『 大學寮 』
に ついて
大川周明
五 ・ 一五事件 『 訊問調書 』
から
・・・其の頃 小尾晴敏と云ふ人が
私の知人 安岡正篤氏等と旧本丸の一角に 「 社会教育研究所 」 を設け
地方の青年二十名前後を毎年募集し社会教育者としての訓練を与へて居りました。
大正十一年の春と記憶しますが小尾氏から私にも研究所の同人になる様勧められ
色々と其の内容や目的を聞き訊した上 快く承諾して同人に加はり
日本精神に付ての講義をすることになりました。
研究所は宮城内に在るので場所としては此の上もなく
地方から来た学生も真摯実篤の青年が多かったので
私は此の仕事に大なる興味を覚えました。
当時 宮内大臣たりし牧野伯、関屋宮内次官、
荒木、秦、渡辺錠太郎の将軍 其の他少壮陸海軍士官等が来所しては
学生に奨陶や奮励を与へて呉れました。
当時私は大船の或寺に寄寓して居りましたが
大正十二年の大震災で其の寺が潰れてからは居を研究所に移すと共に
起臥を青年と共にし 一層彼等の教育に力を尽しました。
そして研究所と云ふ名称を大学寮と改め
小尾氏は主として地方の講演に出て私が旧本丸に留守をあづかる事になりました。
・
大学寮と云ふのは
「 大学之道、在明明徳、在新民、在出至善 」
とあるに因つたもので
明徳 即ち自己の道義的精神を明にし
其精神に則つて民 即ち国家社会を改新して行く人間を養成する所
と云ふ意味であります。
・
学生は応募者中より二十名内外を選択し
皆所内に起臥し
午前の四時間は講義を聴き 其の余は自習の時間とし
夜間には 一週少くも二回は知名の士を招き学生をして其の智徳に接せしめました。
故海軍大将八代六郎男爵の如き最も熱心なる後援者でありました。
老壮会、猶存社以来の知人が多く大学寮を訪問しました。
其の後 色々問題を起した西田税 も 病気の為め軍人を辞めて大学寮に来り投じました。
西田氏は満川亀太郎氏の知人でした。
猶存社の同人たりし人々は猶存社解散以来 何となく心淋しかつたと見え
屢々しばしば大学寮に集まる中 又一個の団体を結び度いと云ひ初めました。
私は余り賛成でなかつたけれど同人の熱心に動され 大正十四年に至り遂に 「 行地社 」 の創立に同意しました。
大学寮の方は怎うかと云ひますと
我々が借りて居る古い建物を取払ひ 其処に宮内省の図書寮を設ける事になつたので
我々は立退かねばならぬ事となりました。
而して之に代るべき建物は容易に見当らず
見当つても余程の金が必要なので
是亦 大正十四年に遺憾ながら止めて了ひました。
・
現代史資料5 国家主義運動2 から
大學寮
大正十四年四月上旬 ( おそらく九日か十日 )、
西田税は革命運動の戦士を志して上京の途についた。
大学寮の入寮式が四月十三日で、寮生の入寮期限が十二日であったから、
西田は遅くとも十一日には、大学寮に入っている。
いま一ツ橋二丁目の毎日新聞社のある所は、その頃は竹平町といって、ここに文部省が建っていた。
竹橋を渡ると、左手は平河濠、右手は江戸時代の北の丸で、
いま国立近代美術館の経っている所から、国際文化会館にかけての一帯は、
教育総監部や、近衛師団軍楽隊の建物が点在し、
その先に 近衛歩兵第一、第二聯隊の広大な営庭があった。
・
平河濠を渡ると、
江戸城の本丸の跡地で、その頃は麹町区代官町といっていた。
ここに中央気象台があり、その傍らに午砲台が設けられ、
関東大震災までは、正午になると号砲を撃って時を知らせていた。
( 土曜日を半ドンというのは、この号砲の音からきている )
大学寮の建物は、この午砲台の近くにあった。
・
明治の初め頃に建ったものらしく、
古びた平屋建だが、広大なもので、四棟をロの字型に組み合せ、
中庭に面した側に廊下があり、部屋数も大小合せて十室あまりあった。
玄関の左右はすべて寮生の部屋で、
入って右手の一番奥に、広い講義室があり、
西田税はこの講義室から、五六室はなれた十八畳の部屋に一人起居することになった。
その頃、西田の部屋にしばしば訪れた辻田宗寛の記憶によると、
西田の部屋の中央には三尺四方の ( 約一メートル平方 ) の囲炉裏があり、
床の間に小机を置き、仏像をかざって、朝夕その前で読経していた。
この頃、辻田宗寛き侠客大杉精市の主宰する東海聯盟の事務所に起居していたので、
大杉統領の使いで、しばしば西田のところを訪れた。
「 たしかに西田さんの隣の部屋には村上徳太郎さんや中谷武世さんが居た。
よく西田さんの部屋にやってきて酒を呑んでいた。
西田さんは大きな囲炉裏に素焼きの燗瓶をさしこんで、一人でチビリチビリ呑んでいた。
軍人をあっさり止めたものの、なにかやるせない淋しさがあったのではないかと思う。
大学寮の行き帰りに、皇居の方で女官が桑積みしているのは、一、二度見かけたが、
皇后さんはお見かけしたことはない 」 ・・( 辻田宗寛 談 )
・
大学寮は、もともと社会教育研究所と称していた。
社会教育家の小尾晴敏という人が 大戦後の国民思想の後輩を憂いて、
大正十年四月、安岡正篤と語らって、社会研究所を創設した。
これには時の宮内大臣 牧野伸顕、次官 関谷貞三郎も大いに共鳴して、
皇居内の宮内省所管の建物を提供し、経費も宮内省から援助した。
各府県から優秀な青年教育者 ( 師範学校出が多かったようだ ) を、
二十名抜粋して社会教育研究所に入所させ、
一ヶ年みっちり仕込んで、地方に帰らせるしくみになっていた。
むろん月謝はとらない。
翌大正十一年 ようやく学者として知名度の高まった大川周明にも呼びかけ、
大川もその趣旨に賛同し、満川亀太郎とともに同人に加わった。
大正十二年の関東大震災のおり、鎌倉の常楽寺で焼け出された大川は、一時ここに住いをしたこともあった。
この頃から、小尾晴敏は主として地方の講演に出かけ、
留守をあずかる大川周明が、事実上社会教育研究所を主宰した。
大学寮と改称したのは大正十四年四月からで、
この年の三月に社会教育研究所の最後の卒業式を行っている。
「 社会教育研究所卒業式、
三月十日午前十時、麹町区代官町旧本丸の同所に於て、第三回卒業式挙行、
安岡学監の訓示 並びに卒業証明書の授与についで、
来賓 花田仲之助氏の挨拶、大川、満川両教授、小尾主幹の訓示あり、
のち 来賓 牧野伸顕 子、荒木貞夫少将、伊吹定条氏のあいついで祝辞、
並びに感想を述べられ、
卒業生総代 高橋完徳氏の答辞を以て式を終った。
尚 同期卒業生は十七名である 」 ・・行知社の機関紙月刊 『 日本 』 の創刊号 ( 四月号 ) の同人往来の記事。
忙しい牧野宮内大臣や当時憲兵司令官の要職にあった荒木少将が、
わざわざ臨席して祝辞を述べるほどの力の入れようであった。
・
この頃、北一輝や西田税と行き来をしていた寺田稲次郎 ( 後の日本国民党執行役員長、現在流山市に在住 ) は、
この間の事情についてこう語っている。
「 当時は大戦後の思想の混乱期で、社会主義思想が日本国中を風靡していた。
宮内省や陸軍省でも思想善導、赤化防止の見地から大川さんの事業の意義を認めて、
相当な金を援助していた。
しかし、秋頃になると北さんが西田君を使って宮内省の不正事件をつつく様になった。
宮内省は急に態度を変えて、大学寮を追い出し、とうとう大学寮はつぶれてしまった 」
この社会教育研究所は、四月から大学寮と名を変えた。
改称したのは大川周明である。
大川は後年、五 ・ 一五事件に連座して下獄した際、予審判事に語ったなかに、
「 その頃 小尾晴敏と云ふ人が
私の知人 安岡正篤氏等と旧本丸の一角に 「 社会教育研究所 」 を設け
地方の青年二十名前後を毎年募集し社会教育者としての訓練を与へて居りました。
( 中略 )
大学寮と云ふのは
「 大学之道、在明明徳、在新民、在出至善 」
とあるに因つたもので
明徳 即ち自己の道義的精神を明にし
其精神に則つて民 即ち国家社会を改新して行く人間を養成する所
と云ふ意味であります。
・
学生は応募者中より二十名内外を選択し
皆所内に起臥し
午前の四時間は講義を聴き 其の余は自習の時間とし
夜間には 一週少くも二回は知名の士を招き学生をして其の智徳に接せしめました。
故海軍大将八代六郎男爵の如き最も熱心なる後援者でありました。
老壮会、猶存社以来の知人が多く
大学寮を訪問しました其の後 色々問題を起した西田税も
病気の為め軍人を辞めて大学寮に来り投じました。
西田氏は満川亀太郎氏の知人でした 」 と 述べている。
・・大川周明訊問調書、みすず書房刊 『 現代史資料5 』 リンク→ 大川周明 『 大学寮について 』
満川亀太郎
西田税が大川周明の主宰する大学寮に入ったのは、満川亀太郎の招きによったものである。
前年の六月頃から、西田は大川や安岡正篤と文通はしていたが、さして深い交際ではなかった。
西田はもともと 『 日本改造法案大綱 』 に魅せられて、北一輝の許に行こうとして、北からの手紙で思い止った。
それが猶存社で北一輝と袂を別った大川周明の許に入ったのは、満川亀太郎の熱心なすすめに従ったものである。
この間の事情を、半年ほど起居を共にしていた狩野敏 ( 財団法人善隣協会理事、東京在住 ) は、こう語っている。
「 満川亀太郎という人は、濃厚な学者タイブの人、実に謙譲な礼儀正しい端正な紳士であった。
しかし、文章は烈々火を吐くような激しい文を書く人で、胸中にはつねに燃えるような憂国概世の志を抱いている、
いわば気骨の人であった。
その頃の満川さんは大学寮や行地社のいわば事務局長的な存在で、親切に人の世話をやく人であった。
満川さんは士官学校の時から西田君を知っていたから、陸軍を止めた西田君の人物を惜しんで、
熱心に来るようにすすめたらしい。西田君がそう言っていた。
私も大正十四年の七月から半年ほど西巣鴨の家で、西田君と同居していたからよく知っているが、
その頃、西田君は熱心に読んだり書いたりしていた 」
・
大学寮は大正十四年四月十三日 第一回の入寮生二十名を迎えて、厳粛な入寮式をあげた。
行地社の機関紙 月刊 『 日本 』 第二号には次のように報じている。
「 大学寮開校。麹町区代官町旧本丸の一角を護国の聖域として、
大正十年以来、有為なる青年を訓育し来った社会教育研究所は、
新学年よりその教育部を独立して、大学寮と改称し、
大川周明、安岡正篤、満川亀太郎の三氏、専ら之が経営に当る事とし、
村上徳太郎、西田税 両氏を寮監、門脇酉蔵、福島定、酒井利晴 三氏を寮務として、
四月十三日入寮式を挙行、翌日より授業を開始した。
講師 及 担当学科は左の通り、
人生哲学 大川周明
孔老学 安岡正篤
二十世紀史、国際事情 満川亀太郎
日本文学 沼波武夫
国際学、民族問題 中谷武世
経済学 村上徳太郎
社会問題 松岡繁治
志那事情 柳瀬薫
ロシア事情 島野三郎
国防学 西田税
剣道師範 柳生厳長
馬術師範 西田税
新入生は在寮、聴講併せて二十名である 」
・
こうして、後年の昭和維新運動の揺籃となった大学寮は、皇居の一角の閑静な地に誕生した。
ここで西田は講義や執筆のかたわら 『 日本改造法案大綱 』 の謄写印刷版を作り、
後輩の同志を通じて、これはと思う陸軍士官学校の生徒ら秘かに手渡して、啓蒙活動をするのである。
後年、ニ ・ニ六事件に連座して禁固刑に処せられた菅波三郎 ( 元陸軍大尉、茅ケ崎市在住 ) や、
末松太平 ( 元陸軍大尉、千葉市在住 ) 海軍の革新運動の草分けとなった藤井斉など、
昭和維新の運動を指導した人々が、西田を訪れたのはこの大学寮であった。
わずか九ヶ月の大学寮であったが、その歴史的な意義は大きい。
・
西田が上京して二ヶ月ほど経った六月のはじめ、予備役編入の辞令を受けとった。
大正四年九月一日 広島陸軍地方幼年学校入学以来、十年にわたる軍人生活は終った。
・・・中略・・・
大学寮での西田の講義は国防学である。
専門家だけに真剣に講義をし、時には現在の日本の国情を慨いて、涙を流しながら講義をした日もあったという。
「 陸軍省が思想善導の意味で後援しているだけに、
西田の講師は全く打ってつけの人物だと、その頃、なかなかの評判であった。
私が受講生の一人から聞いた話では、時には西田君が声涙ともに下る名講義をやる。
壇上で涙を流しながら時勢をなげく、学生は若いだけに、大きな感銘をうけたと言っていた 」 ・・( 寺田稲次郎談 )
しかし、西田の講義は単に国防学だけではなかったらしい。
『 日本改造法案大綱 』 も少しは話したと思えるのは、辻田宗寛に対して西田が自分から話していることでもわかる。
「 私も講義室に入って、諸先生のお話を聞いた。
大川さんの講義は日本精神、安岡さんは大塩中斉の 『 洗心洞箚記 』 をやっていた。
西田さんは私に 『 日本改造法案も話しているんだ 』 と言っていたから、
これも国防学の一環として講義していたのだろう。
学生も寮生のほかに、聴講生といって、外から通ってくる学生もいた。
満鉄にいた佐野学さんの紹介で、共産党の渡辺政之助も来ていたし、
あとで神兵隊事件を起した前田虎雄も聞きに来ていたそうだ 」
と、辻田宗寛は語っている。
とにかく、大学寮は四月発足以来、確実な足どりで、教育をつみかさねていった。
月に数回、外部から知名の専門家を招いて講演会を開いている。
月刊 『 日本 』 は毎号のように同人往来の欄で、大学寮の消息を伝えている。
しかし、大いに意気ごんで発足した大学寮も、わずか九ヶ月の寿命であった。
この年の十二月の終りには閉鎖せざるを得なくなり、十二月の末、ついに解散してしまった。
表向きの理由は、宮内省が建物をこわし、新しく図書館を建設するというのであった。
だが、宮内省の真意は寺田稲次郎の談話にもあるように、
北一輝や西田が宮内省高官の身辺を調べだしたため、( この年の暮れには西田は不正事実を確実に摑んでいる )
慌てた宮内省は急に態度を変え、名目をつけて大学寮を追い出したものであろう。
須山幸雄 著 ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
『 西田税 ニ ・ ニ六への軌跡 』 から
次頁 西田税と大学寮 2 『 青年将校運動発祥の地 』 に 続く
大正末期、革命への起爆薬として軍部に注目した大川周明と北一輝のうち、
大川周明は行地社から軍中央部の中堅将校に接触していったが、
大川と分裂した北一輝は陸軍士官学校生徒との接触から始まった。
それが三十四期生の西田税、三十五期生の大岸頼好、三十七期の菅波三郎らであったが、
若い 政治的にも未熟な将校生徒にとって、
『 日本改造法案大綱 』 の示す国家改造案は一途な彼らの正義感を激しく燃えたぎらせた。
法案に初めて接した将校生徒は、みな一様に異常な感動にうち震えている。
西田税
西田税は、
「 法案こそ吾等が魂の戦いに立つべき最後の日の武器なりと信じているのだ。
げにそれは大川氏の言う如く、日本が有する唯一なる日本精神の体現であり、
唯一の改造思想であり、然して同時に世界に誇るべき思想であるのだ 」
・
また、満川亀太郎から直接法案の解説をうけた
西田の盟友 福永憲 ( 34 ) は、
「 満川の説明に聴き入っているうちに、次第に頬が熱くなり、
頭が充血してくるような圧迫感に襲われました。
卓抜な国家改造の具体策が次々に紙面に躍動して、構想の雄大さと自信に満ちた名分の迫力には、
果てしない地の底に引きづりこまれてゆくような、妖しくも不可解な魅力がありました 」
と 語っている。
・
さらに陸士生徒時代に、ある夜 同期生からひそかに法案を渡されて熟読した
菅波三郎は、
「 あたかも、乾いた土が水を吸うように心魂にしみとおった 」
と 回想している。
・
大正末期といえば現在とは比較にならないくらいはるかに情報不足の時代である。
しかも陸士では政治教育は全く行われない。
したがって、政治的には無色透明で多感な二十一歳前後の青年にとって
『日本改造法案大綱 』 やその著者 北一輝 がどんなに魅力的であったか想像に難くない。
忠君愛国の軍人精神が政治への批判と接続したとき、
『日本改造法案大綱 』 は その魔術的魅力を以て青年将校運動の思想的中核となり、
革命への起爆薬となる。
・
革新派靑年將校の誕生
大正十一年七月、
陸士を卒業した西田税、福永憲 ( 後の朝鮮軍参謀・中佐 ) 、宮本進 ( 大正十二年八月所沢飛行学校で練習中墜落死 ) らは、
陸士内にひそかに設立した 「 青年アジア同盟 」 によって大ジア主義を志向してくたが、
『日本改造法案大綱 』 にふれて 国家改造運動に転換し、
それぞれ各聯隊にあって横の連絡をとりつつ 国家改造思想の啓蒙普及運動を開始した。
ところが西田は、この運動が師団、聯隊首脳の忌避きひにふれて、
羅南の騎兵第二十七聯隊から広島の騎兵第五聯隊に転属となった。
この後 発病した西田は、故郷米子で病気療養中の大正十四年七月、
自ら予備役となり、政治革新運動を志して上京、
大川周明らの主催する宮城内北の丸の 大学寮 において、
寮監兼講師として、機関誌 「日本 」 の編集と国防問題を担当し、
青年将校および陸士生徒の同志獲得をはかった。
大学寮は元の名称を社会教育研究所といい、大正十年の秋、教育者の小尾晴敏が安岡正篤と提携、
時の宮内次官 関谷貞三郎を口説いて、全国の農村青年約二十名を集めて日本精神鼓吹の教育を行っていた。
ところが、大正十一年の春に安岡からすすめられた大川周明が参加し、
名を大学寮と改められ、行地社の設立とともにその運動の一環となり、
これを不満とした安岡はやがて金鶏学院創立のため去ってゆく。
この頃、すでに満川亀太郎、大川周明、北一輝によって 大正八年八月に設立された猶存社は、
大川、北の性格的確執から対立となって分裂解散し、
大川は大正十三年四月に東京青山に行地社を設立していた。
・
こうして大学寮時代の西田税は、行地社の一員として大川周明に強力していたが、
この頃は、後年西田自らが語っているように、編集と講義に追われた革命への研究時代であった。
ところが、大正十四年後半の時期を契機として、
陸軍内において革新への道を志す青年将校および将校生徒たちが、
次々に大学寮の西田を訪れるのである。
・・・挿入
末松 古賀さんが大学寮に行ったころと、僕が大学寮に行ったころと大体似ているんだがね、
宮城のなかの・・・・。あんたの行ったのは何年ごろですか。
古賀 大正十四年の冬休みだった。
末松 ああ・・・・大正十四年の冬休み・・・・。
古賀 そのとき西田税氏とはじめて会った。
片岡 大正十二年ぐらいでしょう。あの大川周明・・・・じゃない、安岡正篤が日本精神の研究を出したのは。
古賀 私は藤井 ( 斉 ) が読めというので読んだ。
末松 僕が大学寮に行ったのは大正十四年の秋だな。
古賀 僕は冬休みだから・・・・そのときにね。
末松 陸軍と海軍が大体同じ時期に、互いになんの連絡もなく、すでに同じ穴をほじくりよったわけだ。
古賀 私が行ったときにね、さっそく西田税と会ったしね、その時にね、ちょうど行地社の東京支部というのかな、
その発会式をやりよった。大川さん、満川亀太郎・・・・。
・・・( 『 政経新論 』 昭和三七年五月号 座談 「 五 ・一五事件 」 より。
なおこの座談会の出席者は古賀不二人 ( 清志 )、三上卓、佐郷屋嘉昭 ( 留雄 )、末松太平、片岡千春の五氏 )
・・現代史資料4 国家主義運動1 から
大岸頼好
西田が大川周明を頼って上京した直後に、
まず、青森歩兵第五聯隊の大岸頼好少尉 ( 35 ) が大学寮に西田を訪れる。
一方、西田が上京する二ヶ月前の大正十四年五月頃、
陸士在学中であった三十七期生の菅波三郎が 『日本改造法案大綱 』 に魅せられ、
同志とともに渋谷千駄ヶ谷の北一輝を訪れる。
北一輝は菅波を自己の理論的後継者と目して最も評価し、また 期待する、
そして菅波は、
「 初めて思想家といえるような人物に会ったような気がした 」
と 感激する。
菅波はこの後にに下を訪れて二人の初対面となる。
・・・挿入
大正十四年五月初夏、
ふとしたことから私は、北一輝著 「 日本改造法案大綱 」 を入手して、
爾来 不退転の革新運動に身を投じたのであるが、
同年七月二十日頃、日曜日、
著者北一輝氏を訪ねて初対面、親しく謦咳に接した。
三日後に陸士本科卒業、鹿児島に帰隊して、
十月、陸軍少尉に任官。
その年の暮、
年末休暇を利用して単身上京、大学寮に初めて西田税を訪う。
西田は既に現役を辞して大学寮の学監であった。
爾来十三年。
彼が刑死するまで、その親交は変わらなかった。
永遠の同志、戦友である。
彼は陸士第三十四期生。
私は三十七期生。
この間に三十五期の大岸頼好がある。
それに海軍兵学校第五十三期生の藤井斉( 私と同年輩 ) と。
この四者は、特に忘れ難き同志網の図根点を形成する。
西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。
一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、
バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。 ・・・菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」
・
次に この年 ( 大正十四年 ) の十月、青森歩兵第五聯隊の士官候補生として、
大岸少尉によって革命への道に魅力をいだいた末松太平が、
陸士入学直後に友人とともに大学寮の西田を訪れる。
末松太平
・・・挿入
西田税とのつきあいは、大学寮に彼を訪ねたときからである。
大正十四年の十月に、青森の五聯隊での六ヵ月の隊付を終えると、
私は士官学校本科に入校するため、また東京に舞戻ってきた。
そのとき、まだ少尉だった大岸頼好が、
東京に行ったらこんな人を訪ねてはどうか、
と 筆をとって巻紙のはしに、
さらさらと書き流してくれた人名のなかに、西田や北一輝があった。
しかし入校早々、すぐにも訪ねなければ、とまでは思っていなかった。
が、入校後間もない土曜日の夕食後、
青森で別れたばかりの亀居見習士官がひょっこり学校にやってきたのがきっかけで、
まず西田税訪問が急に実現することになった。
亀居見習士官は士官学校本科を卒業する前に航空兵科を志願していたので、
そのための身体検査に出願するよう通知をうけ、
検査地の所沢に行くついでに立ち寄ったのである。
「 五十二が廃止になり、
知らぬ五聯隊にやられて面白くないので航空を志願しておいたが、
大岸さんや貴様らと過ごしているうち考えが変った。
身体検査は合格するにきまっているが、志願はとり消しだ。」
こういった亀居見習士官にとっては、
いまはむしろ所沢に行くほうがついでで、
目的は私らを誘って西田税を訪ねるほうだった。
・・ 中略 ・・
「大岸さんが貴様らを誘って西田さんを訪問してはどうかといっていたが、
明日は別に予定はないだろう。」
明日は日曜で外出ができる。 別に予定などあるはずはない。
どうせいつかは訪ねてみようと思っていたことである。
こういった亀居見習士官の誘いは私にとっては、いいついでであった。
翌日、約束の場所で落合って西田税を訪問した。
同じ聯隊からきていた同期生の草地候補生も一緒だった。
訪ねた場所はその頃西田税が寝起きしていた大学寮である。
健康上の理由で朝鮮羅南の騎兵聯隊から 広島の騎兵五聯隊に転任した西田は、
結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、
大学寮にきていたのである。
大学寮という名称がすでに妙だが、あった場所も妙だった。
が亀居見習士官は大岸少尉から、くわしく場所をきいているとみえ、
一ツ橋で市電をおりると、ためらわず先に立った。
すると皇宮警守が立ち番をしている門にさしかかった。
乾門である。
右手に見上げるように、昔の千代田城の天守閣跡の高い石垣がある。
その先の木立のかげの平屋の建物が大学寮だった。
木造のちょっとした構えである。
案内を乞うと、
声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、
変哲もなかったが、つづいての、
「このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
天壌無窮の皇運のみをたたきこまれているだけに、
このままでは----の前提条件はあるにしても、
日本が亡びるということには不穏のひびきを感じないわけにはいかなかった。
当時の世間一般の風潮からいえば必ずしも奇矯なことではなく、
私たちと同年輩のもののなかには、
もっと過激なことをいうものもいたにちがいないが、
武窓にとじこめられた教育をうけている私たちには刺激の強いものだった。
こう受取られる傾向が、
その後、北、西田の思想が国体に背反している危険なものと軍当局ににらまれ、
二・二六事件で難くせつけられることにもなるわけである。
そういった私たちの反応を、同じ軍人であっただけに内幕は知りすぎているから、
はじめから計算にいれているかのように西田は、
亡国に瀕しているという日本の現状を語りつづけた。
・・天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録
・
やがて末松の同期の澁川善助らも大学寮に来る。
つまり、西田は大学寮時代に 大岸、菅波、末松という、
後に青年将校運動の指導者となる連中に会って、一応同志的接触に成功している。
さらに、戸山学校に派遣されていた西田の同期 岩崎豊晴中尉も、
西田が上京すると直ちに大学寮を訪れて会っている。
もっともこの岩崎中尉は、思想的には西田に共鳴していたが、
むしろ予備役になって国家改造運動に挺身する西田の将来を心配していたよき友人である。
こうしてみると、
西田が活躍していた時期の大学寮は、青年将校運動発祥の地といっても過言ではないだろう。
芦澤紀之著 『 暁の戒厳令 』
革新派青年将校の誕生 から
安藤輝三
私達は間違っておりました
聖明を蔽う重臣閣僚を仆す事によつて
昭和維新が斷行される事だと思って居りました処
國家を獨するものは重臣閣僚の中に在るのではなく
幕僚軍閥にある事を知りました
吾々は重臣閣僚を仆す前に
軍閥を仆さなければならなかったのです
タンクが歸って暫らくすると
山王ホテルの前の路地から、十數名の兵士を率ゐた將官 佐官の様な人が來ました。
電車通り迄來た時に、
安藤大尉はそれを見ると既に抜力して居た軍刀を閣下の前に出し、
「 閣下、私を殺して下さい 」
と 云って道路に坐してしまひました。
「 さう昂奮しないで立って刀を納め自分の云ふ事を聞いて呉れ 」
と數回云ひました。
が 安藤は、立ち上がったが刀を納めず、
今タンクから斯う云ふビラを撒いたが、
此中に、下士、兵卒とあるが、將校と兵卒の間に如何なる相違があるか。
將兵一体の教育をして居るのが、日本軍隊の筈である。
其様なビラを以てして我皇軍が動揺すると思って居られるか。
あなたは左様な精神で皇軍を教育して來られたのか。
今や満州の地に於いて隣邦と戰端を開かれ様として居るが、
若し開戰された場合斯様な宣傳に依て動揺する様な事があったら如何なされるや。
あなたは、三聯隊の兵士を左様な兵士だと思って居りますか、
左様な人の云ふ事は私は信ずることが出來ませんから、何事も聞く譯には行きません。
「 左様な事ばかり云って居たのでは話にならない 」
絶對に聞く事は出來ません、
話があるなら、斯様な事態になる前になぜ早く話してくれなかったか、
全部包囲し、威嚇されて屈伏する譯には行きません。
話があるなら、包囲を解かれてから來られたい。
私達は間違って居りました、聖明を蔽ふ重臣閣僚を仆す事に依て
昭和維新が斷行される事と思って居りました処、
吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです。
吾々は何等の野心なく、只陛下の御爲に蹶起して導いた処、
戒厳令は昭和維新の戒嚴令とはならず、
却て自分達を攻める爲のものとなって居るではありませんか。
・・・リンク→ 安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」
鎮圧軍の包囲網が刻々迫ってきた。
これを見た大尉は軍刀を引抜き 「 斬るなら斬れ、撃つなら撃て、腰抜け共!」
と 叫びながら突進しはじめた。
私たち五人の兵隊も銃を構えてあとに續く。
もし中隊長に一発發でも發射すれば容赦せずと追従したが鎮圧軍は一人として手向かう者はいなかった。
程なく電車通りで歩兵學校教導隊の佐藤少佐と顔が合った。
すると安藤大尉は
「 佐藤少佐殿、歩兵學校当時は種々お世話になりました。
このたび貴方がたは何故我々を攻撃するのですか、
我々は國家の現狀を憂いて、ただ大君の爲に起ったまでです。
一寸の私心もありません。
そのような我々に刃を向けるよりもその気持ちで幕臣を説いて下さい。
私は今初めて悟りました。
重臣を斬るのは最後でよかったと・・・・。
そして先ずもって処置するのが幕臣であった。
自分の認識が不足であった點を後悔しています。
歩兵學校では種々有益な戰術を承りましたが、それを満州で役立てることがて゛きず残念です 」
安藤大尉の意見に佐藤少佐は耳をかたむけていたが、果たしてどのように受けとめたことであろうか。
・・・リンク→ 前島清上等兵 「 農村もとうとう救えなかった 」
澁川善助
紺の背広の澁川が 熱狂的に叫んだ
「 幕僚が惡いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。
何時の間にか野中が帰って來た。
かれは蹶起將校の中の一番先輩で、
一同を代表し軍首脳部と會見して來たのである。
「 野中さん、何うです 」
誰かが駆け寄った。それは緊張の一瞬であった。
「 任せて帰ることにした 」
野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」
澁川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」
野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。
全國の農民が、可哀想ではないんですか 」
澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして 呟くように云った。
一座は再び怒号の巷と化した。
澁川は頻りに幕僚を殺れと叫び続けていた。
・・・澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」
皇軍相討ツ勿レトアリ、
「 陸軍大臣ヨリ 」 トアルモノハ
第二項ノ行動ノ代リニ 「 眞情 」 トアリ、ソノ他二、三異ル所アルモ大同小異ナリ、
コレヲ説得案ト稱シアルモ、
一モ説得ノ内容ヲナシアラズ、軍長老ガ軍ノ總意トシテ是認セルコトハ明ラカナリ、
又戒嚴軍隊ニ蹶起部隊ヲ編入セル命令ノコトハ
「 謀略ノタメノ命令 」 ハ斷ジテ存在スルモノニアラザルナリ
( 此ノ點ハ極ク最近ニ至リ軍一部デ問題トナシアルガ如シ )
判決ノ理由ニ於テハ「日本改造法案」ノ實現ヲ期シ、
トナシ、右ニ 「 法案 」 ヲ以テ 「 日本國體ト絶對ニ相イレザルモノ 」 ト記セリ、
( 此ノ点ハ吾々ガ公判ニ於テ然ラザル點ヲ鞏調セルトコロナリ )、
而ル時ハ結局吾人ノ今回ノ擧ハ、「日本國體破壊の暴擧 」 ナリトノ結論ニ陥ル、
然ラバ 「 精神ハヨイケレドモ行動ハ惡イ 」 ト云フコトガイハレルカ、
又陸軍ノ總意トシイ陸相ノ告示ニヨリ布告サレタル
「 諸子ノ行動 ( 又ハ眞意 ) ハ國體ノ眞姿顯現ノ至情ニ基クモノト認ム 」 ト云フ項ハドウナルノカ
嗚呼我々ハ共産党ト同ジニ取扱ハレテヰルノデアル、
軍當局ハ北、西田ヲ罪ニ陥レンガタメ無理ニ今回ノ行動ニ密接ナ關係ヲツケ、
兩人ヲ民主革命者トナシ極刑ニセント策動シアリ、( 軍幕僚ト吾人トハ對立的立場ニアリ )
吾人ヲ犠牲トナシ、吾人ヲ虐殺シテ
而モ 吾人ノ行ヘル結果ヲ利用シテ
軍部獨裁ノ ファッショ的改革ヲ試ミントナシアリ、
一石二鳥ノ名案ナリ、
逆賊ノ汚名ノ下ニ虐殺サレ 「 精神ハ生キル 」 トカ 何トカゴマカサレテハ斷ジテ死スル能ハズ、
昭和維新ハ吾人ノ手ニヨル以外斷ジテ他ノ手ニ委シテ歪曲セシムル能ハズ
・・・獄中遺書 ・・・あを雲の涯 (五) 安藤輝三
結末は吾人等を踏台に蹂躙して幕僚ファッショ時代現出するなるべし。
あらゆる權謀術策を、陛下の御名によって弄し、
純忠無私、熱誠殉國の志士を虐殺す、國體を汚辱すること甚し。
御聖徳を傷け奉ること甚しい哉
吾等も死すれば不忠となる。 斷じて死せず
吾等の胸中は明治維新の志士の知る能はざる苦しみあり、憤あり。
如何に師團を増し、飛行機を製るも正義を亡し、國體を汚して何の大日本ぞ
大日本は神國なり、不義を許さず。
勢の窮まるところ最後の牙城を倒す時に眞の維新來るなり
・・・林八郎 『 一挙の失敗並に成功の真因 』
幕僚の謀略
「 政治的非常時変勃發に処する對策要綱 」
序文
帝國内外の情勢に鑑み・・・國内諸般の動向は政治的非常事変勃発の虞 おそれ 少なしとせず。
事變勃發せんか、
究極軍部は革新の原動力となりて
時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の歸趨 きすう にして、
此場合
政府 竝 國民を指導鞭撻し禍を轉じて福となすは緊契□□の事たるのみならず、
革新の結果は克く國力を充實し國策遂行を容易ならしめ
來るべき對外危機を克服し得るに至るものとす。
即ち 爰 ここ に軍人關与の政治的非常事變勃發に對する對策要綱を考究し、
万一に処するの準備に遺憾なからしむる。
「 對策要綱 」 の實施案
(一) 事變勃發するや直ちに左の処置を講ず
イ、後繼内閣組閣に必要なる空氣の醸成
口、事變と共に革新斷行要望の輿論惹起竝盡忠の志より資本逃避防止に關する輿論作成
ハ、軍隊の事變に關係なき旨の聲明
但社會の腐敗老朽が事變勃發に至らしめたるを明にし一部軍人の關与せるを遺憾とす
(二) 戒嚴宣告 ( 治安用兵 ) の場合には軍部は所要の布告を發す
(三) 後繼内閣組閣せらるるゝの施政要綱竝総理論告等の普及
ロ、企業家勞働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
ハ、必要なる彈壓
( 檢閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に關する事項 )
(四) 内閣直属の情報機關を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ
村中孝次
幕僚ファッショの覆滅ふくめつこそ
われわれ必死の念願でした。
だが、この幕僚ファッショに、
今度もまた、してやられてしまいました。
これを思うとこの憤りは
われわれは死んでも消えないでしょう。
われわれは必ず殺されるでしょう。
いや、いさぎよく死んで行きます。
ただ、心残りなのは、
われわれが、彼等幕僚達、
いや その首脳部も含めて、
それらの人々に利用され、
彼等の政治上の道具に使われていたことです。
彼等こそ
陸軍を破壊し
國を滅ぼすものであることを信じて疑いません。
・・・白兎 「古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」
磯部浅一
天皇陛下
陛下の側近は國民を圧する漢奸で一杯でありますゾ、
御氣付キ遊バサヌデハ日本が大變になりますゾ、
今に今に
大變な事になりますゾ、
二十九日
兵をかえして陸相官邸に集まった彼らは、
そこで幕僚たちになされた自決奨励に怒って、公判闘争を誓い
その夕刻 就縛、獄に送られた。
そして東京陸軍軍法会議により おおよそ前近代的な裁判に付せられ、
その年 ( 昭和十一年 ) 六月五日 全員死刑求刑、
そして七月五日 首謀将校香田大尉以下十七名は死刑判決、
村中、磯部を除いての十五名は判決後一週間にして、代々木の原頭に銃殺された。
あまりにも 怪速にして一方的な処理であった。
彼らにとってはまさに悲憤に堪えぬ痛恨事であった。
父は無限の怨をもって死せり、父は死しても国家に賊臣ある間は成仏せず、
君国のため霊魂として活動してこれを取り除くべし ・・( 香田清貞 )
天なり 命なりといえども、鬼哭きこくに啾々しゅうしゅうとして無念止み難く、
天を仰いで慨然たり、憤怒天に冲すといえども 又如何せん ・・( 丹生誠忠 )
昭和十一年七月初夏ノ候 余輩青年将校十数士怨ヲ呑ミテ銃殺セラレ、
余輩ソノ死ニツクヤ従容タルモノアリ、
世人或ハコレヲ目シテ天命ヲ知リテ刑ニ服セシト為サン、断ジテ然ラザル也。
余 万斛ノ怨ヲ呑ミ怒リヲ呑ンデ斃れたり、
我魂魄こんぱくコノ地ニ止マリテ悪鬼羅刹トナリ我敵ヲ慿殺ひょうさつセント欲ス、
陰雨至レバ或ハ鬼哭啾々トシテ陰火燃エン、
コレ余ノ悪霊ナリ 余ハ断ジテ成仏セザルナリ 断ジテ刑ニ服セシニ非ル也、
余ハ虐殺セラレタリ、余ハ斬首セラレタルナリ ・・( 栗原安秀 )
・・・維新革命家をもって自任していた栗原の絶筆の一節である。
首謀者安藤輝三大尉の痛憤もいたく人に迫るものがある。
近歩三聯隊長園山大佐は中橋基明の反乱参加を負って退任したが、
その前任聯隊長井上政吉大佐は、
七月十一日同隊の中橋を刑務所に訪ねたあと、安藤輝三にも面接した。
彼は安藤がそのむかし仙台幼年学校在学中の 「 生徒監 」 であったのだ。
安藤は全く意外という面持ちで、
「 生徒監殿 来てくれましたか 」
「 来たよ、最後の顔を見に 」
「 残念であります ! 」
「 気持はわかる、知る人ぞ知る、静かにゆけ ! 」
「 死んだら枕許に立ってやります 」
大喝、輝!おれはそんな未練な教育をしたことはない、静かにゆけ。
「 ハイ、わかりました 」
・・( 井上の著書 『 涓滴録 』 よりの引用 )
だが、彼は静かに死出の旅に立ったであろうか。
その夜認めた彼の遺書。
国体を護らんとして逆徒となる
万斛の恨涙も涸れぬ ああ天は
昭和十一年七月十一日夜
鬼神輝三
さらに同期生代表にあてたもの。
さようなら
万斛の恨みを御察し下され度し
断じて死する能わざる也
御多幸を祈る
昭和十一年七月十一日
安藤輝三
歩三第六中隊員にあてたもの、
我はただ万斛の恨みと共に鬼となりて生く
旧中隊長安藤輝三
その痛恨に徹する気迫まさに万人に迫るものがある。
大元帥陛下
このように、
怨み、いかり、殺されても死なぬ、鬼となって生きぬくとは、
これら刑死将校たちのひとしく書きのこしているところである。
もちろん、それは軍当局とくに中央部幕僚に対する、すさまじいまでの痛憤であり、
天皇に対しては、いささかもうらめしい言葉は残していない。
むしろ、天皇による軍裁判によって死刑に処せられながら、
ひたすらに天皇への忠誠を誓い 天皇陛下万歳を唱えて死についている。
とくに、中橋基明のごときは、
近衛将校としての殊遇に感激した言葉を書きのこしているが、
その朝の父にのこした絶筆、
只今最後の御勅諭を奉読し奉る
尽忠報国の至誠は益々勃々たり、
心境鏡の如し。
七月十二日午前五時
皇国のため陛下のためと身を挺してけっ起した身が、
今や陛下の名のもとに死刑に処せられんとする。
その直前においてなお、勅諭 を奉読して尽忠報国を誓う彼らの心境は
まさに悲壮であるといわねばならない。
軍人勅諭
だが、静かに考えれば彼らの心境はより複雑であったであろう。
死は覚悟してもあまりにもその真精神が歪曲せられ 「 反徒 」 として処断をうけては、
もはや、この世には神も仏もなかったであろう。
・・・リンク→ 大御心は一視同仁
ただ、軍人としては大元帥陛下にたてつくことはできない。
ここに彼らには人に、いや親兄弟にも語られぬ無念さがあった、
と 見るべきではないだろうか。
・・・以上
大谷敬二郎著 ニ・ニ六事件事件 から
「 君、 君たらずとも、ですよ
あの人達はきっと臣道を踏まえて
神と信ずる天皇の万歳を唱えたと信じます
でも日本の悲劇ですね 」
・・・三島由紀夫
やられてますよ
私はやられたら直ぐ
血みどろな姿で陛下の許へ參りますよ
僕も一緒に行く
死の銃聲をきく
この場合、
獄舎にありて同士十五名の處刑を體感した、
首謀者、村中孝次、磯部淺一
らの感慨はどんなものであっただろう。
七月十九日
今日は香田兄等十五士の初七日なり。
七月十二日を想起するに涙新なるものあり。
余と磯部氏とは前夕
同志と一緒なりし獄舎より最南端にある一新獄舎に移さる。
十二日朝、
十五士の獄舎より國家を齊唱するを聽く。
次いで萬歳を聯呼するを耳にす。
午前七時より ニ、三時間
輕機關銃、小銃の空砲に交りて拳銃の實包音を聞く。
即ち死刑の執行なること手にとる如く感ぜらる。
磯部氏遠くより余を呼んで、『 やられてますよ 』 と呼ぶ。
余 東北方に面して座し 黙然合掌、
噫、感無量、
鉄腸も寸斷せらるるの思おもいあり。
各獄舎より、
『 萬歳 』 『 萬歳 』 と呼ぶ聲しきりに聽こゆ。
入所中の多くの同志が刑場に臨まんとする同志を送る悲痛なる萬歳なり。
磯部氏また呼ぶ。
『 私はやられたら直ぐ 血みどろな姿で陛下の許へ參りますよ 』
と、余も
『 僕も一緒に行く 』
と叫ぶ。
嗚呼、今や一人の忠諫死諫の士なし、
余は死して維新の招來成就に精進邁進せん 」
村中孝次
これは村中の 『 続丹心録 』 にかきのこしている痛恨の文章である。
・・・リンク→ あを雲の涯 (三) 村中孝次
磯部浅一
磯部もまたその 『 獄中日記 』 八月十二日の頁に、
・・・リンク→ 獄中日記 (三) 八月十二日 「 先月十二日は日本の悲劇であつた 」
今日は十五同志の命日、
先月十二日は日本歴史の悲劇であった。
同志は起床するや一同 君ケ代 を唄え、
又 澁川の讀經に和し 瞑目の祈りを捧げた様子で、
余と村中とは離れたる監房からわずかにその聲をきくのであった。
朝食を了りてしばらくすると、
萬歳々々の聲がしきりに起こる。
悲痛なる最後の聲だ。
うらみの聲だ、血と共にしぼり出す聲だ。
笑い聲もきこえる。
その聲たるや誠にいん惨である。
惡鬼がゲラゲラと笑う聲にも比較出來ぬ聲だ、
澄み切った非常なる怒りとうらみと憤激とから來る涙のはての笑聲だ。
カラカラした、ちっともウルホヒのない澄みきった笑聲だ。
うれしくてたまらぬ時の涙より、もっともっとひどい形容の出來ぬ悲しみの笑いだ。----
午前八時半頃から
パンパンパンパンと急速な銃声をきく。
その度に胸を打たれる様な苦痛をおぼえた。
余りに氣が立ってジットしておられぬので、
詩を吟じてみようと思ってやってみたが、
聲がうまく出ないのでやめて部屋をグルグルまわって何かしらブツブツ言ってみた。
御經をとなえる程の心のヨユウも怒らぬのであった。
午前中に大體終了した様子だ---- 」
共に、同志の處刑を眼のあたりにして 狂わんばかりの心中の描冩である。
君ケ代 を歌い
天皇陛下の萬歳を叫んで死地に赴かしめたものへの痛憤であり、
それはまた天皇への忠諫死諫の人もなく、みすみす同志を殺したものへの悲憤であった。
磯部は
やられたら直ぐ血みどろな姿で陛下の許に參る、
といい、
村中も
ともに行く
と 叫んだ。
この血みどろの姿で陛下の御前に立とうとする、
彼らの心のうちは これをどのように理解すべきであろうか。
同志の心は一つなのか、
この日處刑された十五人もまた、
死んで陛下の御前に集まることを話し合って處刑された。
この朝 香田兄の發唱にて
君ケ代 を齊唱し 且 天皇陛下萬歳、大日本皇國萬歳、
を 三唱したる後、
香田兄が
撃たれたら直ぐ 陛下の御側に集まろう。
爾後の行動はそれから決めよう 。
というや、
一同意氣愈々昂然として不死の覺悟を定め、
從容しょうよう迫らず 些かも亂れたることなく、
歩武堂々刑場に臨み刑に就きたりと
・・( 村中 『 続丹心録 』 )
いま、撃たれるものも、のちに撃たれようとするものも、
ともに血みどろの姿を天皇の御前に現わすことを誓って、
期せずして符節を合する言葉を吐いている。
まさに死んでも同志であった彼らであるが、
この一語こそ
死を前にした
蹶起靑年將校たちの切々たる心情であった。
・
天皇の御前にまかり出た彼らは
そこで何を訴え何をお願いしようとしたものであろうか。
香田は、
「 父ハ死シテモ國家ニ賊臣アル間ハ成佛セズ、
君國ノタメ霊魂トシテ活動シテ之ヲ取リ除クベシ 」
と 遺書しているところを見ると
彼は陛下の御前に伺いて、
今一度の斬奸をお願いするというのであろうか。
また村中は、
これら多くの同志に臨むに極刑をもってせんとしつつあり。
暗黑政治、暗黑裁判も言語に絶するものあり。
不肖斷じてこれを黙過する能わず、
即ち 刑死後直ちに至尊に咫尺しせきし奉りて
聖徳を汚すなからんことを嘆願し奉らんとするものなり。
香田氏以下十五士の英霊よ、
暫く大内山の辺りに在りて、我等両者の到るを待て
・・( 村中 『 続丹心録 』 )
と 書きのこしているが、
彼は、同志の極刑の不当を直訴しようとするものか。
何れにしても、その悲憤のかたまり、
その捌け口を天皇に求めようとの意気ごみがうかがわれる。
大谷敬二郎著 ニ・ニ六事件 から
鈴木貫太郎 加藤寛治
昭和四年一月
海軍軍令部長鈴木貫太郎大将は侍従長となり天皇の側近に奉任することになった。
翌 昭和五年浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約にからんで、
政府と統帥がその兵力量について対立紛糾したとき、
浜口首相は全権団よりの請訓案をのんで回訓を発しようとし、
天皇に上奏のため拝謁を願い出たのに対し、
加藤軍令部長はこれが反対上奏を行うために、同じように拝謁を願い出た。
ところが鈴木侍従長は
浜口首相の拝謁方を取り計らい 加藤軍令部長の拝謁方はこれを阻止した。
これがため鈴木侍従長の風当りはつよく、
彼は統帥権を干犯したというのでごうごうたる非難にさらされた。
これが彼がニ・ニ六に斬奸に遭う主たる原因であった。
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ロンドン軍縮条約
左から
ロンドン会議前、首相官邸に於て懇談 浜口首相と海軍将星 昭和4年11月6 日
ロンドン会議 開会式で挨拶する 若槻全権 昭和5年1月21 日
ロンドン海軍軍縮会議 全権とその随員
谷口軍令部長 加藤前軍令部長 東郷元帥
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民間団体の反対運動
ロンドン条約紛糾のおり、
軍事参議官として政府と統帥部との間に介在して
条約取りまとめに奔走した岡田海軍大将の回顧録によると、
「 ---十時頃 ( 筆者註、四月一日 ) になって加藤から
『 きょう上奏のため拝謁を願い出ているが 側近のものに阻止されそうだから、
侍従長からその辺の消息を聞いてみてくれ 』
と わたしにいってきた。
侍従長の官邸へ行って聞いてみると、
『 今月は御日程がすでにいっぱいだから
たぶんむつかしいかろうと思うが上奏を阻止するようなことはしない 』
といっているので、わたしも安心してそのことを加藤に伝えておいた 」
とある。
だが、今日の日程がすでに一杯だということはどういうことか、
統帥部からの上奏ができないほどに忙しい日程であったのか、そうとも思われない。
このあたりに鈴木侍従長の心底がうかがわれるのではないか。
もちろん岡田大将にしても加藤の上奏は反対だった。
「 陛下は円満におさまるようにお望みなのだ、
上奏などをしてご心配をおかけするようなことがあっては申しわけのないことだと思った 」
・・( 『 岡田回顧録 』 )
と 書いている。
加藤の上奏は政府の上奏に対する反対上奏なのである。
政府と統帥部の紛争を天皇に持ちこむのだから恐れ多いというわけだ。
ところが鈴木侍従長の回顧録 ( 『 嵐の侍従長八年 』 ) によると、
「 ある日その条約のことについて浜口君から上奏するという申出があった。
私は早速陛下にご都合を伺い明日何時という御指定があった。
そこへ軍令部長からも何か上奏をお願いするということを、武官長の方にいってきた。
それで先に御指定になった総理大臣の拝謁の後に軍令部長の上奏のことを御指定になった 」
とある。
ここに 「 ある日 」 とは三月三十一日のことである。
浜口の上奏は四月一日に指定になったが、加藤の上奏の指定はそのあとになったというのである。
ところが鈴木の右の回想によると、
三月三十日に山梨勝之海軍次官が侍従長官邸に来訪して、
ロンドン条約にからむ紛糾と混乱を説明し、加藤軍令部長が反対上奏をするらしいと伝え、
翌三十一日になると案の定どちらも上奏を願い出てきた。
「 明日 ( 筆者註、四月一日 ) 君は上奏するということだが、一方では総理からも上奏する。
噂に聞くと君は反対上奏をするということだが、そういうことがあるのか、
と聞くと、加藤は実はその通りだと答えた 」
そこで鈴木は、
「 それは変ではないか、
兵力量の事で軍令部長と総理が違ったことを上奏するのは私には判らない。
兵力量の決定は軍令部長の任務じゃないか、
軍令部長がいかんというたら総理はそれに従わねばならぬ。
自分で決めた兵力量を総理に上奏さしておき、
それをまたいけませんと上奏するのは矛盾のように考えるが、
君はどう思うか。
総理が軍令部長の決めたことを上奏し
軍令部長が反対上奏をしたら陛下はどうなさればよいか。
この問題は上奏し放しとはいかん問題だ。
上奏からもひいて各々の責任問題が生ずる。
よくその辺を考えたらどうか 」
と 加藤に忠告した。
加藤は、
「 なるほどそうだ。よくわかった。
早速これから武官長のところに行ってお取り下げを願う 」
といってかえった、と 鈴木はかいているのである。
そして、これで加藤軍令部長の上奏は中止され、
この問題は一段落ついたのだが、
これが世間に誤伝され加藤の上奏を阻止したと宣伝され、
ことに、政友会が倒閣にこれを使い悪宣伝したので、広くこれが信ぜられている。
そして加藤もこれを訂正しようともしなかった、
とも、鈴木は回想しているのである。
ともかく鈴木によれば、
自分の説得で加藤は心よく上奏を取り止めたというのであるが、
これは少々おかしい。
なぜなら、
右の鈴木と加藤との話が三月三十一日だとすると、
四月一日の十時頃に加藤が岡田に上奏が阻止されそうだが確かめてくれなどというわけがない。
すでに上奏を中止することをきめているのだから。
また、これを三十一日の午前十時頃とすれば、
その日の午後にも加藤と鈴木とが話し合ったとして、
ことは一応つじつまが合う。
しかし、また
加藤は鈴木の説得によって反対上奏は中止したが、回訓兵力量は依然不同意を固執していた。
そして六月十日
今秋の大演習の件で拝謁を願い、
大演習の上奏のあと、
「 ロンドン条約の兵力量には軍令部長は同意しない 」
旨をふくめた辞表を読み上げて骸骨を乞い奉っているのである。
( 谷口軍令部長と交代 )
ともかくもこの場合
加藤軍令部長が鈴木の説得にしたがったとしても、
天皇側近に奉仕して軍事や政治の圏外にあるべき侍従長としては、
出すぎた行動であり 軍令部長の行動を制止したことに間違いはない。
その頃の鈴木侍従長の思い上がりは相当のものであったらしく、
やはり 『 岡田回顧録 』 には、
「 五月三日お呼びによって御殿 ( 伏見宮博恭王邸 )へ行った。
鈴木侍従長のことに話が及んで、鈴木も出過ぎているとのお話なんだ。
殿下が拝謁をもとめられるため侍従長にお会いになっており、
鈴木が、
『 潜水艦は主力艦減少の今はさほど入用ではありません。
駆逐艦のほうがよろしいと思います。
兵力量はこんどのロンドン条約でさしつかえありません 』
といったのが殿下の御気にふれたらしく、
『 鈴木は軍令部長になっているもののいい方をした 』
と おっしゃる。
そのうえ拝謁に対し鈴木は
『 陛下に申し上げられるとのことですが、それはもっての外ではあります。
元帥軍事参議官会議は奏請なさっても、たぶんお許しにならぬでしょう 』
といったので、殿下は、
『 お前らが奏上するときは直立不動で申し上げるから意をつくして言上することはできない。
わたしなら雑談的にお話ができるので、十分意をつくすことも可能だ、
だからわたしが申し上げるといっているので、とりちがえては困る 』
と 鈴木をきめつけられたということをお話になった 」
とも書かれている。
・
鈴木侍従長の軍事や政治への干渉ともみられる行動それ自体に問題があったようで、
これが軍人や右翼に与えた刺激は大きかった。
こうして彼は君側の奸臣として暗殺者のリストにのせられていたのだ。
大谷敬二郎著 ニ・ニ六事件 から