ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

終戦記念日

2018年08月15日 | 思い出話





今日は終戦記念日です。

昭和20年8月15日   私は集団疎開先の「加古川」で迎えました。

「家に帰れる!」 と思ったと思います。

19年の9月から20年の11月まで、約15ヶ月疎開していたことになります。

女の子50名、男の子50名ぐらいだったと思います。その頃のことですから、
つい目と鼻の先に男子寮があっても、行き来はなかったと思います。

ただ、男の子が「漆の木」で戦争ごっこをしていて、「漆の被れ」亡くなって、
お葬式のときだけは行ったと記憶しています。男の子は「木の樽」に座った
形で入れられていたのを覚えています。

佐々木先生がしっかりした方で、地元のかたとの交渉力もあったため、他の
疎開先の話のように、三度の食事に不自由するということもなく、お陰さまで
私たちはちゃんとご飯がいただけていました。

「箸とらば、天地御世の御恵み(ハシトラバ アメツチミヨノオンメグミ)… 
頂きます」と言ってから箸を取ります。

「おねしょ」をする子は、晩御飯の時に「鶏のとさか煮」を食べさせられます。
私はいつもも食べさせられていました。親と離れた生活のもろもろが「おねしょ」
だった気がします。

わたしたちの寮は「修養道場」と言う事で、とてもかたい畳でした。

お風呂に入ったという記憶がないのですが、たまにはあったのでしょうね。

その代わり頭も体も「虱=シラミ」だらけでした。

頭は「毛虱」といって「黒」体につくのは「白」でした。

頭のはお互い子供同士で取り合うのです。その時間があったと思います。

体のはシャツの縫い目に隠れているのを自分でとります。わたしの血を吸って
丸々と太ったシラミを潰すのです。「プチン!」といい音がしましたよ。


神戸が空襲で焼けた3月17日、山の向こうが真っ赤だった事を覚えています。
戦時中の子供でありながら、空襲で逃げ惑うこともなく、幸せだったのだと思
います。

いい思い出はあまりないのですが、それでも今は感謝しています。



コメント
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