26日~28日は今学期の各科目の最後の授業。
29日は糖尿病の治療でお世話になってる病院で診察を受け、薬をもらったあと、大学に顔を出して、消防署の方から救命講習を受けました。
そして昨日30日、子ども支援学研究会が午後から弁天町でありました。
まあ、こんな感じで、今学期の期末テスト前の各授業の最終回に「卒業プロジェクト」の報告書提出が控えているような状況下に、大きな研究会・イベントが3つもはいり、しかもセンター試験と文科省への出張もあって・・・ということで、今年最初の「繁忙期」がやってきたのでした。
そんなわけで、今はちょっとくたびれております。今日、あすと休みなんで、なんとかそこで気力体力を回復しなくちゃ・・・というところです。
それと、さすがに今月は疲れていて、あまり本が読めてないですねえ。いかんなあ・・・。