「黄水仙」 武庫之荘の町角 (11-3-15)
私の瞼は朝から張れぽったい。新聞を読んでは涙ぐみ、テレビを見ては涙するか
ら…。阪神淡路大震災の時、私はこんなに涙を流しただろうか? いいえ、流しま
せんでした。涙する余裕すら持って居なかった。余震に怯えて緊張ではちきれんば
かりだった時涙する余裕もありませんでした。
親戚を尋ねて、神戸を歩き廻った時も、少し日時がたって、動き出した電車に乗っ
て、何時もは家々にともっていた光で明るい夜の神戸が、一つの光もなく漆黒の闇
に呑まれているのを眺めた時も、私の目に涙はありませんでした。
涙は何時出るのだろうか? 我事ではなく、一寸でも距離を置いた環境で涙は流れ
るのだろうか?
岩手は小澤さんの地元ではなかったですか? 選挙区で無いにしても、何故姿を見
せないのでしょう? マスコミも何故一言を貰いに行かないのでしょう? 私には不
思議で仕方の無い事です。
南三陸町の町役場、町危機管理課職員の遠藤みきさんのお話です。彼女は「6m
の津波がきます。早く逃げてください」と無線放送し続けて、今、行方不明なの
です。
お母さんはすでに津波から逃れていました。みきさんの声を聞きながら携帯だけも
ち、着のみ着のまま車で志津川高校まで逃げてきた友人は、おかあさんに「娘さん
の声がづ~っと聞こえていたよ」と話したそうです。
責任感の強い娘さんを持ったお母さんは、どんな思いで友人の話を聞かれたので
しょう。娘さんが流されるのを見たという人もいたそうですから、絶望的かもしれま
せん。
人事だからいえるのかも知れませんが、これから嘆いて生きるのも一生。自分に課
せられた仕事を命を掛けて果たして、大勢の人の命を助けた。その娘さんを誇りに
思って生きていただきたい。私は思っています。
役所は跡形もなくなるほど壊滅したそうです。
この話を聞いて、「氷雪の門」を思い出しました。去年の12月20日のブログに
書きました。
樺太(今のサハリン)の真岡郵便局に勤務して居た、電話交換手の9人の乙女のお
話です。昭和20年8月15日無条件降伏して、終戦を迎えた日本に対して、「日ロ不
可侵条約」を破って、ロシアが樺太に攻め込んで来ました。そのロシア軍が、真岡
に侵入すると知った乙女達は、最後の最後まで、電話をつなぎ続け、ロシア軍の暴
力の手に掛かる前に「青酸カリ」を飲んで命を絶ったのです。
最後の最後まで、自分の仕事を全うしたということが同じだと思ったのです。今は自
分本位の日本になっていますが、昔の日本人は、人のため自分を捧げるという人
種だったのでしょう。そのDNAが「遠藤みき」と言う女性の中に息づいていた。
私はそう感じたのです。
惜しい人を亡くしたと思います。きっといいお母さんになられたでしょうに。せめ
てもう一度お母さんに貴女の顔を見せてあげて欲しい。それが貴女に対するご褒
美だと、そして、もしかしたら最後の親孝行だと、そうあってほしいと願っています。
彼女は結婚間近の大切な人がいたのに
津波の注意喚起を促す事より非難する事を選ばなかったわけを知りたい
自衛隊や消防団員の方々
お願いだから
頑張って見つけ出してほしい。
頑張って生きていてほしい。
そうですか、ご結婚まじかだったのですか、
重ね重ね残念としか言いようがありませんね。
避難する道を選ばなかったのは、
彼女の人への思いやり、優しさだったのでは?
本当に見つかって欲しいですね。
大切な方やお母さんの元に、
帰ってきてあげて…と思います。