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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

あるサイトの「試験的復活」を許さない

2006-11-16 05:47:38 | ネット上でのバッシング考

前に私のブログなどから適当に文章を引用したり、私の意図とは異なる方向でコメントを書き加えていたサイトが、「試験的復活」と称して11月上旬から復活したようです。

また、そのサイトでは再び、この間の大阪市の「」施策見直しに対して反対してきた人々に対して、私の印象では「誹謗・中傷」というしかない記事を掲載していますし、過去に書き綴ってきたものをそのまま載せています。

「やはり」というしかないのすが、一時的にいろんな状況のなかで「中止」していただけで、この人そのものの持っている本質的側面は、何も変わっていなかったということですね。

何度もこのブログ上で書いてきましたが、私はこういう人、許しません。もう一度、このブログを立ち上げた理由を説明した今年9月の文章2件を引用し、そのサイトと私の立場は違うということを、きっちりと伝えておきます。そして、そのサイトから私のブログへのアクセス及びそのサイト上での私のブログ記事の引用などは、下記の事情から「非常に迷惑極まりない。即刻やめていただきたい」とお伝えしておきます。

<以下、9月20日のこのブログの記事からの再掲>

第三には、前にもあるウェブサイト(もしくはブログか?)で私の日記帳ブログの記事が引用・参照され、あれこれといわれることがあった。今回、9月以降の「監理委員会」の「まとめ」に対する私の意見についても、どうやらそのサイトで引用・参照されているようである。これが私にとっては、非常に迷惑極まりない。「同じ立場だ」と思われるのも迷惑であれば、「自分と意見が違うから」といって、何かと「目の敵」にされるのも迷惑である。そんなサイトからのアクセスを、これ以上増やしたくない、というのも正直な気持ちとしてある。これが、三点目の理由である。

ちなみに、飛鳥会事件が発覚した今年5月段階では、「これこそ公正・中立の立場」と私の意見を持ち上げたそのサイトの運営者が、今や、私が青少年会館の「廃止」反対という意見を表明したら、まるで過去の評価など忘れたかのようなコメントを私に投げかけている。例えば、飛鳥会事件のことで、「飛鳥会の関係者については徹底的に事実究明して、法令にもとづいて処分すべきだ」といった私の発言には、「これこそまさに公正・中立」と持ち上げ、同じ私が青少年会館の「廃止」反対をいえば、それが不愉快で極まりない、ということなんだろうか。そう考えてみると、私から見れば、そんな人のいう「公正・中立」とは、結局、「自分の意見と同じ=公正・中立」ということでしかないように思うのだが。

あるいは、私には、そのサイトの運営者は結局、何らかの形で「」施策に関する話であれば、過去の話でも、現在の話でも、とにかくそれをひとまず、部分的にでも「肯定的」に受けとめる人物の発言は「嫌い」で、「しゃくにさわる」ので、「そういうしゃくにさわるもの、嫌いなものは徹底的に排除したい」のだという風に見える。そして、そういう自分が「差別者だ」といわれ、「糾弾」されることをものすごく恐れているように思われる。

だから、こういうサイトには正直「つきあってられない」のが実情ではあるが、向こうのサイトからこちらにアクセスがある以上、変な誤解をされたりする前に、それなりの対応策を講じなければならない。そのためには、まずはもとの日記帳ブログにある記事を整理し、新ブログに必要なものを移した上で、そこで対処すること。これが、三つ目の新ブログ設置の理由である。

ところで、「施策に関連して、法令に違反する行為があった人物を、事実関係を究明して、大阪市として厳正に法にもとづいて処分すること」と、「かつての施策の遺産を活用しつつ、大阪市の子ども施策の充実」を目指すこととは、一応は別問題として考えることができる。少なくとも私はそう考えるし、だからこそ、「監理委員会」の議論のあり方はおかしいのだ、という立場で意見を述べてきたのである。

たとえかつての施策にルーツをもつものであったとしても、それが大阪市民、特に子どもや保護者のニーズに沿い、市民サービスを向上させるものであれば、大阪市全体に適用する形で発展的解消を目指すということだって可能である。また、今もなお、かつての地区など、ある特定地区にさまざまな住民生活上の課題が集中的に現れているのであれば、そこに大阪市として拠点施設をつくり、さまざまな行政サービスを展開するのも、これも当然のことである。このような行政サービスの提供は、たとえ財政難であったとしても、地方自治体行政の担うべき役割だと考えるし、そのためにどこから歳出削減を行うのか、歳入の増大を図るのかを考えるべきだと思うのだが。

したがって、少なくとも、「とにかくと名のつくものが嫌い」とか、「とにかくというニオイを感じさせるものは消せ」というかのごとき感情論で物事を処理するような話には、私はかかわりたくない。そういう意識の持ち主からのアクセスに対して、あるいはこのブログ外での議論に対しては、「問題外」として、正直なところ相手にしたくないのが実情である(とはいっても、こっちは相手にしたくなくても、向こうが何か言ってくれば、相手にせざるをえなくなるが)。

むしろ、「いろんな事件や問題点があったとしても、それを適切に処理しながら、過去の経過をふまえて、大阪市としてどのような子どもの人権保障の新たな枠組みを考えるか?」という視点に立てば、「過去の施策の矛盾や問題点の解消」と、「過去の施策の遺産の活用」ということは、論理的には別問題に分けることが可能である。少なくとも、私はそのように考えている。

こういう立場から、積極的に青少年会館の問題についてものを言う、そういう形で別のブログを立ち上げてもいいかと思ったこと。これも、4つめの理由に加えてよいだろう。

以上が、新ブログ設置の理由である。

<続いて、9月23日のこのブログの記事からの再掲>

今日はまず、斎藤貴男『安心のファシズム』(岩波新書)p.25~27の引用。

<以下、同書からの引用文>

 にわかには信じられないほど陰惨な差別表現の連続には、どこか痛々しささえつきまとう。こうした封書やハガキが、おそらくは同じ人物によって百通以上。関係者の自宅の住所を調べる手間も相当なものだ。差別がいけないとか何とかいう以前に、具体的に関係しているわけでもない相手に、ここまでのことをしなければならない理由、エネルギーの源泉はどこにあるのだろうか。

 長谷川三郎・解放同盟東京都連書記長に話を聞いた。この種の問題への対応を長年こなしてきた彼は、封書の主の主体を、こう推察している。

「小さい頃から偏見を身につけて、差別感情を増幅させていた人ではないような気がします。付近に被差別があって直接に接したとか、親や周囲の人間に差別を植え付けられたというのでもないのでは」

―どういうことですか。

「リアリティがないんですよ。たとえばの者にひどい目にあったから憎んでいるといったような、差別に至る実体験の裏づけがまるで感じられない。ただ世の中には被差別なるものが存在しているという“情報”を何かで知って、そこには解放同盟という悪い奴らがおるぞと、これも頭のなかだけで“情報”として理解した。それで、そのバーチャルな情報をもとにこんなことを繰り返しているのではないかな。

 だから、相手がどう傷ついたかということには、あまり関心もない。自らの行為そのもの、また社会的に騒がれることに快感を覚えている。そんな人間を想像します。(後略)」

このブログに、あるサイトからリンクを経由してきた人々のなかに、こういう意識の持ち主はいないのだろうか。もしもそんな意識の持ち主がいたとするなら、私は自分の日記帳ブログや、このブログに対しての、そういう人物のアクセスは「大変迷惑である」とお伝えしておく。そういう人物は、二度と、私の関係するブログにアクセスしてほしくない。

以上


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