できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「かしこい」子ども・若者・地域住民が「育つ」環境整備を

2006-11-02 10:24:46 | 学問

もうひとつ、大阪市立青少年会館の存続問題に関連して、今のうちに言っておきたいことがある。

それは、「今を生きる子どもや若者・地域住民たちが、ほんとうにこの社会で生きていくうえで必要な『かしこさ』を育てていけるような、そんな環境を早急に整備する必要性がある」ということと、「そのためには、学校教育よりも、社会教育・生涯学習の環境整備のほうが大事なのだ」ということである。

私は基本的に、実態としては重なる面は多々あるのだが、概念的な整理として「ものしりであること」と「かしこさを身に付けていること」は、別の次元に属することだと考えている。

具体的にいうと、たくさん知識を身に付けて「ものしり」になったとしても、実際に何か具体的な生活場面において、あるいは何かアクションを起こさなければいけない場面において、持ち合わせの知識を前提にして何かアイデアを出してくるような「かしこさ」が身についているとは限らない、ということ。逆に、持ち合わせの知識はたとえ少なくても、その限られた知識のなかから、これから自分はどんなアクションを起こせばいいのかというアイデアを出してくるのであれば、それは「かしこさ」が身についている、という風に考えるということ。つまり、「知識の量的多さ」とは別に「知性」の次元というか、「持ち合わせの知識の活用のセンス、力量」という次元の問題がある、ということである。

ここまで書けば、私がなぜ子ども・若者・地域住民の「社会教育・生涯学習」の環境整備を重視するのか、わかる人にはわかってくれるのではないかと思う。

要するに、いくら一生懸命、学校教育が努力したからといっても、そこで身に付けていくことのできる知識や技能の範囲、質、量には、どうしても「限界」がある。しかし、学校の中だけでしか子どもや若者が生きていけないとしたら、学校で自分の身に付けているものがしょせん「ある限られた枠のなかでのこと」ということにすら気づかない危険性がある。あるいは、そこで得られた自己認識があたかも「自分のすべて」のように思い、学校でドロップアウトしたら「それで終わり」のような感覚を持ってしまう子ども・若者もいるかもしれない。逆に、学校の枠内での「優等生」も、しょせんはその「枠内」でのことであって、その枠をはずしたところで優秀かどうかはぜんぜんわからない。ましてや、「受験に勝ち残れば何をやってもいい」「見つからなければ、どんなズルいことをしてもいい」かのように思う「優等生」など、私はおとなとして、本来「一喝すべき」だと考えるが。

こういう「学校という狭い枠」のなかで作られてきた子ども・若者の自己理解や他者・社会への理解を相対化して、「それ以外のものの見方、考え方もある」ということを示すことができる場所を、地域社会においてどれだけ創り出すことができるのか。ここが今、社会教育や生涯学習の領域において最も問われていることのように思うし、それが結果的に最近マスメディアが取り上げているような学校における子どもの苦難を、多少なりとも緩和することにつながるように思うのである。

と同時に、今、マスメディアや行政当局などが語っていることに対して、「それ以外のものの見方、考え方もある」ということを考える場所、学ぶ場所の重要性は、これは地方自治体の維持・向上にとって必要不可欠なことであると考える。

言うまでもないが、この国の各地域の主権者は、「住民」である。その「住民」たちが、自らの生活向上のために、今ある地方自治体の行政施策の是非や、その是非を問うためにマスメディアが発信している情報を問い直し、「それ以外の見方、考え方はないか」と問いかける場所。こういう場所を持ち、「住民」の「かしこさ」を磨かなければ、その地方自治体の行政当局者やマスメディアの伝えるところ以上のレベルでの施策は望めない。そして、その「住民」のなかには、子ども・若者も含めて考えるべきであることは、あらためていうまでもない。

だから、本気で地域社会の活性化だとか、地方自治体の施策の維持・向上、それから、子どもや若者の生活に伴う諸課題の緩和ということを考えるのであれば、これからは学校教育と同じか、それ以上に「社会教育・生涯学習」分野に力を入れなければいけないのではないか、そちらの環境整備のほうが重要ではないか、と思うのである。


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『組織行動の「まずい!!」学』から

2006-11-02 09:52:57 | 新たな検討課題

このところ、大阪市立青少年会館の存続問題から端を発して、今の大阪市の行財政改革の動向を追いかけるような作業を続けている。また、経営学や法学、行政学など、行財政改革の手法などに関連する文献、特に新書本レベルのものをよく読むようになったことは、前にも書いたとおりである。そして、このところ、読んだ本の内容をこのブログで紹介することも増えてきた。そこで、新カテゴリとして「本の内容紹介」というものをつくり、今後は大阪市の行財政改革や青少年会館の存続問題に関連させながら、本の内容について書き綴っていこうと思う。

さて、今回読んだ本は樋口晴彦『組織行動の「まずい!!」学 -どうして失敗が繰り返されるのか』(祥伝社新書)である。ちなみに、著者はいわゆる「危機管理」論が専門のようである。

今回この本を読んで面白かったのは、まず、「アウトソーシング」に伴うリスクもありうること、外注先に委託元はそのリスクまでおしつけることができないということ(p.104)。それから、経費削減によって一番犠牲にされやすいのが「安全性」であったり、企業などの安全管理部門であること(p.106)。まずは、このあたりだろうか。経費削減という観点から、何事も「官から民へ」という「アウトソーシング」を多用する形で行財政改革が進められているのなら、ここはチェックすべきポイントだろう。

そういえば、同書にはこういう文章があった。

「近年、企業経営のレベルで成果主義的な発想が広まり、前年よりもいかに業績を上げるかという短期的な側面ばかりが強調される傾向にある。そして、前述したように、財務諸表の体裁を整えるのには、安全関係のコストを切り詰めるのが早道だ。そのような誘惑に堪えて安全水準を維持するだけの見識を関係者が持ち合わせているかどうか、まさにそれこそが安全文化と呼ぶべきものだろう。」(p.115)

また、「成果主義」の導入がかえって問題を引き起こすケースの存在。例えば、社員が決して受容できないような高度な目標を一方的に割り振る「目標押し付け症」や、目標が用意に達成できるようにあえて低めに設定する「目標下方設定症」(p.120~121)などである。このへんも、面白かった。今、行財政改革にも「成果主義」を導入しようとしている人々がいるが、それって、どこまで実効性があるのかどうか。こういう人の発言をてがかりにして、もう一度、考え直してもいいかもしれない。

このほか、専門家は特定分野の知見に偏っていて新しい着想が思い浮かばない傾向にあるということ(p.174~175)。また、専門家の研究がどんどん細分化されていくことによって、その専門性の隙間のような部分で問題がおきやすくなっていること(p.182)。第三者機関や外部機関による監視・チェック体制も、監視・チェックの実効性をあげるためには、その第三者機関や外部機関自体にチェックが必要になるケースもあること(p.199)。こういう記述もあった。この点は、案外見落としがちな話なので、忘れないようにしたい。

最後に、この本からの大事な指摘として、次の2点を引用しておきたい。

「近年、規制緩和の大義名分のもとに、これまで行政機関が行ってきた規制措置を撤廃したり、行政の役割を民間に開放したりする動きが進められてきた。たしかに、役所があれこれ口出しすることが、社会経済の活力を殺いできた側面があることは否めない。しかし、観念的な「役人性悪・民間性善説」に偏するのではなく、社会の中で行政が本当に果たすべき機能は何なのかを問い直す機会を、この事件は提示しているように思われる。」(p.203。文中の「この事件」とは、マンションの耐震強度偽装事件のこと。)

「総務や企画部門では、その業務の性質上、目に見える形で「成果」を示すことが難しい。そこで、ひたすら文書を作ることに精を出す。たくさんペーパーを作ってファイルを机の上に積み上げれば、何か大仕事をやり遂げた気分になれるし、現場から報告書をあれこれ提出させれば優越感にも浸れるというわけだ。/つまり、組織内で文書類が必要以上に増加するのは、本来は現場を支える立場であるはずの総務・企画部門が、逆に現場に対して支配的な傾向を強めている証左である。文書が分厚いほどよいという文系的価値観、いわば「『紙』様信仰」を現場に押し付けているのだ。もしもあなたの会社で、業績が下降しているのに文書ファイルの冊数が年々増えているとしたら、「まずい!!」と感じて早めに手を打つべきだろう。」(p.42~43。原文は斜線部で段落変更)

この2つの引用文からわかるように、私が思うに、今の大阪市の市政改革はこの「紙を増やす」方向で動いているように思うし、「役人性悪・民間性善説」にたった改革がすすんでいるようにも思われる。そのことに伴うマイナスも多々あるということが、この本から指摘されているのではないか。

私はこのごろ思うのだが、ある問題をきっかけにして、例えば行政の組織運営や施策の問題点の改善のために導入される手法が、かえって事態をややこしくしたり、余計に今まで以上に行政組織や施策の問題点を拡大してしまうということもあるのではないのだろうか。あるいは、「下手に改革することよりも、な~んもしなかったほうがまだマシ」という場合もあるのではなかろうか。だから、私は「改革屋」であることを、「あんまり、自慢しないほうがいいよ」といいたくなってしまう。


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