もうひとつ、大阪市立青少年会館の存続問題に関連して、今のうちに言っておきたいことがある。
それは、「今を生きる子どもや若者・地域住民たちが、ほんとうにこの社会で生きていくうえで必要な『かしこさ』を育てていけるような、そんな環境を早急に整備する必要性がある」ということと、「そのためには、学校教育よりも、社会教育・生涯学習の環境整備のほうが大事なのだ」ということである。
私は基本的に、実態としては重なる面は多々あるのだが、概念的な整理として「ものしりであること」と「かしこさを身に付けていること」は、別の次元に属することだと考えている。
具体的にいうと、たくさん知識を身に付けて「ものしり」になったとしても、実際に何か具体的な生活場面において、あるいは何かアクションを起こさなければいけない場面において、持ち合わせの知識を前提にして何かアイデアを出してくるような「かしこさ」が身についているとは限らない、ということ。逆に、持ち合わせの知識はたとえ少なくても、その限られた知識のなかから、これから自分はどんなアクションを起こせばいいのかというアイデアを出してくるのであれば、それは「かしこさ」が身についている、という風に考えるということ。つまり、「知識の量的多さ」とは別に「知性」の次元というか、「持ち合わせの知識の活用のセンス、力量」という次元の問題がある、ということである。
ここまで書けば、私がなぜ子ども・若者・地域住民の「社会教育・生涯学習」の環境整備を重視するのか、わかる人にはわかってくれるのではないかと思う。
要するに、いくら一生懸命、学校教育が努力したからといっても、そこで身に付けていくことのできる知識や技能の範囲、質、量には、どうしても「限界」がある。しかし、学校の中だけでしか子どもや若者が生きていけないとしたら、学校で自分の身に付けているものがしょせん「ある限られた枠のなかでのこと」ということにすら気づかない危険性がある。あるいは、そこで得られた自己認識があたかも「自分のすべて」のように思い、学校でドロップアウトしたら「それで終わり」のような感覚を持ってしまう子ども・若者もいるかもしれない。逆に、学校の枠内での「優等生」も、しょせんはその「枠内」でのことであって、その枠をはずしたところで優秀かどうかはぜんぜんわからない。ましてや、「受験に勝ち残れば何をやってもいい」「見つからなければ、どんなズルいことをしてもいい」かのように思う「優等生」など、私はおとなとして、本来「一喝すべき」だと考えるが。
こういう「学校という狭い枠」のなかで作られてきた子ども・若者の自己理解や他者・社会への理解を相対化して、「それ以外のものの見方、考え方もある」ということを示すことができる場所を、地域社会においてどれだけ創り出すことができるのか。ここが今、社会教育や生涯学習の領域において最も問われていることのように思うし、それが結果的に最近マスメディアが取り上げているような学校における子どもの苦難を、多少なりとも緩和することにつながるように思うのである。
と同時に、今、マスメディアや行政当局などが語っていることに対して、「それ以外のものの見方、考え方もある」ということを考える場所、学ぶ場所の重要性は、これは地方自治体の維持・向上にとって必要不可欠なことであると考える。
言うまでもないが、この国の各地域の主権者は、「住民」である。その「住民」たちが、自らの生活向上のために、今ある地方自治体の行政施策の是非や、その是非を問うためにマスメディアが発信している情報を問い直し、「それ以外の見方、考え方はないか」と問いかける場所。こういう場所を持ち、「住民」の「かしこさ」を磨かなければ、その地方自治体の行政当局者やマスメディアの伝えるところ以上のレベルでの施策は望めない。そして、その「住民」のなかには、子ども・若者も含めて考えるべきであることは、あらためていうまでもない。
だから、本気で地域社会の活性化だとか、地方自治体の施策の維持・向上、それから、子どもや若者の生活に伴う諸課題の緩和ということを考えるのであれば、これからは学校教育と同じか、それ以上に「社会教育・生涯学習」分野に力を入れなければいけないのではないか、そちらの環境整備のほうが重要ではないか、と思うのである。