アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

鉄道と天皇と戦争・植民地支配

2022年10月28日 | 日本の近現代史
   

 新橋―横浜間に日本初の鉄道が開通(1872年10月14日)して150年。NHKはさかんにキャンペーンを行い、6日には国とJRなどが主催する式典が行われ、徳仁天皇が出席してあいさつしました。
 101年前(1921年)に行われた「50周年記念式典」には、皇太子時代の裕仁が出席しました(写真中=NHKより)。

 鉄道の歴史は、天皇(制)、さらには天皇制帝国日本が強行した侵略戦争・植民地支配と深くかかわっています。

 広島は今でこそ「平和都市」などといわれていますが、敗戦までは代表的な「軍都」でした。帝国日本の本格的なアジア侵略のはじまりといえる日清戦争(1894年)で、大本営が置かれたのは旧広島城内。そこで明治天皇が戦争の陣頭指揮を執り、広島は出兵拠点になりました。なぜ広島だったのか。

「山陽鉄道が広島まで開通した。鉄道と宇品港が整備されていたのが広島が出兵基地になった理由である」(9月29日付中国新聞、連載「近代発 見果てぬ民主Ⅳ」

 朝鮮半島を植民地にした明治天皇制政府が、支配を確立するために行ったのが朝鮮銀行の設立(1902年)と鉄道の敷設でした。
 その両方で中心的役割を果たしたのが渋沢栄一。渋沢は朝鮮銀行が発行した紙幣の顔となり、朝鮮鉄道の代表におさまりました。渋沢は親友だった伊藤博文とともに朝鮮侵略・植民地支配の先頭に立ったのです。渋沢と鉄道の関係を示す資料は、ソウルの漢陽都城博物館に展示さています(写真右)。

 時代は下って、天皇裕仁が始めた太平洋戦争。開戦から1年後の1942年12月11日、裕仁は東条英機らを伴い、極秘裏に東京駅から「御召列車」に乗り込みました。「必勝祈願」に伊勢神宮へ向かうためです。

「天皇が乗る「御料車」の隣の車両には、簡易シェルターが設置され、いざとなれば天皇が避難できるようになっていた。御召列車の直前に走った「指導列車」には、外から見えないようにして高射機関砲と弾薬が搭載された」(原武史著『歴史のダイヤグラム 鉄道に見る日本近現代史』朝日新書2021年)

 その東京駅(写真左)の丸の内・中央口には、いまも「皇室専用貴賓出入口」があります。東京駅自体が、天皇の権威を誇示するものとして建設されたのです。
 東京駅の開業は1914年。その前身は「中央停車場」と呼ばれていました。

「中央停車場は、旧江戸城西の丸に建つ皇居と道路を通してつながることで、天皇のための駅として位置付けられた」「駅舎の中央部からは皇居に向かって、「行幸通り」と呼ばれる道路がまっすぐに延びている。こうした位置関係からも、東京駅が天皇のための玄関駅として建設されたことがよくわかる」「中央に皇室専用の出入口を有する東京駅丸の内駅舎こそ、植民地や「満州国」を含む帝国日本に君臨する天皇の威光を可視化する建築物となったのである」(原武史氏、前掲書)

 そして2021年。多くの反対を押し切って強行された東京五輪。気候のために北海道で行われたマラソンは、当初都内を走ることになっていました。そのコースは東京駅前から皇居へ向かうものでした。東京駅と皇居を結ぶ「行幸通り」を世界のマラソンランナーに走らせ、それを世界中に中継させようとしたのです。

 ここにも「東京五輪と天皇制」の隠れた関係、そして「東京駅」「行幸通り」を使って天皇(制)の威光を示そうとする時代錯誤の思惑があったのです。
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