昭和十四年度思想研究員として玉川光三郎検事執筆のもの
「 思想研究資料特輯 」 第七十二号として昭和十五年一月、司法省刑事局で極秘刊行された。
所謂 「 天皇機関説 」 を契機とする国体明徴運動
第八章 国体明徴問題と永田軍務局長刺殺事件、ニ ・ニ六事件 から
相澤事件の公判期日愈々切迫して彼等が躍起となつた昭和十年十二月、
第一師團が近く満洲に派遣せられる内命が下つたとの報が傳はつた。
其処で村中孝次、磯部淺一、栗原安秀 等は
第一師團將士の渡満前 主として在京の同志に依り 速に事を擧げる必要があると考へ、
香田淸貞大尉 及び直心道場の澁川善助 等と共に其の準備に着手し
相澤中佐の公判を利用し、或は特權階級腐敗の事情、相澤中佐蹶起の精神を宣傳して
社會の注目を集めると共に 同志の決意を促しつつあつたが、
情勢は今や熟し 正に維新斷行の機 到來せるものと観察し
爾來各所に於て同志の會合を重ね、實行に關する諸般の計畫準備を整へ
又 歩兵大尉山口一太郎、北輝次郎、西田税、亀川哲也 等と通牒した上、
二月二十六日午前五時を期し
現役將校二十名は國體擁護開顯、維新阻止の奸賊誅滅芟除を標榜し、
千四百八十余名の下士官兵を動員して、
總理大臣岡田啓介、内大臣齋藤實、大蔵大臣高橋是清、
侍從長鈴木貫太郎、敎育總監渡邊錠太郎の官私邸を、
元内大臣牧野伸顕の宿泊せる湯河原伊藤屋旅館別莊を襲撃して、
齋藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡邊錠太郎教育總監、即死せしめ、
鈴木侍從長に重傷を負はしめ、
總理大臣官邸、陸軍大臣官邸、陸軍省參謀本部、警視廳 等を初め
櫻田門、赤坂見附、三宅坂を環る一帯の地域を占據するの一大叛亂事件を勃發せしめた。
・・・中略・・・
陸軍当局の發表する処によれば
ニ ・ニ六事件の原因動機は
「 村中孝次、磯部淺一、香田淸貞、安藤輝三、栗原安秀、對馬勝雄、中橋基明 は
夙に世相の頽廃たいはい人心の輕佻を慨し 國家の前途に憂心を覺えありしが
就中 昭和五年の倫敦條約問題、昭和六年の満州事變 等を契機とする
一部識者の警世的意見、軍内に於ける満州事變の根本的解決要望の機運等に刺戟せられ
逐次内外の情勢緊迫し我國の現狀は今や黙視し得ざるものあり、
當に國民精神の作興、國防軍備の充實、國民生活の安定等方に
國運の一大飛躍的進展を策せざるべからざるの秋に 當面しあるものと爲し、
時艱じかんの克服打開に多大の熱意を抱持するに至れり。
尚 此間軍隊敎育に從事し 兵の身上を通じ 農村漁村の窮乏、小商工業者の疲弊を知得して深く是等に同情し
就中一死報國、共に國防の第一線に立つべき兵の身上に後顧の憂い 多きものと思惟せり。
澁川善助 亦一時陸軍士官學校に學びたる關係に依り
同校退校後も在學當時の知己たる右の者の大部と相交はるに及び此等と意氣相投ずるに至れり。
而して其の急進矯激性が國軍將士の健實中 正なる思想と相容れざりしに由り
思想傾向相通ずる歩兵大尉大蔵榮一、同菅波三郎、同大岸頼好 等の同志と氣脈を通じ
天皇親率の下 擧軍一體たるべき皇軍内に所謂同志観念を以て横斷的結合を敢てし、
又 此の前後より前記の大部分は北輝次郎、及び西田税との關係交渉を深め其の思想に共鳴するに至りしが、
特に北輝次郎著 『 日本改造法案大綱 』 たるや
其の思想根底に於て絶對に我國體と相容れざるものに拘らず
其の雄勁ゆうけいなる文章等に幻惑せられ、
爲に素朴純忠に発せる研究思索も漸次獨斷偏狭となり 不知不識の間 正邪の辧別を誤り國法を輕視するに至れり。
而して此間生起したる昭和七年血盟團事件 及び 五 ・一五事件に於て深く同憂者等の蹶起に刺戟せられ
益々國家革新の決意を固め、右目的達成の爲には非合法手段も亦敢て辭すべきに非ずと爲し
終に統帥の根本を紊り
兵力の一部を僭用するも已むなしと爲す危険思想を包蔵するに至れり。
・
斯くて昭和八年頃より一般同志間の聯絡を計り
又は 相互會合を重ね種々意見の交換を爲すと共に
不穏文書の頒布等各種の措置を講じ 同志の獲得に努むるの外、
一部の者に在りては軍隊敎育に當り獨斷思想信念の下に
下士官兵に革新思想を注入して其の指導に努めたり。
・
次で昭和十年 村中孝次、磯部淺一 等が不穏なる文書を頒布せるに原因して
昭和十年 官を免ぜらるるや 著しく感情を刺戟せられ
且 上司より此種運動を抑壓せらるるに及びて 愈々反撥の念を生じ
其の運動 頓に尖鋭を加へ 更に
天皇機關説を繞めぐりて起れる國體明徴問題の発展と共に其の運動益々熾烈となり、
時恰あたかも敎育總監の更迭あるや
之に關する一部の言を耳にして軽々なる推斷の下に 一途に統帥權干犯の事實ありと爲し、
深く此の擧に感動激發せらるる所あり、
遂に統帥權干犯の背後には一部の重臣財閥の陰謀策動ありと爲すに至れり。
就中此等重臣は倫敦條約以來 再度兵馬大權の干犯を敢てせる元兇なるも
而も此等は國法を超越する存在なりと臆斷し、
合法的に之が打倒を企圖するとも到底其の目的を達し得ざる由り
宜しく國法を超越し 軍の一部を僭用し 直接行動を以て、此等に天誅を加へざるべからず。
而も此の運動は現下非常時に処する獨斷的義擧なりと斷じ
更に之を契機として國體の明徴、國防の充實、國民生活の安定を庶幾し
軍上層部を推進して所謂昭和維新の實現を齎もたらさしむことを企圖せるものなり。」
と 云ふにある。
・
其の原因動機は
要するに北輝次郎、西田税を思想的中心とする軍内の靑年將校の横斷的一群が
昭和維新を目標として皇軍の粛正に邁進しつつあった折柄、
村中、磯部 等の停職處分、國體明徴の不徹底乃至其の抑壓、
彼等が心服し革新の中心に推立てていた眞崎敎育總監の更迭、
第一師團の渡満 等に刺戟せられ
此等の事實の背後には革新運動を阻止せんとする一部重臣、財閥の策動があつたと認め、
直接行動に依り此等重臣を排除し
之を契機として、
眞崎大將を推立て、國體の明徴、國防の充実、國民生活の安定を期し
以て昭和維新を實現せしめんとしたにあつた。
ニ ・ニ六事件は國體明徴運動の与へた影響の最大なるものであると共に、
それ自體正に國體明徴運動の最も急進的尖鋭的な現れであつたと云ふことが出來る。
されば彼等の 『 蹶起趣意書 』 中にも
「 謹んで惟みるに 我が神州たる所以は萬世一系たる 天皇陛下御統帥の下に
擧國一體 生々化育を遂げ 終に釟紘一宇を完うするの國體に存す。
此の國體の尊嚴秀絶は 天祖肇國神武建國より明治維新を經て益々體制を整へ
今や方に万邦に嚮つて開顯進展を遂ぐべきの秋なり。」
「 所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政黨等はこの國體破壊の元兇なり。」
「 内外眞に重大危急にして國體破壊の不義不臣を誅戮ちゅうりくし
稜威を阻止し來れる奸賊を芟除するに非ずして宏謨を一空せん 」
「 臣子たり股肱たる絶對道を今にして盡さずんば、破滅沈論を翻すに由なし、
玆に同憂同志軌を一にして、蹶起し 奸賊を誅滅して大義を正し 國體の擁護開顯に肝脳を竭つくし
以て神州赤子の微衷を献ぜんとす 」 云々
と 書かれ、
國體を明徴にせんとする
已むに已まれぬ情熱より蹶起するに至つた旨が鞏調されている。
渡邊錠太郎教育總監
尚 敎育總監 渡邊錠太郎大將が襲撃され、遂に犠牲となつたに就いては
同大將が 天皇機關説擁護者であるとの巷説が其の一因を爲していたと推知される。
其の巷説なるものは、
昭和十年十月三日 同大將は熊本からの歸途 郷里名古屋に立寄り、
同日午後第三師團留守司令部に赴き 下元留守司令官より情況報告を受けた後、
偕行社に各部隊長を集めて一場の訓示をなした際、
天皇機關説問題に言及し、
「 機關説が不都合であると云ふのは今や天下の輿論であつて、萬人無条件に之を受け入れて居る。
然し乍ら 機關説は明治四十三年頃からの問題で當時山県元帥の副官であつた渡邊は
その事情を詳知している一人である。
元帥は上杉博士の進言によつて當時の學者を集め研究を重ねた結果
之に對して極めて愼重な態度を執られ 遂に今日に及んだのである。
機關と云ふ言葉が惡いと云ふ世論であるが 小生は惡いと斷定する必要はないと思ふ。
御勅諭の中に 『 朕ヲ頭首ト仰ギ 』 と仰せられて居る。
頭首とは有機體たる一機關である。
天皇を機關と仰ぎ奉ると思へば何の不都合もないではないか。云々
天皇機關説排撃、國體明徴と餘り騒ぎ廻ることはよくない、
これをやかましく云ひ出すと
南北朝の正閏をどう決定するかまで溯らなければ解決し得ないことになる。云々 」
と 述べたに對し、
一部隊長は憤然と立上つて
「 眞崎前敎育總監からは、天皇機關説を徹底的に排撃すべきことを明示されているが、
今後我々は如何にすれば良いのか 」
と 質問的に抗議したので
總監に随行して居た敎育總監部第一課長が代つて
「 渡邊大將個人としての私見であつて敎育總監として述べたのではない 」
と 釋明し 其の場を取り繕つたと云ふのである。
・・リンク→渡邊教育總監に呈する公開状
現代史資料4 国家主義運動1 から