アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

ウクライナ戦争「停戦協議拒否」の論理を考える

2022年10月27日 | 国家と戦争
  

 厳し冬を目前にしながら、ウクライナ戦争は停戦・終結へ向かう様相を見せていません。戦争を1日も早く終わらせるにはどうすればいいのか。

 ロシアは様々な思惑を持ちながらも、停戦協議を呼びかけています。これに対し、ウクライナ政府は、「プーチン大統領と交渉するのは不可能」と正式に決定(10月4日)。ゼレンスキー大統領は「プーチンとは交渉しない」として「徹底抗戦」を崩していません。それを支持する「世論」は少なくないとみられます。
 「停戦協議拒否」のこの主張がなぜ支持されるのでしょうか。

 それを考える1つのヒントが、「新しい時代の戦争のあり方」が「国家の戦争」から「個人の戦争」へ変わった、とする古谷修一・早稲田大教授(国際法)のインタビュー(18日付朝日新聞デジタル)です。関連する部分を抜粋します。

< 昔だったら、戦争には落としどころがありました。でも、今回はだれも、プーチン大統領とまともに交渉できません。プーチン氏は重大な戦争犯罪人です。「戦争犯罪人と交渉するのか」と問われる。

 これは「正義」と「平和」の相克ともいえるでしょう。これまでなら、「平和」を実現するために、清濁併せのんで妥協してきました。しかし、「正義」には妥協の余地がない。妥協は、犯罪者との交渉を意味しますから。そうなると、戦争もやめられません。

 戦争が「犯罪」と化した、あるいは戦争が「人権問題」と化した世界では、妥協が難しい。それを世論が許さないからです。
 戦争はかつて、政治的妥協を引き出すための方法の一つだった。今は、そのようなものではない。明確な人道問題なのです。だから妥協はできないし、落としどころも見つけにくい。

 例えば、「ウクライナはNATOに入りません」などという落としどころを考えたとしましょう。もしそれでゼレンスキー大統領が妥協したら、果たしてウクライナ国民が納得するでしょうか。問題の中心はもはや、ウクライナ東部がウクライナとロシアのどちらに帰属するかではなく、そこで起きた虐殺なのですから。

 それは、戦争が国レベルの関係ではなく、人間関係のレベルで語られるようになったとも言えます。「戦争の個人化」です。戦争が個人の話として議論されるために、国家の話として妥協するのも難しくなったのでしょう。>

 古谷氏は、「戦争の個人化」の背景にはSNS(スマホ)の普及があると言います。「戦争を、国と国との戦いという抽象的なレベルではなく、もっと身近なものとして受け止めるわけです」

 傾聴に値する主張だと思います。しかし、疑問・異論も禁じ得ません。

 第1に、ウクライナ戦争が「個人の戦争」の様相を濃くしているとしても、けっして「国家の戦争」でなくなっているわけではないことです。むしろ、「個人の戦争」「人権問題」を前面にだして「国家の戦争」であることを後景に押しやろうとする戦略が、「国家」によって遂行されているとも言えるのではないでしょうか。

 第2に、古谷氏が「新しい戦争」の根拠としている「SNS情報」自体が、「国家」によって管理・統制されていることです。

 そして最大の問題は、古谷氏の論理では、ウクライナ戦争の停戦・終結の糸口・方向性が見えてこないことです(事実、古谷氏はその点には答えられていない)。

 古谷氏は結論としてこう述べています。

「やや理想を込めて考えると、人権への価値観が今以上に共有され、市民同士の連帯感が生まれる世界にならないか。少なくとも、新たな世界に向けた枠組みやルールをつくらなければならないと、多くの人が思い始めているように感じます」

 これには同意します。しかし、同時に必要なのは、目の前の戦争を1日も早く停戦・終結させることです。

 引き続き考えたいと思います。そして、古谷氏だけでなく、いまこそ学者・知識人(とりわけ平和学、国際法、国際関係学など)の、停戦へ向けた主張・論及が切望されます。
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