「ヒマラヤ雪ノ下」 去年の花市で買い 見る見る大きくなり 花をつけました (13-3-3)
「啓蟄」です。そろそろ、春物に変えなければ、と思うのですが、寒がりの私は、
暖かい冬物から離れられません。これは年々強くなるようです。
一日、編み物をしながら「国会中継」を見ていました。安倍総理、堂々と、落
ち着いておられるので、安心して見て(聞いて)おれます。
つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり 樋田慶子
ビックリするような題名のこの本を図書館で見つけたとき、「以前に、テレビ
でこの言葉をきいたことあるわ」と思い出しました。ショッキングな言葉です
からね。「徹子の部屋」だったと思うのですが、何方が言われたのかすっかり
忘れていました。
樋田さんという女優さんは知っていましたが、俳優座養成所の卒業生で、平幹
二朗さんと同期生だと言うことは知りませんでしたし、花柳章太郎さんの付き
人、お弟子さんだとはしりませんでした。
このショッキングな言葉は樋田さんの祖母であり、伊藤公(2代前の千円札の
方)の世話になっていた、そして新橋に「田中家」と言う料理屋の女将の、孫、
慶子への言葉なのです。水商売側から見れば、「なるほど!」と思う言葉も、
一般家庭から見れば、受け入れられない言葉です。
樋田さんは昭和9年生まれで60歳過ぎて、この本の執筆中に結婚されたそう
です。この本が2000年に書かれていますから、13年前の出版時に、話題とし
て「徹子の部屋」に出られたのではないかと思います。又この自伝を書くように
奨めとのが樹木季林さんだと言うので、これまた驚きでした。
岸信介さんに見初められた事。宇津井健さんと恋仲であったこと。祖母の伊藤
公との関係から、えらい政治家とのご縁や、花柳章太郎さんの弟子であったが
ために、芸能界の有名人とも面識があったことなどが綴られています。
最後のほうに、樋田さんの印象に残った人6人を挙げておられます。
中村勘三郎=先ほどなくなった勘三郎さんのお父さんの方です。勘三郎さんが、
新聞各紙に舞台を褒められた時、「『演劇界』が褒めてくれたら、完璧なんだけ
ど、きっと何かいわれるよ」と言ったとき、樋田さんが「きっと褒められますよ」
と言うと「賭けをしようか、1万円」といわれ、結果的には褒められて勘三郎さん
の負け、負けた賭けのお金を、お付の人が樋田さんの元に持ってきた時に、そ
の封筒に記されていた言葉です。「うれしく負けました」
越路吹雪=シャンソン歌手、元宝塚スター。舞台衣装のお話。「一点転豪華主
義でいくといいよ」
山田五十鈴=花柳章太郎の恋人で、戦時中、中々風呂にも入れなかった時期、
焼け跡から焼け残った材木を拾ってきて山田のために花柳が風呂をたいたと
いう「ねえ、お風呂にに入りたいのォ」と言った、山田五十鈴の為にです。
三木のり平=喜劇役者。藤山寛美さんが「東西の喜劇会を通じて、私が兄さん
と呼ばせていただいているのは、のり平さんたった一人です」と言われたそうで
す。平成9年10月パーティでお目にかかったのが最後で帰ろうとする樋田さん
に「おけい、愛してるヨ!」樋田さんも「私もよ!」三木さんはまもなく亡くなられ
たそうです。
有吉佐和子=有吉さんの作品に多く出られました。ある作品は、とても自分の
役ではないと思い「如何しても自分に合わない」とお断りしたら「やれいっ!」
と男のような声でいわれた。結局受けずにいられなかった。
同姓同名のヒダケイコ=ひょんな事から、合うことが出来た、その人は「草絵
(くさえ)となづけた絵を造っております。私が創始者です」と名乗った。多くは
障碍者の人に教えている。その方が「病気をして死ぬかと思ったよ」とそして後
日、元のように元気を取り戻された時の言葉が「いかに生きるかが大切だね」
そうですよね、私にも、忘れられない「その人の一言」はあると思います。しか
し、考えたことがないので、はっきりは分からないのですが、、お一人お一人の
お顔を思い出しながら「忘れられない言葉を」探し出すのも、楽しいかもしれま
せんね。