ガーベラ(原種)
鹿児島から持ってきて何年になるでしょうか
株分けしてくれた叔母夫婦も亡くなりましたが
この花と共に私の胸の中ではおげんきです
今年はどんどん蕾が上がってきています
どちらの門前もカラフルになりました。やっぱりパンジィーが一番多いでしょうか。藤棚のあるのを見つけておきましたので、立ち寄ってみましたが、まだまだ先のようです。小さな白い花がほんの少し咲いていました。
富山で「地震に自信を」と言うセミナーが開かれて、パネリストとして参加された方が書いておられました。
《富山では震度3以上の揺れを経験していないそうで「富山は地震になれていないし、此処には大きな地震はこないだろうと言う感覚で生活している人も多いです》
と地元代表の方のお話。
私たち関西人だって、あんな大地震が来るなんて思いもよらない事でした。今夜のNHKのドラマ「篤姫」でも地震の場面がありましたね。地震は忘れたころにやってくるようですね。テレビでは逃げ惑っていましたが、「阪神淡路大震災」は一瞬のまでした。
《セミナーでのアンケートの結果も発表されました。「生きる為に必要なものを二つ挙げてください」と言う答えはさまざまだった。会場からは「明かリ」「家族」「酸素」とか出たそうですが、パネラーご自信は「水と勇気」と答えたそうです。
神戸の若者は「水と電気」、東京の若者は「お金とケイタイ」経験の有無でこれだけの差が付くのですね。》
水、電気、ガスを「ライフライン」と言うことを、あの時初めて知りました。
一番必要だったのは、一つ挙げよといわれれば「水」でしょうね。飲み水は勿論の事炊事が出来ません、お風呂に入れません、トイレが使えません。給水車が来てくれました。お水を入れるポリタンクが良く売れたそうです。日月と共に「腰痛」が増えました。そのまま腰痛持ちで、現在に至るという人もいます。
東京の若者の「お金とケイタイ」確かに入用ですが、さしあたり生きる為には二の次でしょうか。
「火事場泥棒」と言う言葉があるように、地震の後のデパートや商店のショーウインドゥから物が消えたそうです。どういう神経でそんなことが出来るのでしょうね。
「ケイタイ」と言えば「電話」は直ぐに掛かり難くなりましたが、テレビの映像でその凄さを見て、親戚縁者の安否を確かめるための電話が多くてですが、その頃は今のように「ケイタイ」人口も多くなかったと思うのですが、私自身も持っていませんでしたので、解らないのですが、「電話」のように線が入らないのですから、掛かりやすかったのでしょうか?13年も経った今頃になってこんな事を言うのもおかしな話ですが、今フッと気になったのです。
山古志村のマリの様な犬や他の動物は沢山居たと思います。ただ山古志村のように道路が切断されて孤立という事ではありませんから、食べ物は在ったと思います。
長く続いた余震の為に着の身着のままで寝ると言う生活をしていて、他のことに目を向ける余裕も無かったです。風化させてはいけない地震の経験もだんだんと遠のいてきています。
アレから後も北陸方面で大きな地震がありました。でも死者の員数を聞いて「あ~、阪神淡路より小さいんだ」と思ってしまうんです。「人は病で死なない、寿命で死ぬ」とはこんな場合も含むのでしょうか?其れならば、命奪われた子供達は、何の為にこの世に生まれてきたのでしょう。不憫です。
(700回)
鹿児島から持ってきて何年になるでしょうか
株分けしてくれた叔母夫婦も亡くなりましたが
この花と共に私の胸の中ではおげんきです
今年はどんどん蕾が上がってきています
どちらの門前もカラフルになりました。やっぱりパンジィーが一番多いでしょうか。藤棚のあるのを見つけておきましたので、立ち寄ってみましたが、まだまだ先のようです。小さな白い花がほんの少し咲いていました。
富山で「地震に自信を」と言うセミナーが開かれて、パネリストとして参加された方が書いておられました。
《富山では震度3以上の揺れを経験していないそうで「富山は地震になれていないし、此処には大きな地震はこないだろうと言う感覚で生活している人も多いです》
と地元代表の方のお話。
私たち関西人だって、あんな大地震が来るなんて思いもよらない事でした。今夜のNHKのドラマ「篤姫」でも地震の場面がありましたね。地震は忘れたころにやってくるようですね。テレビでは逃げ惑っていましたが、「阪神淡路大震災」は一瞬のまでした。
《セミナーでのアンケートの結果も発表されました。「生きる為に必要なものを二つ挙げてください」と言う答えはさまざまだった。会場からは「明かリ」「家族」「酸素」とか出たそうですが、パネラーご自信は「水と勇気」と答えたそうです。
神戸の若者は「水と電気」、東京の若者は「お金とケイタイ」経験の有無でこれだけの差が付くのですね。》
水、電気、ガスを「ライフライン」と言うことを、あの時初めて知りました。
一番必要だったのは、一つ挙げよといわれれば「水」でしょうね。飲み水は勿論の事炊事が出来ません、お風呂に入れません、トイレが使えません。給水車が来てくれました。お水を入れるポリタンクが良く売れたそうです。日月と共に「腰痛」が増えました。そのまま腰痛持ちで、現在に至るという人もいます。
東京の若者の「お金とケイタイ」確かに入用ですが、さしあたり生きる為には二の次でしょうか。
「火事場泥棒」と言う言葉があるように、地震の後のデパートや商店のショーウインドゥから物が消えたそうです。どういう神経でそんなことが出来るのでしょうね。
「ケイタイ」と言えば「電話」は直ぐに掛かり難くなりましたが、テレビの映像でその凄さを見て、親戚縁者の安否を確かめるための電話が多くてですが、その頃は今のように「ケイタイ」人口も多くなかったと思うのですが、私自身も持っていませんでしたので、解らないのですが、「電話」のように線が入らないのですから、掛かりやすかったのでしょうか?13年も経った今頃になってこんな事を言うのもおかしな話ですが、今フッと気になったのです。
山古志村のマリの様な犬や他の動物は沢山居たと思います。ただ山古志村のように道路が切断されて孤立という事ではありませんから、食べ物は在ったと思います。
長く続いた余震の為に着の身着のままで寝ると言う生活をしていて、他のことに目を向ける余裕も無かったです。風化させてはいけない地震の経験もだんだんと遠のいてきています。
アレから後も北陸方面で大きな地震がありました。でも死者の員数を聞いて「あ~、阪神淡路より小さいんだ」と思ってしまうんです。「人は病で死なない、寿命で死ぬ」とはこんな場合も含むのでしょうか?其れならば、命奪われた子供達は、何の為にこの世に生まれてきたのでしょう。不憫です。
(700回)
昔のアルバムを広げますと、我家でも絶えた花たちは沢山居ます。又、花の好みも変わっていくような気もします。
一度の経験で充分ですね。
我家では何でも直ぐ絶えてしまいます。愛情が足りないのですね。野性的なものはほったらかしでもいくらでも増えて困りますしね。
地震の怖さよく心得てるつもりですが、毎日平和に暮らしているともう忘れていますね。一生大地震に遭わずに過ごせたら幸せなのですが・・・・・