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ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

あれから20年

2015年01月16日 | 今日この頃

        「肥後すみれ」     スミレにしては葉の形が変わっています     (14―3―20)

 

あと数時間で、あの朝がやってきます。20年にもなります。凄い揺れで目が覚
めました。目の前の壁がメトロノームのように左右していました。「ただ事では
ない!」と感じて、布団の中で揺れの収まるのを待っていました。

下で寝ていた息子が駆け上がって来ました。「大丈夫!」って。

ゆれが収まってから下に下りていきました。テレビはたおれるわ、去年の末に買
ったばかりの熱帯魚の水槽もひっくり返って、じゅうたんは水浸し、魚は伸びて
いました。

台所は食器が床に散乱していました。息子の部屋は大きな本箱が倒れ、其の前
にあったテレビ台に引っかかって本が散乱していました。このテレビ台がなかった
ら、本箱は息子を直撃していたかも知れません。

家の中で靴を履いてガラスの散らばった床を掃除をしてくれたのは主人と息子で
した。私は何をしていたのか思い出せません。

家の電話は不通でも、こんな時、公衆電話はかかると聞いていたので、近くの公
衆電話に走り、大阪に住むむすこに電話をして、無事を確かめました。

向いの方が、一人暮らしだったので、「大丈夫か、声をかけてあげ」と主人が言っ
たので、お向いに走り、無事を確かめました。

余震に怯えながらの数ヶ月、何を食べ、何をしていたのか全然覚えていないので
す。ただ半年ほどは着の身着のままでソファーで寝ていました。

そういえば、同期会でも「地震の話」をした覚えが無い事を今頃になって気づきま
した。何故なんでしょうね。皆さん神戸ですから大なり小なり被害を受けているは
ずです。何故、話題に上らないのだろう。今になって、不思議だな~と思います。

神戸の親戚の安否を求めて行った帰り、車窓からは真っ暗で、明かりのない町
になった神戸に胸の潰れる思いだったことはしっかりと覚えております。残っ
た家の屋根はブルーシートで覆われていました。

今の神戸は、あんなことがあったとは思えない復興をした街並みがあります。し
かし今朝のテレビで、「街並みという『ハード面』では復興したように見えるかも
しれないけれど、『ソフト面』ではまだまだです。若い人に帰ってきて欲しい」と言
っておられました。

二十歳を迎えた若者が言っていました。「自分は震災を経験した親から、色々
と聞いているが、今度自分が語り継ぐとなれば、経験の裏づけがない事実をど
のように語りついで行けばいいのか、共感を与えて語り継いでいってもらえる
のか不安である」って。

震災を知る被災者は年々減っていきます。ニュースで、知事は言っておられま
した「思い出すだけではなく、語り継いでいって欲しい」どの様に真実をつたえ
るか、大変な課題です。

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嫌~な話

2015年01月15日 | 気にかかる

        「カニシャボ」        武庫之荘の町角     (14―11―10)




いくら言っても、変わりないのですが「寒いですね~」家の中にすっこんでいま
す。

今日はネット(勿論新聞でもですが)で騒がれているお話。

紅白で騒がれた、サザンの桑田さん、何かの紙上に「謝罪文」を出したそうです
ね。今年も例年通りビデオで採りましたから、サザンの部分は飛ばしたんです。
だから直接は見ていないのですが、「反日の歌詞の歌」だったとか「天皇陛下か
ら下賜されたメダル」をお尻のポケットからつかみ出したとか。

随分、欠礼をなさったようですね。やっぱり下賜されたものを、尻ポケットは拙い
でしょう。見てもらいたいなら、やっぱり、正しい方法、首から提げるでしょう。
どんな場面で、どんな歌のときだったかは知りませんが、「反日の歌」を歌いな
がらだとしたら、最低ね!

私が四国遍路で歩いていた時、繁華街、デパートでは、季節は秋だったと思い
ますが、「白い季節」?とか言う歌が流れていたのを覚えています。あ~、欠礼
したのはあの人なんだな~と思いました。


植村元アサヒ新聞記者が「従軍慰安婦」問題で、其の元祖だと騒がれていまし
た。しかし彼は逃げ回って、釈明はしませんでした。このたび彼の娘さんに被
害が及んだと言う事で「名誉毀損」のうったえを起こしました。

この弁護費用は、彼は出さないそうです。東京第二弁護士会が出すそうです。
この会は左翼、人権派の集まりだそうで、訴訟費用互助会システムがあって、
支援の寄付も多いそうです。弁護士として名を連ねることによって、人権派と
して名が売れ弁護士活動に活躍の幅が広がる。という左翼のシステムがある
そうです。

これで納得がいきました、170名の弁護士が弁護するという意味が。植村さん
を叩いた記事を片っ端から掘り出して、訴訟に持ち込むんですって。

これって植村さんも利用されていることになりません? どんなに多数の応援
があろうとも、私は「自分じゃない」と思うなら、植村さんが自身の口ではっき
りと「弁明」されたほうがよかったと思います。


産経元ソウル支局長の加藤さんの出国禁止がまた3ヶ月延期されました。

韓国にこんなに侮辱されながらも、離れられないのは、やっぱり「お金」なんで
すね。「日本の経済連」が儲けられなくなるので、断絶に反対するんですって。

今、話の出ている、韓国と地下ケーブルで結ぼうという話は、もしかして「日経
連」の利益のため? どうぞこの話は立ち消えになるように祈ります。碌なこと
が起きないような気がしますよ。




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お墓の話

2015年01月14日 | 気にかかる

        「侘び助」   気づかぬ内に満開になり 傷み始めていました     (15―1―2)




正月早々、こんな話題…、と思うのですが、サンケイも日経もこの話題を取り上
げているんです。

結婚してから54年、結家先の墓を守り続けてきた私。近頃ボチボチと耳にして
はいましたが、本当にそんなに増えているのでしょうか?

「夫の実家の墓に入りたくない」 私は名前を出さないために「婚家先の墓」と
書きましたが、「夫の実家の墓」という言葉にまず驚きました。

特に夫側の親戚づきあいも無く、二人の生活をしているからこそ出た言葉だと
思います。

入りたくない理由「知らない人ばかりだから」 だそうです。後先はわかりません
が、夫も、子供も入ってきます。それでも「知らない人ばかり?」

跡継ぎがいないとします。だから、生み育ててもらった、自分の親、可愛がって
もらった祖父母と眠りたいとします。其の墓を男兄弟が守るとします。其の連れ
合いは他人です。そして其の子供の、其のまた子供の連れ合いも他人で、知ら
ない人になります。それでも自分の実家なれば良いのですか?

もし一人娘だとします。それなら後々他人は入ってきません。しかし、「あなたで
血筋が途絶えたら、墓守は誰がするのですか?」と問いたい。

私が守っている墓には私が知っているのは舅姑と若くして亡くなった義弟だけ
です。屋久島の墓から持ち帰った(姑が長男の嫁だと言って)何十人の遺骨は
知らない人です。

でも私はいつかはここに入る、自分が亡くなれば、誰かが「墓守」をしてくれる
と信じて、お墓を守って来ました。

私は信心深いわけではありません。実家の母は信心深い人でしたから、お墓
参りに私を誘うのですが、私が嫌がります。そうすると「帰りに映画を見せてあ
げる」と言って、私を誘い出します。えさに釣られてお墓にいやいや行きました。
しかし、お墓の作法は自然に見て覚えたものです。今にして思えば「母の作戦
勝ち」です。

そんな私でも、その立場に立てば、縁あって連なったご先祖さまを祀ろうとしま
す。そんなものです。あれこれ先走らないほうがいいのです。

私は一人娘でしたから、結婚する時に「母の教え」どうり、墓も、位牌も整理して
嫁ついで来ました。だから、私の墓は、今私が守っている墓しかないわけです。

私の周りには夫の家の墓に入るのが当然と思っている人ばかりです。ご主人を
亡くして新しく墓を建てた方も、当然息子たちが守り、入ってきてくれると信じて、
建てたと思います。

「類は類を呼ぶ「とか「似たもの同士」とか言う言葉があるように、同じ考えの者
が集っているのでしょうか?

我家が守るべき墓を持っていないとします。それなら、母の言うように「形は無く
とも、思い出してくれるだけでいい」の言葉通り、お墓は持たないかもしれません。
「散骨」にしてほしいかな~。いやいや、是は生きている人が考えることだわね~。

生まれ育った神戸・元町の空からまくことはかないませんから、やっぱり54年も
「本籍地」にしている「屋久島かな~」世界遺産だからだめかな~? 何処でもい
いわ、海より山だわね~。

マスコミもこんなこと、少数派だと思うから、あまり取り上げないで欲しい。年を
重ねれば考えも、また変わるよ。



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お~!宝塚!

2015年01月13日 | 一寸そこまで




昨日(1月12日)宝塚を見に行ってきました。ご一緒した友人も、娘時代に行
ったきりだといわれました。大体がそうかも知れませんね。切符を買ってまで
行く気はないけれど、チャンスがあれば、見てみたい。

私も自分でわざわざ窓口まで買に行くことはしませんが、葉書を出しておいて
「当たれば」行こうかな~という感じです。

昨日は籤運が悪かったです。B席(3500円)でした。前回も前々回もS席
(8500円でしたが、其の前はSS席(12000円)だったのですが、今年はつ
きが落ちたのでしょうか。以前にも連続2階席だったことがありますから、当分
はそうかな~?

   

2階席ですと、人が手のひらに乗るほどにしか見えませんけれど、その代わ
り全体が見えるという良いこともあります。私のように、特定の憧れのスター
がいなければ、遠目であっても宝塚の華やかさは十分感じることは出来ます。

彼女も「やっぱり、スターには他の人にないオーラーがあるね、それを見抜く
人も偉い!」「明日に新しい力をもらった感じ!」と喜んでくれました。

また、次回も申し込んで、当たれば、友人と一緒に、楽しみたいと思います。

舞台についていいますとね、スターが客席に下りてくるという場面が、幾度か
ありました。過ってはなかったことですね。

フイナーレのときの背中の羽をつける人が、男女のスター2人だけと言うのが
一寸寂しかったですね。いつもなら7~8人居て華やかだったと思いますが…。
歌劇も生き物ですね、色々と変化するようです。

今回のスターさんも初めての方ですが、最近はスターの席に上り詰めたら、そ
れで満足なのか、しばらくすると退団する方が増えましたね。だから大スター
と呼ばれる人がないような気がします。辞める人あれば、新しい起用がある、
そのほうが良いのでしょうかね~?





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初詣

2015年01月12日 | 一寸そこまで

        「橿原神宮の大きな絵馬」          (15―1―10)


1月10日(土)主人の風邪の状態を見て、待っていたのですが、中々完治とは
いかないようですので、主人は今年は欠礼することにして、息子と2人で行きま
した。

松の内の間に初詣ということもあり、この連休を逃すと、自動車で連れて行って
もらうことが出来なくなるから行くことにしました。日本一大きいといわれる「絵馬」
を見るのがが目的で、通い始めましたが、もう何年になるでしょうか?

橿原神宮は思ったより、大勢のお参りがありました。駐車場がほぼ満杯でしたよ。
三が日は臨時駐車場がありますが、今までそこしか使ったことがなかったのです
が、正規の駐車場に止めますと、本当に神社の近くですので、長い参道を歩くこ
ともありません。

しかし、屋台を見ながら参拝する事を、好まれる人にとっては、長い参道にぎっし
り立った屋台の道のほうがいいのでしょうね。



何時ものように、皆さんが奉納された「絵馬」も見せていただきました。私は見
るのは好きですが、一度も「願い事」を書いたことはありません。



丁度「お宮参り」に出会いました。付き添っている方もおられるようでしたが、お
母さんご自身がだいておられました。こういう形は初めて見ました。普通は年寄
りが抱きますよね。



              池には 餌を与える人がいて 水鳥が集まってきます


6時半頃には朝食を食べている私ですから、昼になると乗っているだけでもお腹
は空きます。「昼食べる?」と催促しました。高速には「香芝」しかありませんので
そこに寄ってくれました。

「ざる蕎麦」を頼みました。これがとても冷えていておいしかったです。いつも大阪
駅の立ち喰い蕎麦を食べる時思うのですが、「如何してこんなに冷たいのか?」
水だけではこんなに冷たくなることはありません。「香芝」で同じように冷えた蕎麦
を食べて思いました。湯がいた跡、瞬間的?に冷やす装置があるに違いないと…。
この冷たさがなければ、私食べませんもの。

それから1個250円だという「コロッケ」もかってきてくれました。ご当地の肉ミンチ
だそうですが、一寸高すぎるよね?

機械でチケットを買うのですが、大阪ですと、其のチケットを持って、カウンターで
並びます。しかし此処は違いました。チケットには「品名」と大きく数字がかかれて
います。即ち、機械からカウンターに直接注文が通っているのです。そして、其の
番号を呼ばれますと、カウンターに受け取りに行くことになります。

チケットを買うのも、品物を受け取りにいくのも、食べたお盆を返却するのも、全て
息子がやってくれます。これが主人と一緒ですと、私が全てをするわけです。

主人の言い分「ワシは年寄りだから」って。一寸! 私だって年寄りだよ!







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紙つなげ!彼らが本の紙を造っている

2015年01月09日 | 読みました
    
        2012年8月30日、日本製紙石巻工場は完全復興を果した
        

この本をしった時、何故手に取ったかと言いますと、私「日本製紙」の株主な
んです。株主と言っても何も知りませんからね~、一寸読んでみようかな~と
思ったわけです。

東北の大震災で、日本製紙がこんなに大変なことになっているとは知りませ
んでした。確か「配当」が滞ったことはなかったと思いますし、年に一度、ティ
ッシュや其の年の新製品などを送ってもらっていますが、中止になったことは
なかったと思いますよ。プレゼント(試供品)の箱が小さくはなりましたけどね。

本を読みまして、社員を大切にする会社だと思いましたし、上に立つ人の器
量で会社は大きくなるんだとつくづく思いました。

それだけではありません。会社が大きいですから、関係会社から、食べ物など
の援助物資も、続々と送られてきたようです。地元では、全て工場が独り占め
しているという噂を流したこともあったようですが、そんなことはありませんでし
た、地元の方々の手に届くように、役所に届けたようです。社員だけが徳をした
ということはなかったといいます。時には社員でもバナナ半分という割り当ての
時もあったようです。

会社が潰れれば、石巻の人たちの働き場所もなくなるわけです。契約している
印刷会社に迷惑を掛けられない、という思いもあり、半年で立て直すという無
茶と思える事を地元、社員が一丸となって遂行されたようです。

色んな種類の紙があることは知ってはいましたが、用途によってこんなに細か
く分類されていたとは知りませんでした。

株主については触れていませんが、大切にされているな~と感じました。

益々発展されて、プレゼントの箱が、元通り大きくなったらいいな~と欲張った、
邪まな考えも持ってしまいました。

久々に読んで良かったという本でした。




コメント (2)
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いちご

2015年01月08日 | 今日この頃




昨日、我家に「いちご」が届きました。あけてビックリ、大きな立派な「いちご」です。
それぞれ「あきひめ」「紅ほっぺ」と名前までついた「大きなイチゴ」です

もうどのくらいの月日が流れたのでしょうか、滋賀(琵琶湖の近く)を襲った台風で、
「ぶどう畑」が根こそぎやられ、全滅しました。無残な畑はテレビでも何度となく放
映されましたから、ご存知の方もあると思います。

いくらかの政府からの補助はあるとはいえ、「ぶどう」を初めから育てるには年月
が掛かります。お子さん3人を含め、親御さんとの生活が掛かっています。まずは
すぐ収穫に結びつける「いちご」を作ると聞いておりました。

其の「いちご」が届いたのです。息子の友人の「無」から「有」を生み出した「いち
ご」です。「よく頑張られたな~」と人事ながら、喜びました。







写真では其の大きさがわからないと思いますので、「携帯」と「私の親指」で比べ
てみました。お分かりですか?携帯の縦はイチゴ2つ分です。私の親指の3倍以
上あります。

          

右の「紅ほっぺ」はあっさりとした甘味で、おいしかったですよ。「あきひめ」の方
はまだ食べておりません。何しろ大きいですから、食後の「デザート」には2つも
食べれば十分です。



この、底に凹凸のあるスプーンご存知ですか? そうなんです「いちご用スプー
ン」なんです。「メロン用スプーン」とセットになった頂き物ですが、近頃トンと出
番がなかったのです。

昔はイチゴは、このスプーンで潰して、練乳を掛けていただきました。普通のス
プーンは底が丸いですが、コノスプーンは底が平でブツブツしていますから潰し
やすかったのです。

今のイチゴは甘くなりましたから、そのまま食べますので、このスプーンの出番
がなくなったのです。

今日のイチゴにも必要ありません。今でもこんなスプーン売っているのでしょう
か? 一寸、日の目を見せてやりました。



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曽野綾子さんのことば

2015年01月07日 | 新聞から






産経の「年頭にあたり」という「正論」に曽野さんが「日本人よ、逆境に耐える力
養え」
 という文を書いておられます。なが~い文章ですので、1部分抜粋しました。

            

「皆いい子」として育てられた。 是は言葉は違いますが、「皆平等、勝ち負け
無し」「全員1等賞」として育てられた事を意味していると思うのです。

生きていくのに「勝負」「競い合い」「負けじ魂」は必要だと思うのです。だのに学
校では「差」を極力つけないようにとします。

私の親友たちは何故か、クラスで1.2番という成績の人でした。彼女たちは少し
の努力で良いのですが、私はその何倍もの努力をして、彼女たちに追いつこう
としました。そのように努力したことが、それ以後の私の努力する力の原点に
なっています。今までの私の人生を豊かにしてくれたと信じています。

学業で平等でも、世の中に出れば努力した者の勝です。その人なりの努力が
あってこそ人生は豊かになると信じています。

私の周りには、今までに努力したものを持った人、今努力を始めた人、色々居
られます。私はその方達の生き様を視野に入れつつ、友情を育んでいるという
幸せな人生を送っていると思っています。



学校も社会も、若者や老人を甘やかさず、自分で出来る範囲の責任は果す
という姿勢を鍛え続けて、国家と社会を強力なものにしなければならない。


「若者や老人を甘やかさず」この言葉は今の悪い面を端的に現していると思い
ます。

まず若者、「生活保護」を受けている人の中に「若者」がいる、ということが、
信じられないのです。結局、自分の働きたくない仕事に就くよりは「生活保護」
もらったほうがいい。という考えですね。

しかし、「少しは働いて…」と思う人がいたとします、少しでも働いて、収入を
得ると「生活保護」は其の分減らされるといいます。それなら、「働かないで全
額もらおう」ということになるようです。どの様な仕組みになっているのか知ら
ないのですが、矛盾を、働く人の意欲を削ぐと感じます。

老人、若い頃何をしていたのだろうか? 年をとれば、無収入になることは分っ
ていたはずです。そのためにコツコツと少しずつでも「老後のため」と心がけて
おくべきでした。大体の方が其の努力で蓄えたもので、年金で足りない分を補
っおられるのではないですか?

ありがたいことに、年金を頂いていますから、今の老人所帯は子供の世話にな
ることなく生活していけます。 私たち以上は老いた親の面倒を見るのは当たり
前でした。私たちもそうして来ました。

ただここでも不公平があるようです。老いた時のためにと国民年金をかけ続けた
人には、たったの5万円、それすら掛けずに、生活できないと「生活保護」をもら
う人が十数万の手取りとか。私がこの事を知ってからも、数年たっていると思い
ますが、改良の気配はないようです。

このブログを書いて、ツイッターを見ていますとこんな記事が目に入りました。

生活保護の申請時、自治体職員のケースワーカーとの申請手続きに同席して
議員として暗黙の圧力(生活保護費がもらえるように)を掛けます。其の見返り
が投票であり、赤旗。聖教新聞の購読なのです。国会議員に留まらず、地方議
員の暗躍があります。特に公明党、共産党、そして民主党の一部議員です。税
金で創価と共産党を太らせています。


もっと悪いのは外人(特に朝鮮、中国)になお手厚い「生活保護」を支給している
といわれています。何故? 国民は其の国の責任でなないですか? 日本の審
査が甘いと言う事で、次々に家族を呼び寄せていると聞きます。何故、そうする
のですか? 

国民年金を掛けていた人に、もっと手厚く補助すべきだと思いますよ。日本国民
をもっと大切にしてあげてください。

タダね、現在生活保護受給者数=161万5240件は多いな~? 思いません?

曽野さんもいわれるように、私たちの親たちは、本当に苦労をしています。自分
の力で、必至で生き抜きました。其の上に貧しいながら、より貧しい人を助けよ
うとしました。やっぱり、これは幼い時の「教育」ではないでしょうか? 
「自立しながらも、弱いものを思いやる心」を培える教育を望みます。

                               (2480回)




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今年初めて見たテレビ

2015年01月06日 | テレビから

              何だか難しい名前でしたが…     (14―10―14)



今日は今年初めての雨の日でした。生憎なことに、月参りでお坊さんの来られ
る日でした。何時もは8時過ぎには来られるので、今日もそのつもりで用意して
いましたが、雨のためでしょうか9時過ぎに来られました。何はともあれ、今年
初めての月参りを無事済ませました。 









元旦、テレビをはじめてつけたのが「テレビ体操」でした。例年は元旦だけは「テ
レビ体操」お休みしていました。何気なく点けたテレビが「テレビ体操」だったの
です。

そして、こんなに楽しい趣向になっていましたし、先生は3人、ピアニスト3人が、
毎日日替わりで出ておられるのが、今日は皆さんお揃いです。楽しい、そして、
日頃は説明だけで、体操なさらない先生方が運動なさっているのを見る機会だ
ったのです。

前列の紫色や赤いタイツの6人が、いつもお手本を示してくださる方々です。

「テレビ体操」を始めてもう5.6年は経っていると思います。今まで元旦をお休
みして、ソンしたな~と後悔仕切りです。鬼さんに笑われるのを覚悟で言いま
すと「来年からは、元旦もテレビ体操するよ!」です。











続いて「舞楽」でした。日頃は、目にすることの少ないものですが、日本の古典
であり、色合いの華やかで、美しいので見とれてしまいました。この世界も男社
会なのでしょうか?

「火焔太鼓」というのでしょうか、表舞台からは見えない裏で、叩いているかた
が居るのですね。80年も生きてきても、知らない事のなんと多いことでしょう。
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2015年のはじまり

2015年01月05日 | 今日この頃


     明けまして おめでとうございます
          本年も よろしく お願いいたします


暖かい年末でした。関西はお正月は風が冷たく。チラチラと小雪も舞いました。 
でもそれ以外は、お天気にも恵まれた、年明けでしたでしょう。

わが家族も、全員元気で越年いたしました、といいたいところですが、主人が
年末から、風邪気味で、食事以外は寝床に隔離状態でした。其のお陰で、私
たちもうつされることなく、どうにか、年末年始を過ごすことが出来ました。本
人も、年末に薬を沢山いただいてきてはいましたが、今日の病院行きを心待
ちにしておりました。

     

今年初めての外出が、病院というのもパッとしませんが、付添婦しました。

お陰さまで、順調に回復のようでした。帰りに隣の阪神尼崎に寄り、お昼にと
「にぎりずし」を買ったのですが、其の不味いこと、不味いこと、「これだけ不味
いものをよく作れるな~」という代物でした。新年早々嫌~な気分。







そういう理由で、正月写真があまりないのです。そこで考え付いたのが、これ
らの写真の起用です。

「羊年」ということで思いつきました。今から20年前です。「還暦の祝い」で憧れ
のニュージーランド行きを手配しました。あちらとこちらは正反対の季節ですか
ら、2月花盛りをを選びました。

ところが、出発半月前に「阪神淡路大震災」が起こってしまったのです。そこ
で1年先延ばしにして、翌年の2月に旅立ちました。当地ではレンタカーを借
りての1ヶ月の旅です。南島と北島では、レンタカーは借り替えないといけな
かったのですが、両島とも私の「還暦」にふさわしい「真っ赤」でした。

到着の夜と離島の夜だけはホテルでしたが、あとは28日モーテル(日本のモ
ーテルと誤解しないでくださいね。モーターカーのホテルですよ)で自炊です。

お米はアメリカの「ぼたん」の模様がおいしかったです。炊飯器などありませ
んから、昔ながらのた炊き方でご飯を炊きました。ガスではなく電磁器でした。
多めに炊いて、おにぎりにして、翌日のお昼弁当です。

おかずは大体、歩くのも疲れる大きなスーパーで出来合いを買いました。現
地のお料理が食べたかったからです。そうそう、あちらでは、日曜日は「アル
コール類」は売ってくれません。スーパーでもそうですよ。周りにチェーンを
張って販売禁止です。多めにストックしておいて、自動車のトランクに積んで
おりました。

前置きが長くなりました。30日間の旅行中、2日に一度は、留守宅の息子に
手紙を書きました。其の葉書の絵が上の羊たちの葉書という事です。

下の2枚は「羊の毛刈りショウー」を見に行った時に。子羊にオチチをやらせ
てもらえるのです。私もさせてもらいました。私がしゃがんだものですから、
子羊はとても窮屈な体型になりましたが、絶対に離そうとしないんですよ。い
い思い出です。

近頃は遠い遠い昔のことが、近い近いことのように思い出されます。






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