
「肥後すみれ」 スミレにしては葉の形が変わっています (14―3―20)

あと数時間で、あの朝がやってきます。20年にもなります。凄い揺れで目が覚
めました。目の前の壁がメトロノームのように左右していました。「ただ事では
ない!」と感じて、布団の中で揺れの収まるのを待っていました。
下で寝ていた息子が駆け上がって来ました。「大丈夫!」って。
ゆれが収まってから下に下りていきました。テレビはたおれるわ、去年の末に買
ったばかりの熱帯魚の水槽もひっくり返って、じゅうたんは水浸し、魚は伸びて
いました。
台所は食器が床に散乱していました。息子の部屋は大きな本箱が倒れ、其の前
にあったテレビ台に引っかかって本が散乱していました。このテレビ台がなかった
ら、本箱は息子を直撃していたかも知れません。
家の中で靴を履いてガラスの散らばった床を掃除をしてくれたのは主人と息子で
した。私は何をしていたのか思い出せません。
家の電話は不通でも、こんな時、公衆電話はかかると聞いていたので、近くの公
衆電話に走り、大阪に住むむすこに電話をして、無事を確かめました。
向いの方が、一人暮らしだったので、「大丈夫か、声をかけてあげ」と主人が言っ
たので、お向いに走り、無事を確かめました。
余震に怯えながらの数ヶ月、何を食べ、何をしていたのか全然覚えていないので
す。ただ半年ほどは着の身着のままでソファーで寝ていました。
そういえば、同期会でも「地震の話」をした覚えが無い事を今頃になって気づきま
した。何故なんでしょうね。皆さん神戸ですから大なり小なり被害を受けているは
ずです。何故、話題に上らないのだろう。今になって、不思議だな~と思います。
神戸の親戚の安否を求めて行った帰り、車窓からは真っ暗で、明かりのない町
になった神戸に胸の潰れる思いだったことはしっかりと覚えております。残っ
た家の屋根はブルーシートで覆われていました。
今の神戸は、あんなことがあったとは思えない復興をした街並みがあります。し
かし今朝のテレビで、「街並みという『ハード面』では復興したように見えるかも
しれないけれど、『ソフト面』ではまだまだです。若い人に帰ってきて欲しい」と言
っておられました。
二十歳を迎えた若者が言っていました。「自分は震災を経験した親から、色々
と聞いているが、今度自分が語り継ぐとなれば、経験の裏づけがない事実をど
のように語りついで行けばいいのか、共感を与えて語り継いでいってもらえる
のか不安である」って。
震災を知る被災者は年々減っていきます。ニュースで、知事は言っておられま
した「思い出すだけではなく、語り継いでいって欲しい」どの様に真実をつたえ
るか、大変な課題です。
