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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

アクセス履歴からわかってきたこと

2007-01-15 18:04:12 | ネット上でのバッシング考

やっぱり年末年始の休暇があけて、本来の仕事が再開されると、忙しくてなかなか更新できませんね。おまけに風邪を引いたようであまり体調がすぐれず、更新にまわるエネルギーが出なくて困っております。

まぁ、そういう状況なのですが、この間も私のこのブログにはアクセスが続いています。アクセス解析からそのアクセス履歴をたどっていると、ある大阪市内の青少年会館の陶芸教室に「障害」を持つ子どもを通わせている保護者らしい方のブログに行き着きました。

その詳しい内容を書くことはここでは控えますが、そのブログを読んでの私の印象を言えば、造形活動に興味・関心を持つ子ども、特に「障害」を持つ子どもの保護者にとって、材料費程度の負担だけで、自宅からそう遠くないところで、放課後や土日・長期休暇中に子どもが何かに取り組める場所としての青少年会館がなくなるのは、とても残念だということ。特に今、青少年会館に通っている「障害」を持つ子どもとその保護者にとって、青少年会館にかわる放課後の「居場所」や、学習・文化活動の場所を見つけ出すことは、なかなか難しいのではないか、ということを感じました。

大阪市は、こういう保護者や子どもの存在をどう考えているのか。あらためて問いただしたくなったことは、いうまでもありません。この子どもや保護者たちの「居場所」を奪うな、と言いたいです。また、このような形で、現在、青少年会館に子どもを通わせている保護者や、子ども自身が、ネット空間上で積極的に「ここをなくすな」「こんなことをされたら困る」と、何らかの形で意見表明していくことも大事なことだと思います。

そして、今後の大阪市の青少年施策は、「障害」を持つ子どもとその保護者にとっても「充実」したものになるべきだということは、あらためて言うまでもありません。だから、これも繰り返し言ってきましたが、これまで青少年会館が取り組んできたことをふまえて、大阪市は青少年施策を今後展開すべきだと思うのですが。


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今日から書き込み再開

2007-01-04 07:19:36 | ネット上でのバッシング考

2007年の1月を迎えました。今日から、このブログへの書き込みを再開します。

もうひとつの自分のブログには新年のごあいさつを書きましたが、こちらにはあえて書きません。昨年夏以来の大阪市立青少年会館をめぐる情勢を考えたときに、「おめでとう」などという気分が吹き飛ぶからです。青少年会館の利用者や地元住民、現場職員やNPOの関係者、市職員のみなさんのなかには、きっと、ものすご~く重い気分で年を越した方もいると思うんですよね。そういう人たちがこのブログにアクセスしてくれていると思うと、「ちょっと、新年おめでとう、なんて気分にはなれないよな」と思います。

それから、この年末年始の数日間、これももうひとつのブログに書きましたが、このブログへの書き込みだけでなく電子メールのチェックも含めて、「できるだけパソコンを使わない暮らし」をあえてしてみました。

それは、自分の心身のコンディションをよい状態に保つためには、本当にあえて「なにもしない」で「休養」に努める時間をキープしたほうがいいと思ったからです。おかげさまで、多少は「休養」の時間が取れたので、心身の状態はよくなってきています。と同時に、毎日、パソコンに向かっていろんな活動をするのにも、実は知らず知らず、相当な心身のエネルギーを使っているのだということに、あらためてこの数日で気づかされました。

ただ、パソコンに向かい続けるのにも相当エネルギーがいるのだということに気づいた、そのことの裏返しとして、あいかわらず青少年会館の廃止反対を訴える人々に、インターネット上で執拗にバッシングをする人々のことを少し考えました。正直、青少年会館の廃止反対の声をあげる人々に、その人が匿名で、執拗にネット上でバッシングを加えて、いったい、何のメリットがあるのでしょうか。「その労力と根気があれば、他に何か使うことはないのか?」ということを、あらためて思ってしまいました。

それと、この数日間のアクセス解析を見ていたら、12月29日~1月1日はさすがにアクセスは数回程度でしたが、1月2日、3日は、年末の書き込みを続けていた時期と同じく、2ケタのアクセスに戻ってきました。ということは、このブログに正月から強い関心を抱いて見ている人が「いる」ということですね。

私としては、もともとこのブログは自分の今までの大阪市の青少年会館とのかかわりから、「このまま廃止をすんなり認めるわけにはいかない」という意志表示をすることと、今の情勢を廃止反対の自分の立場から読み解き、情報発信すること。そして、そのことを通じて、同じように廃止反対を訴えたい仲間に多少の活動の手がかりが提供できれば、と思って、もうひとつのブログからこちらに記事を転載したり、あらたな書き込みを増やしたりしてきました。

ですから、こういう趣旨を理解していただいて、なおかつ、自分も「このような大阪市の青少年施策はおかしい」と思っている人々のアクセスであれば、私は今後も大歓迎です。しかし、上述のとおり、バッシングをどこかでしている人々や、そのためのネタ探しのような人々のアクセスであれば、「お断り」といいたいです。

そして、この2007年を迎えたことをいいきっかけにして、今まであちこちでバッシングを繰り広げてきた人々は、この際、そういう行為を一切やめていただきたい。私宛のものだけでなく、青少年会館の廃止反対を訴えるあらゆる人々へのバッシングを含めて。


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字面だけ読んでいたらダメ

2006-12-25 19:09:17 | ネット上でのバッシング考

あたりまえの話だが、字面を見ればわかるように、「解体」と「改革」はぜんぜん意味がちがう。「解体」はバラバラにしてしまうことであり、「改革」は大事な何かを守るために、古くなった枠組みを新しい枠組みに置き換えていくことであろう。

今、大阪市の青少年会館条例「廃止」の問題をめぐって、この間の事情や歴史的経過などをあまり知らない人などが、大阪市長の公式発表の文面だけを見て、例えば「条例だけがなくなるだけで、施設はそのまま残るんだ」とか、インターネット上で発信していたりする。

「とんでもない。字面だけしか、あるいは一部分だけ読んでいたらそう読めるかもしれないが、青少年会館条例を廃止し、各種事業を廃止していけば、これで事実上、今まで行なってきた青少年会館事業は解体される。だから、今までのような青少年会館も存在しなくなる。これは青少年会館の改革ではなくて、解体なんだ」と、あえてその人々に言っておきたい。

たとえ青少年会館条例そのものが廃止されたとしても、今までの事業が全部残り、青少年会館でその事業を継続するのであれば、「なんだ、条例だけ廃止か」といえるであろう。しかし、今後「全市展開」されるのは、青少年会館事業のなかの「課題を抱えた青少年の居場所づくり」「青少年の体験学習」「若年者の職業観育成など」に関するものだけである。また、市長の出した方針には、その他の事業は2006年度末で廃止とはっきり書いてある。

ということは、青少年会館で行なってきた放課後の子どもたちの育成活動や識字教室、人権学習・啓発活動、子育て学習活動、各種の講座活動などは、今後どうなるのであろうか。そこを考えると、市長方針を読んで「なんだ、条例だけ廃止ってことか」などということは、そう簡単にはいえないはずである。大阪市の青少年会館は、今までも「青少年育成」ということを入り口にしながら、幼い子どもからおとな・高齢者まで集まってくる多目的な施設として運営されてきたのである。

また、青少年会館のこういった活動の存続を求めている人々のなかには、さまざまな形で社会的に不利益を被りやすい立場の人々が多く含まれている。このままでいけば、大阪市内における子どもや子育て中の家庭の生活環境面での「格差拡大」、もしくは「セーフティーネットの崩壊」が予想されるのであるが、大阪市長はこの点についてどう考えているのであろうか。地方自治体行政が住民に対して果たすべき最も重要な役割は、この「セーフティーネット」の役割ではないのだろうか。

また、「全市展開」される3つの取組み以外のものがなくなってしまえば、青少年会館の施設がたとえ2007年度も使えるとしても、そこはやはり、雰囲気や集まる人々の層が変わってくる以上、今までと同じ青少年会館ではなくなる。特に、「課題を抱えた青少年の居場所づくり」の諸活動は、同じ青少年会館内の他の活動ともリンクしてよいという前提で展開してきた。だから、今後たとえ青少年会館を「間借り」する形で活動を続けても、「課題を抱えた青少年の居場所づくり」の取組みとて、従来同様の効果を発揮するかどうかは大変あやしい。

さらに2007年度は暫定的に残るといっても、青少年会館の既存施設などをよくチェックして、利用可能なスポーツ設備は別条例に位置づけて「指定管理者制度」を適用するとか、それ以外の設備部分を「市民利用施設」として使うとか、そんな話も市長方針には出ていたはずである。これなどは、これまで青少年会館がスポーツ設備とそれ以外の部分を一体にして運営する形で、青少年育成に各種の機能を果たしてきたことを「無視」しているから言えることである。また、今まで一体にして運営してきた施設をバラバラに位置づけて運営するというのは、これこそまさに「解体」の論理であろう。

そして確か、青少年会館の既存施設について「補修」等は行なわない旨、市役所側は市議会でも答弁をしていたように思う。だから、たとえ2007年度以降も青少年会館の施設が残り、誰かが継続利用していたとしても、大阪市側は「あとは野となれ山となれ」で、ボロボロになっても直さない、ということであろう。

おまけに、青少年会館条例を廃止して、既存施設や敷地を「普通財産」化するわけだから、今後、市役所側が適当な売り時を見て更地にして、どこか引き取ってくれるところに売るということだってありうる。

これでも、「条例が廃止されるだけで、施設や事業は残る」というのであろうか。それは、今までの青少年会館の取組みや歴史的経過などを知らず、大阪市長側の公式発表を字面だけ追う形で理解したからこそ言える話である。

もっとも、おそらく「条例が廃止されるだけで、施設や事業は残る」とネット上で言っている人、しかも「匿名」で言っている人のなかには、最初から市長方針を字面だけ追って「ほら、こうだろ」ということで、私を含めた「市民」や、あるいは子どもを含めた利用者・地元住民の反対の意見表明の取組みを「おとしめる」意図があるのかもしれない。

だとしたら、こういう意図の持ち主に対しては、「実際におのれの姿をさらけだして、青少年会館に行って、子どもを含めた利用者や地元住民、現場職員やNPO関係者に接して、今、ネット上で配信している意見を直接言ってみろ」といいたい。また、「そこで面と向かえっていえないような意見なら、書くのをやめろ」ともいいたい。

少なくとも、私はこのブログ上では実名で出ているし、すでに新聞や雑誌にも名前は出ているし、今後も何かの形で名前も出るだろう。また、利用者や地元住民、現場職員やNPO関係者、さらには大阪市教委や大阪市役所の職員にも、必要があれば、あるいは都合がつけば、今後も引き続き、この青少年会館の問題にひと段落つくまでは、直接会って話をするつもりである。それはたとえ自分が納得していない案を出した側の人間であっても同じである。そして、そこで言う意見は、このブログで配信している中身とそれほど大きくズレないようにしたいと心がけている。


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これから開かれる説明会に対して

2006-12-10 13:15:24 | ネット上でのバッシング考

以下は今年(2006年)11月29日に、大阪市長が「地対財特法期限後の関連事業等の総点検調査結果に基づく事業等の見直し等について」と題して発表した文書のなかに出てくるコメントである。

「また、今後、施設運営の具体化にあたっては、利用者や市民の意見を聞く場を設け、地域ごとに説明会を開催するなど市民への説明責任を果たしていくこととしたい。」

まず、そもそも、今年8月末に例の監理委員会が「まとめ」を出したあと、もう3ヶ月を経過した。その間、11月末に市長方針を出すまでの間に、なぜ「市民への説明責任を果たす」機会を設けなかったのか。また、市長方針案に対して、あるいは監理委員会の「まとめ」に対して、数々の利用者や地域住民、NPOや職員側、さらには子ども側からの反対の意見表明があったにも関わらず、それに対してなぜ適切な応対をしてこなかったのか。さらには、適切な意見聴取の機会を設けることや説明責任を果たすことなどは、このブログで紹介した市会議員の発言の趣旨からすると、もっと早く行なわれてもしかるべきではなかったか。そのこと自体、あらためて私はここで抗議の意思表明をしておく。

その上で、あらためて市長側がこういう見解を示して、説明会を開催するというからには、市内各地区の青少年会館の利用者や地域住民、NPOの関係者、各館の現場職員、そして各館で活動をしている子ども・若者たちは、この説明会にどんどん出て、積極的に自分たちの意見を言おうではないか。

そもそも、この条例廃止の提案自体がおかしいと思えば、その意見を言えばよい。あるいは、条例廃止を受け入れたとしても、今後、この施設を利用してこんな青少年活動をしたいという案がある人は、その案をどんどん展開すればよい。市職員の配置が各館に必要だという人は、そういう意見をぶつければよい。

もちろん、青少年会館はもういらないとか、代替措置も必要でないという人物がいれば、その人もここへ出てきて、その意見を堂々と出せばよい。

ただし、そのときには周囲に「青少年会館は今後も必要だ」「廃止するなら代替措置を」という意見の持ち主に取り囲まれることは覚悟しなければいけない。それができないからといって、例えばネット上で匿名で会館存続を希望する人や、会館にかわる別施設利用の希望を出す人をバッシングするような人の意見など、市側も、存続希望者・代替措置希望者も「相手にする必要なし」と思う。こういう人たちには、「自分の主張が間違っていないと思うなら、説明会の席などに自分の姿をさらけ出して、堂々と言え」といいたい。

そして、その説明会で出た市側の説明と、その説明を聞いたうえでの子ども・若者ほか利用者の意見、地域住民や保護者の意見、NPOや現場職員の意見などは、全部、オープンにしていこうではないか。それこそ、今後の人権行政について「透明性」や「公平・公正性」というのであれば、そこまでやってしかるべきである。


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うれしい動きが少しずつ

2006-11-18 09:49:55 | ネット上でのバッシング考

今週月曜日の青少年施策を考える市民の会イベントのあと、いくつかのブログなどで、当日の私の講演内容を紹介していただいたり、あるいは、署名の動きなどを紹介してくださる方が出てきました。例えば、下記のブログもそのひとつです。イベント当日の様子や、署名の呼びかけのチラシなどもここで見ることができます。

burakusabe.exblog.jp

この動き、今まで私もブログなどを使って、大阪市の青少年会館存続の問題をめぐって常にあれこれ発信してきただけに、とってもうれしいことです。こういうまっとうな動きがどんどん大きくなって、つまらないことを書いて関係者を誹謗・中傷しているようなブログやウェブサイトの比重がどんどん小さくなることを願っています。ぜひ、みんなでいろんな形で声をあげていきましょう。


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あるサイトの「試験的復活」を許さない

2006-11-16 05:47:38 | ネット上でのバッシング考

前に私のブログなどから適当に文章を引用したり、私の意図とは異なる方向でコメントを書き加えていたサイトが、「試験的復活」と称して11月上旬から復活したようです。

また、そのサイトでは再び、この間の大阪市の「」施策見直しに対して反対してきた人々に対して、私の印象では「誹謗・中傷」というしかない記事を掲載していますし、過去に書き綴ってきたものをそのまま載せています。

「やはり」というしかないのすが、一時的にいろんな状況のなかで「中止」していただけで、この人そのものの持っている本質的側面は、何も変わっていなかったということですね。

何度もこのブログ上で書いてきましたが、私はこういう人、許しません。もう一度、このブログを立ち上げた理由を説明した今年9月の文章2件を引用し、そのサイトと私の立場は違うということを、きっちりと伝えておきます。そして、そのサイトから私のブログへのアクセス及びそのサイト上での私のブログ記事の引用などは、下記の事情から「非常に迷惑極まりない。即刻やめていただきたい」とお伝えしておきます。

<以下、9月20日のこのブログの記事からの再掲>

第三には、前にもあるウェブサイト(もしくはブログか?)で私の日記帳ブログの記事が引用・参照され、あれこれといわれることがあった。今回、9月以降の「監理委員会」の「まとめ」に対する私の意見についても、どうやらそのサイトで引用・参照されているようである。これが私にとっては、非常に迷惑極まりない。「同じ立場だ」と思われるのも迷惑であれば、「自分と意見が違うから」といって、何かと「目の敵」にされるのも迷惑である。そんなサイトからのアクセスを、これ以上増やしたくない、というのも正直な気持ちとしてある。これが、三点目の理由である。

ちなみに、飛鳥会事件が発覚した今年5月段階では、「これこそ公正・中立の立場」と私の意見を持ち上げたそのサイトの運営者が、今や、私が青少年会館の「廃止」反対という意見を表明したら、まるで過去の評価など忘れたかのようなコメントを私に投げかけている。例えば、飛鳥会事件のことで、「飛鳥会の関係者については徹底的に事実究明して、法令にもとづいて処分すべきだ」といった私の発言には、「これこそまさに公正・中立」と持ち上げ、同じ私が青少年会館の「廃止」反対をいえば、それが不愉快で極まりない、ということなんだろうか。そう考えてみると、私から見れば、そんな人のいう「公正・中立」とは、結局、「自分の意見と同じ=公正・中立」ということでしかないように思うのだが。

あるいは、私には、そのサイトの運営者は結局、何らかの形で「」施策に関する話であれば、過去の話でも、現在の話でも、とにかくそれをひとまず、部分的にでも「肯定的」に受けとめる人物の発言は「嫌い」で、「しゃくにさわる」ので、「そういうしゃくにさわるもの、嫌いなものは徹底的に排除したい」のだという風に見える。そして、そういう自分が「差別者だ」といわれ、「糾弾」されることをものすごく恐れているように思われる。

だから、こういうサイトには正直「つきあってられない」のが実情ではあるが、向こうのサイトからこちらにアクセスがある以上、変な誤解をされたりする前に、それなりの対応策を講じなければならない。そのためには、まずはもとの日記帳ブログにある記事を整理し、新ブログに必要なものを移した上で、そこで対処すること。これが、三つ目の新ブログ設置の理由である。

ところで、「施策に関連して、法令に違反する行為があった人物を、事実関係を究明して、大阪市として厳正に法にもとづいて処分すること」と、「かつての施策の遺産を活用しつつ、大阪市の子ども施策の充実」を目指すこととは、一応は別問題として考えることができる。少なくとも私はそう考えるし、だからこそ、「監理委員会」の議論のあり方はおかしいのだ、という立場で意見を述べてきたのである。

たとえかつての施策にルーツをもつものであったとしても、それが大阪市民、特に子どもや保護者のニーズに沿い、市民サービスを向上させるものであれば、大阪市全体に適用する形で発展的解消を目指すということだって可能である。また、今もなお、かつての地区など、ある特定地区にさまざまな住民生活上の課題が集中的に現れているのであれば、そこに大阪市として拠点施設をつくり、さまざまな行政サービスを展開するのも、これも当然のことである。このような行政サービスの提供は、たとえ財政難であったとしても、地方自治体行政の担うべき役割だと考えるし、そのためにどこから歳出削減を行うのか、歳入の増大を図るのかを考えるべきだと思うのだが。

したがって、少なくとも、「とにかくと名のつくものが嫌い」とか、「とにかくというニオイを感じさせるものは消せ」というかのごとき感情論で物事を処理するような話には、私はかかわりたくない。そういう意識の持ち主からのアクセスに対して、あるいはこのブログ外での議論に対しては、「問題外」として、正直なところ相手にしたくないのが実情である(とはいっても、こっちは相手にしたくなくても、向こうが何か言ってくれば、相手にせざるをえなくなるが)。

むしろ、「いろんな事件や問題点があったとしても、それを適切に処理しながら、過去の経過をふまえて、大阪市としてどのような子どもの人権保障の新たな枠組みを考えるか?」という視点に立てば、「過去の施策の矛盾や問題点の解消」と、「過去の施策の遺産の活用」ということは、論理的には別問題に分けることが可能である。少なくとも、私はそのように考えている。

こういう立場から、積極的に青少年会館の問題についてものを言う、そういう形で別のブログを立ち上げてもいいかと思ったこと。これも、4つめの理由に加えてよいだろう。

以上が、新ブログ設置の理由である。

<続いて、9月23日のこのブログの記事からの再掲>

今日はまず、斎藤貴男『安心のファシズム』(岩波新書)p.25~27の引用。

<以下、同書からの引用文>

 にわかには信じられないほど陰惨な差別表現の連続には、どこか痛々しささえつきまとう。こうした封書やハガキが、おそらくは同じ人物によって百通以上。関係者の自宅の住所を調べる手間も相当なものだ。差別がいけないとか何とかいう以前に、具体的に関係しているわけでもない相手に、ここまでのことをしなければならない理由、エネルギーの源泉はどこにあるのだろうか。

 長谷川三郎・解放同盟東京都連書記長に話を聞いた。この種の問題への対応を長年こなしてきた彼は、封書の主の主体を、こう推察している。

「小さい頃から偏見を身につけて、差別感情を増幅させていた人ではないような気がします。付近に被差別があって直接に接したとか、親や周囲の人間に差別を植え付けられたというのでもないのでは」

―どういうことですか。

「リアリティがないんですよ。たとえばの者にひどい目にあったから憎んでいるといったような、差別に至る実体験の裏づけがまるで感じられない。ただ世の中には被差別なるものが存在しているという“情報”を何かで知って、そこには解放同盟という悪い奴らがおるぞと、これも頭のなかだけで“情報”として理解した。それで、そのバーチャルな情報をもとにこんなことを繰り返しているのではないかな。

 だから、相手がどう傷ついたかということには、あまり関心もない。自らの行為そのもの、また社会的に騒がれることに快感を覚えている。そんな人間を想像します。(後略)」

このブログに、あるサイトからリンクを経由してきた人々のなかに、こういう意識の持ち主はいないのだろうか。もしもそんな意識の持ち主がいたとするなら、私は自分の日記帳ブログや、このブログに対しての、そういう人物のアクセスは「大変迷惑である」とお伝えしておく。そういう人物は、二度と、私の関係するブログにアクセスしてほしくない。

以上


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アクセス数が急に増えましたね。

2006-10-20 17:25:33 | ネット上でのバッシング考

この三日間ほど本来の仕事のほうが忙しくて、ブログの更新が途絶えていましたが、その間もアクセス解析だけはしっかりと見ています。どうもこの数日の間に、急速にアクセス数が増えたようですね。

私は実際に見ていませんが、今週月曜日の夜にNHK総合テレビが「クローズアップ現代」で青少年会館の「廃止」方針のことも含めた、一連の大阪市の「」施策見なおしについての特集を放送していたようなので(実際は、10月6日に「関西クローズアップ」として放映されたものの再放送のようですが)、もしかしたら、その影響もあるのかもしれません。

この青少年会館「廃止」方針を大阪市が打ち出したことに対して、マスメディアの伝えるところを通じて、多くの人々が関心を持っていただけること、これはたいへんありがたいことだと思います。と同時に、その方針の提示のやり方・中身の両方が、いかに現在、青少年会館を利用している子どもや保護者、地域住民にとって理不尽なものであるか。そのことにも、ぜひとも気づいていただけるとありがたいと思います。そして、その理不尽さに気づかれた方から順に、大阪市に対してなんらかのアクションを起こしていただけると、私としては個人的に大変うれしく思います。

なお、あらためていうまでもないことですが、私及び関係者への誹謗中傷目的でのアクセスについては、今後、一切やめていただきたい。また、それとおぼしきアクセスがあった場合は、ここでくりかえし警告を発していきます。このことも、もしかしたら前にも書いたかもしれませんが、あらためてお断りしておきます。


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いったい何がしたいのだろう?

2006-10-09 18:36:28 | ネット上でのバッシング考

この間、何度もくりかえし書いてきているように、このブログともうひとつのブログについては、「アクセス解析」でどんなサイトからここへアクセスしてきているのか、チェックをしています。それを見ていて、気づいたことを書きます。

(1)ヤフーなどの検索エンジンで、わざわざ私の名前を入れてみたり、あるいは「大阪市役所」というキーワードを入れてみたりして、私の2つのブログへたどりつく人がいますね。「どういう目的なんだろう?」と思ってしまいます。まだ私の名前を入れて検索するほうはいいのですが、「大阪市役所」なんてキーワードだと、何十万件のページがでてくるはず。そのなかでわざわざ私のブログを見つけてくるなんて・・・・、いったい、何がしたいんでしょうね? 「わざわざそこまでして探してくれて、ごくろうさん」と、いうしかありませんが。

(2)次に、あいかわらず「○○(地名)、」というようなキーワードで、検索エンジンであれこれ入れてみて、私の2つのブログへたどりついたという人がいますね。この人たちも、「いったい、何がしたいんでしょうね?」というしかありません。もしかしたら、どこがかつての被差別なのかを知りたいのでしょうか。そんなこと知って、何がしたいんでしょうね? そこに「差別」的な意図がないことを願います。

(3)それと、もう削除しましたが、もうひとつのブログのほうに、私から見て「悪質」と思うようなコメントの書き込みがありました。これも、わざわざ過去の記事にさかのぼって、私の意見などに対する誹謗・中傷ともとれるようなことを書いていたんですよね。今後もこういう書き込みがあれば、すべて削除するつもりです。


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辛淑玉『怒りの方法』(岩波新書)から

2006-10-01 09:54:23 | ネット上でのバッシング考

以下は、辛淑玉『怒りの方法』(岩波新書、2004年)の「はじめに」からの引用。いま、青少年会館や人権文化センター、老人福祉センター、障害者会館のことで、大阪市政に対して「怒っている」人々、何か「納得いかない」と感じている人は、ぜひ、この文章を参考にして、自分たちなりの「怒り」のぶつけ方、「納得いかない」気持ちの表現方法を考えてほしい。

同時に、ネット上でこういう人々の活動や発言に対して、さまざまなバッシングを浴びせている人々にも、大阪市政改革の基本プランをつくっているような人々にも、「私はそういう人々の行動や発言、施策づくりは絶対に許さない」という「怒り」の気持ちを伝える意味で、以下の文章を紹介しておく。なにしろ、以下の文章にあらわれる「日本社会の縮図」が、今度の大阪市政改革でもあるのだから。

※以下、辛淑玉『怒りの方法』(岩波新書)からの引用。

「妥協して集まった集団のエネルギーは、大したことないんですよ。むしろそれぞれが生活の中で怒りを感じたときに、それをきちんと表現したほうが大きな力になる。一人ひとりが本気で怒ることが大事。それが結集したときには、ものすごいエネルギーになりますから」

 日本社会のキーワードは、「仲間外れ」「村八分」だ。

 それが怖くて、人々は同調していく。強い者に。

 だから、怒りをぶつけていい対象が強い者から与えられると、人々はいっせいに動き出し、ヒステリックにその対象を攻撃しはじめる。

 とくに、権力に逆らった者に対しては、権力と一緒になって容赦なく叩く。

 日本社会は「判官びいき」とも言われる。たしかに弱者が物言わず耐えている間は、同情を寄せる。だが、その弱者が声を上げて主張しだすと、今度は強烈な嫌悪感と憎悪で攻撃し、そして排除する。「権利ばかり主張する奴だ」「世間を騒がせる迷惑な奴だ」などと。

 声を上げた弱者や「普通」と違う行動をとった個人を、自分たちの怒りのはけ口にしては、そのことで世界中から顰蹙を買う。日本社会はこれを繰り返している。(中略)

 誰かが決めた役割によって人々が動かされ、しかも役割を決めた人間はその結果に責任を取らない。この仕組みが日本社会なのだ。

 直接責任のある人間に怒りをぶつけて責任を取らせることができれば、この社会の多くの問題は解決できる。だが、怒りをぶつける者は少ないし、責任を取る者はもっと少ないから、誰も責任を取らない仕組みが温存されてしまうのである。

 この仕組みを壊すためには、一人ひとりが必要に応じて実験と学習を繰り返しながら、目の前の問題を解決していくことが大切なのだ。

 そのように動ける人が、どんどん力をつけていく。

 他人も組織も当てにならない。大切なのは、役職や肩書き、所属団体がなくても問題解決できる力をつけることだ。

 自分で考え、自分で動いてこそ、自分の道は開ける。

 そのためにはまず、奪われてきた怒りを奪還することだ。これは、人間性を回復することでもある。(後略)


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毎日、アクセス解析を見ています。

2006-09-27 06:18:10 | ネット上でのバッシング考

前にも書きましたが、私はこのブログと、もうひとつの日記帳ブログについては、毎日、アクセス解析を見ています。それを見ていて、昨日から今朝にかけて、「なぜ?」と思うようなアクセスがあることに気づきました。

とりあえず、一番気になるのは、例えばグーグルやヤフーなどの検索で「○○(地名、大阪市だけとは限らない)、」と入れ、そこから私のブログのどちらかを見つけてアクセスしてくるケースの存在。

これはいったい、なんなのでしょうか? ネット上で、どこがかつての被差別なのかを探し出そうとしているのでしょうか? それを知って、いったい、どうするのか? こういうアクセスをする人の意図が知りたいところです。できれば、そこに「差別」的な意図が含まれていないことを願います。

ちなみに、この新ブログを開設するきっかけになったあるサイト(ブログ?)は、その運営者が忙しくなったことと、在阪の各テレビ局などがこの問題を取り上げはじめたことなどが理由で、最近の大阪市政や解放運動のことなどをバッシングしていた部分だけ「閉鎖」したようです(ということは、そのサイトには、在日外国人に対する偏見が述べられている部分もあるので、そこは放置されているままなのか?)。先日、ある人から、そのことを教わりました。

しかし、まず今頃、「在阪テレビ局が取り上げたから」ということくらいで閉鎖するなら、もっと前にこのサイト(ブログ)は閉鎖しているべきだったはず。在阪テレビ局が飛鳥会事件関係で、大阪市内の被差別のことなどを取材していたのは、もっと前の話ですからね。また、「忙しくなった」というのであれば、今まで執拗に大阪市政や解放運動に関するネット上の諸記事を追い続けていたのはなんなのか、と問いたくなります。そう問うていくと、あとで引用する文章のように、誰かをネット上で誹謗中傷することで、自分に注目を集める「快感」を得ていたのか、とすら思ってしまいます。

そして、もしもそうだとすると、このサイト(ブログ)を閉鎖していても、どこか別のところで同じことを繰り返す危険性もあるので、もう一度、先日の斎藤貴男『安心のファシズム』(岩波新書)からの引用部分を、ここで掲載しておきます。これは、「○○(地名)、」というキーワードで私のブログにアクセスしている人にも、ぜひこの部分だけ読んでくれたら、と思います。

「リアリティがないんですよ。たとえばの者にひどい目にあったから憎んでいるといったような、差別に至る実体験の裏づけがまるで感じられない。ただ世の中には被差別なるものが存在しているという“情報”を何かで知って、そこには解放同盟という悪い奴らがおるぞと、これも頭のなかだけで“情報”として理解した。それで、そのバーチャルな情報をもとにこんなことを繰り返しているのではないかな。

 だから、相手がどう傷ついたかということには、あまり関心もない。自らの行為そのもの、また社会的に騒がれることに快感を覚えている。そんな人間を想像します。(後略)」


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アクセス解析を毎日見ています。

2006-09-25 20:19:41 | ネット上でのバッシング考

このブログと、私の日記帳ブログには、それぞれ、アクセス解析の機能がついています。いつ、どのホームページなどから、このブログや私の日記帳ブログにアクセスしてきた人がいるのか、それを解析機能を使って、私としては継続してフォローしています。

たとえば、今日の午後、ヤフーの検索機能で私の名前をフルネームでいれ、まず日記帳ブログのほうにアクセスしたあと、こちらの青少年会館を考えるブログにアクセスした人がいます。この人は、こちらのブログで、次々に私の「過去の投稿」などのページを見て、10分程度で立ち去っています。

こんな感じで、アクセス解析の機能をつかって、どういうルートでこのブログにアクセスしてきているのか、絶えず観察させていただいています。どうぞそのおつもりで、このブログに今後、アクセスしてくださいね。


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斎藤貴男『安心のファシズム』から

2006-09-23 08:03:30 | ネット上でのバッシング考

今日はまず、斎藤貴男『安心のファシズム』(岩波新書)p.25~27の引用。

<以下、同書からの引用文>

 にわかには信じられないほど陰惨な差別表現の連続には、どこか痛々しささえつきまとう。こうした封書やハガキが、おそらくは同じ人物によって百通以上。関係者の自宅の住所を調べる手間も相当なものだ。差別がいけないとか何とかいう以前に、具体的に関係しているわけでもない相手に、ここまでのことをしなければならない理由、エネルギーの源泉はどこにあるのだろうか。

 長谷川三郎・解放同盟東京都連書記長に話を聞いた。この種の問題への対応を長年こなしてきた彼は、封書の主の主体を、こう推察している。

「小さい頃から偏見を身につけて、差別感情を増幅させていた人ではないような気がします。付近に被差別があって直接に接したとか、親や周囲の人間に差別を植え付けられたというのでもないのでは」

―どういうことですか。

「リアリティがないんですよ。たとえばの者にひどい目にあったから憎んでいるといったような、差別に至る実体験の裏づけがまるで感じられない。ただ世の中には被差別なるものが存在しているという“情報”を何かで知って、そこには解放同盟という悪い奴らがおるぞと、これも頭のなかだけで“情報”として理解した。それで、そのバーチャルな情報をもとにこんなことを繰り返しているのではないかな。

 だから、相手がどう傷ついたかということには、あまり関心もない。自らの行為そのもの、また社会的に騒がれることに快感を覚えている。そんな人間を想像します。(後略)」

このブログに、あるサイトからリンクを経由してきた人々のなかに、こういう意識の持ち主はいないのだろうか。もしもそんな意識の持ち主がいたとするなら、私は自分の日記帳ブログや、このブログに対しての、そういう人物のアクセスは「大変迷惑である」とお伝えしておく。そういう人物は、二度と、私の関係するブログにアクセスしてほしくない。


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