あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

万斛の想い 「 先ずは、幕僚を斃すべきだった 」

2021年10月07日 20時24分41秒 | 万斛の恨み


安藤輝三
私達は間違っておりました
聖明を蔽う重臣閣僚を仆す事によつて
昭和維新が斷行される事だと思って居りました処
國家を獨するものは重臣閣僚の中に在るのではなく
幕僚軍閥にある事を知りました
吾々は重臣閣僚を仆す前に
軍閥を仆さなければならなかったのです


タンクが歸って暫らくすると
山王ホテルの前の路地から、十數名の兵士を率ゐた將官 佐官の様な人が來ました。
電車通り迄來た時に、
安藤大尉はそれを見ると既に抜力して居た軍刀を閣下の前に出し、
「 閣下、私を殺して下さい 」
と 云って道路に坐してしまひました。

「 さう昂奮しないで立って刀を納め自分の云ふ事を聞いて呉れ 」
と數回云ひました。
が 安藤は、立ち上がったが刀を納めず、
今タンクから斯う云ふビラを撒いたが、
此中に、下士、兵卒とあるが、將校と兵卒の間に如何なる相違があるか。
將兵一体の教育をして居るのが、日本軍隊の筈である。
其様なビラを以てして我皇軍が動揺すると思って居られるか。
あなたは左様な精神で皇軍を教育して來られたのか。
今や満州の地に於いて隣邦と戰端を開かれ様として居が、
若し開戰された場合斯様な宣傳に依て動揺する様な事があったら如何なされるや。
あなたは、三聯隊の兵士を左様な兵士だと思って居りますか、
左様な人の云ふ事は私は信ずることが出來ませんから、何事も聞く譯には行きません。
「 左様な事ばかり云って居たのでは話にならない 」
絶對に聞く事は出來ません、
話があるなら、斯様な事態になる前になぜ早く話してくれなかったか、
全部包囲し、威嚇されて屈伏する譯には行きません。
話があるなら、包囲を解かれてから來られたい。
私達は間違って居りました、聖明を蔽ふ重臣閣僚を仆す事に依て
昭和維新が斷行される事と思って居りました処、
吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです。
吾々は何等の野心なく、只陛下の御爲に蹶起して導いた処、
戒厳令は昭和維新の戒嚴令とはならず、
却て自分達を攻める爲のものとなって居るではありませんか。

・・・リンク→ 安藤大尉 「 吾々は重臣閣僚を仆す前に軍閥を仆さなければならなかったのです 」

鎮圧軍の包囲網が刻々迫ってきた。
これを見た大尉は軍刀を引抜き  「 斬るなら斬れ、撃つなら撃て、腰抜け共!」
と 叫びながら突進しはじめた。
私たち五人の兵隊も銃を構えてあとに續く。
もし中隊長に一発發でも發射すれば容赦せずと追従したが鎮圧軍は一人として手向かう者はいなかった。
程なく電車通りで歩兵學校教導隊の佐藤少佐と顔が合った。
すると安藤大尉は
「 佐藤少佐殿、歩兵學校当時は種々お世話になりました。
このたび貴方がたは何故我々を攻撃するのですか、
我々は國家の現狀を憂いて、ただ大君の爲に起ったまでです。
一寸の私心もありません。
そのような我々に刃を向けるよりもその気持ちで幕臣を説いて下さい。

私は今初めて悟りました。
重臣を斬るのは最後でよかったと・・・・。
そして先ずもって処置するのが幕臣であった。
自分の認識が不足であった點を後悔しています。

歩兵學校では種々有益な戰術を承りましたが、それを満州で役立てることがて゛きず残念です 」
安藤大尉の意見に佐藤少佐は耳をかたむけていたが、果たしてどのように受けとめたことであろうか。
・・・リンク→ 前島清上等兵 「 農村もとうとう救えなかった 」

  澁川善助

紺の背広の澁川が 熱狂的に叫んだ
「 幕僚が惡いんです。幕僚を殺るんです 」
一同は怒号の嵐に包まれた。
何時の間にか野中が帰って來た。
かれは蹶起將校の中の一番先輩で、
一同を代表し軍首脳部と會見して來たのである。
「 野中さん、何うです 」
誰かが駆け寄った。それは緊張の一瞬であった。

「 任せて帰ることにした 」
野中は落着いて話した。
「 何うしてです 」
澁川が鋭く質問した。
「 兵隊が可哀想だから 」
野中の声は低かった
「 兵隊が可哀想ですって・・・・。
全國の農民が、可哀想ではないんですか 」
澁川の声は噛みつくようであった
「 そうか、俺が悪かった 」
野中は沈痛な顔をして 呟くように云った。
一座は再び怒号の巷と化した。
澁川は頻りに幕僚を殺れと叫び続けていた。
・・澁川善助 「 全国の農民が可哀想ではないんですか 」


皇軍相討ツ勿レトアリ、
「 陸軍大臣ヨリ 」 トアルモノハ
第二項ノ行動ノ代リニ 「 眞情 」 トアリ、ソノ他二、三異ル所アルモ大同小異ナリ、
コレヲ説得案ト稱シアルモ、
一モ説得ノ内容ヲナシアラズ、軍長老ガ軍ノ總意トシテ是認セルコトハ明ラカナリ、
又戒嚴軍隊ニ蹶起部隊ヲ編入セル命令ノコトハ
「 謀略ノタメノ命令 」 ハ斷ジテ存在スルモノニアラザルナリ
( 此ノ點ハ極ク最近ニ至リ軍一部デ問題トナシアルガ如シ )
判決ノ理由ニ於テハ「日本改造法案」ノ實現ヲ期シ、
トナシ、右ニ 「 法案 」 ヲ以テ 「 日本國體ト絶對ニ相イレザルモノ 」 ト記セリ、
( 此ノ点ハ吾々ガ公判ニ於テ然ラザル點ヲ鞏調セルトコロナリ )、
而ル時ハ結局吾人ノ今回ノ擧ハ、「日本國體破壊の暴擧 」 ナリトノ結論ニ陥ル、
然ラバ 「 精神ハヨイケレドモ行動ハ惡イ 」 ト云フコトガイハレルカ、
又陸軍ノ總意トシイ陸相ノ告示ニヨリ布告サレタル
「 諸子ノ行動 ( 又ハ眞意 ) ハ國體ノ眞姿顯現ノ至情ニ基クモノト認ム 」 ト云フ項ハドウナルノカ
嗚呼我々ハ共産党ト同ジニ取扱ハレテヰルノデアル、
軍當局ハ北、西田ヲ罪ニ陥レンガタメ無理ニ今回ノ行動ニ密接ナ關係ヲツケ、
兩人ヲ民主革命者トナシ極刑ニセント策動シアリ、( 軍幕僚ト吾人トハ對立的立場ニアリ )
吾人ヲ犠牲トナシ、吾人ヲ虐殺シテ
而モ 吾人ノ行ヘル結果ヲ利用シテ

軍部獨裁ノ ファッショ的改革ヲ試ミントナシアリ、
一石二鳥ノ名案ナリ、

逆賊ノ汚名ノ下ニ虐殺サレ 「 精神ハ生キル 」 トカ 何トカゴマカサレテハ斷ジテ死スル能ハズ、
昭和維新ハ吾人ノ手ニヨル以外斷ジテ他ノ手ニ委シテ歪曲セシムル能ハズ
・・・獄中遺書 ・・・あを雲の涯 (五) 安藤輝三

結末は吾人等を踏台に蹂躙して幕僚ファッショ時代現出するなるべし。
あらゆる權謀術策を、陛下の御名によって弄し、
純忠無私、熱誠殉國の志士を虐殺す、國體を汚辱すること甚し。
御聖徳を傷け奉ること甚しい哉
吾等も死すれば不忠となる。 斷じて死せず
吾等の胸中は明治維新の志士の知る能はざる苦しみあり、憤あり。
如何に師團を増し、飛行機を製るも正義を亡し、國體を汚して何の大日本ぞ
大日本は神國なり、不義を許さず。
勢の窮まるところ最後の牙城を倒す時に眞の維新來るなり
・・・林八郎 『 一挙の失敗並に成功の真因 』 


幕僚の謀略

「 政治的非常時変勃發に処する對策要綱 」

序文

帝國内外の情勢に鑑み・・・國内諸般の動向は政治的非常事変勃発の虞 おそれ 少なしとせず。
事變勃發せんか、
究極軍部は革新の原動力となりて
時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の歸趨 きすう にして、
此場合
政府 竝 國民を指導鞭撻し禍を轉じて福となすは緊契□□の事たるのみならず、
革新の結果は克く國力を充實し國策遂行を容易ならしめ
來るべき對外危機を克服し得るに至るものとす。
即ち 爰 ここ に軍人關与の政治的非常事變勃發に對する對策要綱を考究し、
万一に処するの準備に遺憾なからしむる。
「 對策要綱 」 の實施案

(一) 事變勃發するや直ちに左の処置を講ず

 イ、後繼内閣組閣に必要なる空氣の醸成
 口、事變と共に革新斷行要望の輿論惹起竝盡忠の志より資本逃避防止に關する輿論作成
 ハ、軍隊の事變に關係なき旨の聲明
 但社會の腐敗老朽が事變勃發に至らしめたるを明にし一部軍人の關与せるを遺憾とす
(二) 戒嚴宣告 ( 治安用兵 ) の場合には軍部は所要の布告を發す
(三) 後繼内閣組閣せらるるゝの施政要綱竝総理論告等の普及
 ロ、企業家勞働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
 ハ、必要なる彈壓
 ( 檢閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に關する事項 )
(四) 内閣直属の情報機關を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ

 村中孝次
幕僚ファッショの覆滅ふくめつこそ
われわれ必死の念願でした。
だが、この幕僚ファッショに、
今度もまた、してやられてしまいました。
これを思うとこの憤りは
われわれは死んでも消えないでしょう。
われわれは必ず殺されるでしょう。 
いや、いさぎよく死んで行きます。
ただ、心残りなのは、
われわれが、彼等幕僚達、
いや その首脳部も含めて
それらの人々に利用され、
彼等の政治上の道具に使われていたことです。
彼等こそ
陸軍を破壊し
國を滅ぼすものであることを信じて疑いません

・・・白兎 「古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」

磯部浅一
天皇陛下 
陛下の側近は國民を圧する漢奸で一杯でありますゾ、
御氣付キ遊バサヌデハ日本が大變になりますゾ、
今に今に
大變な事になりますゾ、


万斛の恨み・・・それでもなお 『 天皇陛下萬歳 』

2021年10月07日 05時06分06秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)

二十九日
兵をかえして陸相官邸に集まった彼らは、
そこで幕僚たちになされた自決奨励に怒って、公判闘争を誓い
その夕刻 就縛、獄に送られた。
そして東京陸軍軍法会議により おおよそ前近代的な裁判に付せられ、
その年 ( 昭和十一年 ) 六月五日 全員死刑求刑、
そして七月五日 首謀将校香田大尉以下十七名は死刑判決、
村中、磯部を除いての十五名は判決後一週間にして、代々木の原頭に銃殺された。
あまりにも 速にして一方的な処理であった。
彼らにとってはまさに悲憤に堪えぬ痛恨事であった。

父は無限の怨をもって死せり、父は死しても国家に賊臣ある間は成仏せず、
君国のため霊魂として活動してこれを取り除くべし ・・( 香田清貞 )

天なり 命なりといえども、鬼哭きこくに啾々しゅうしゅうとして無念止み難く、
天を仰いで慨然たり、憤怒天に冲すといえども 又如何せん ・・( 丹生誠忠 )

昭和十一年七月初夏ノ候 余輩青年将校十数士怨ヲ呑ミテ銃殺セラレ、
余輩ソノ死ニツクヤ従容タルモノアリ、
世人或ハコレヲ目シテ天命ヲ知リテ刑ニ服セシト為サン、断ジテ然ラザル也。
余 万斛ノ怨ヲ呑ミ怒リヲ呑ンデ斃れたり、
我魂魄こんぱくコノ地ニ止マリテ悪鬼羅刹トナリ我敵ヲ慿殺ひょうさつセント欲ス、
陰雨至レバ或ハ鬼哭啾々トシテ陰火燃エン、
コレ余ノ悪霊ナリ 余ハ断ジテ成仏セザルナリ 断ジテ刑ニ服セシニ非ル也、
余ハ虐殺セラレタリ、余ハ斬首セラレタルナリ  ・・( 栗原安秀 )
・・・維新革命家をもって自任していた栗原の絶筆の一節である。

首謀者安藤輝三大尉の痛憤もいたく人に迫るものがある。
近歩三聯隊長園山大佐は中橋基明の反乱参加を負って退任したが、
その前任聯隊長井上政吉大佐は、
七月十一日同隊の中橋を刑務所に訪ねたあと、安藤輝三にも面接した。
彼は安藤がそのむかし仙台幼年学校在学中の 「 生徒監 」 であったのだ。
安藤は全く意外という面持ちで、
「 生徒監殿 来てくれましたか 」
「 来たよ、最後の顔を見に 」
「 残念であります ! 」
「 気持はわかる、知る人ぞ知る、静かにゆけ ! 」
「 死んだら枕許に立ってやります 」
大喝、輝!おれはそんな未練な教育をしたことはない、静かにゆけ。
「 ハイ、わかりました 」
・・( 井上の著書 『 涓滴録 』 よりの引用 )
だが、彼は静かに死出の旅に立ったであろうか。
その夜認めた彼の遺書。
国体を護らんとして逆徒となる
万斛の恨涙も涸れぬ ああ天は

昭和十一年七月十一日夜
鬼神輝三


さらに同期生代表にあてたもの。
さようなら
万斛の恨みを御察し下され度し
断じて死する能わざる也

御多幸を祈る
昭和十一年七月十一日
安藤輝三

歩三第六中隊員にあてたもの、
我はただ万斛の恨みと共に鬼となりて生く
旧中隊長安藤輝三

その痛恨に徹する気迫まさに万人に迫るものがある。

大元帥陛下

このように、
怨み、いかり、殺されても死なぬ、鬼となって生きぬくとは、
これら刑死将校たちのひとしく書きのこしているところである。
もちろん、それは軍当局とくに中央部幕僚に対する、すさまじいまでの痛憤であり、
天皇に対しては、いささかもうらめしい言葉は残していない。
むしろ、天皇による軍裁判によって死刑に処せられながら、
ひたすらに天皇への忠誠を誓い 天皇陛下万歳を唱えて死についている。

とくに、中橋基明のごときは、
近衛将校としての殊遇に感激した言葉を書きのこしているが、
その朝の父にのこした絶筆、
只今最後の御勅諭を奉読し奉る
 尽忠報国の至誠は益々勃々たり、
心境鏡の如し。

七月十二日午前五時
皇国のため陛下のためと身を挺してけっ起した身が、
今や陛下の名のもとに死刑に処せられんとする。
その直前においてなお、勅諭  を奉読して尽忠報国を誓う彼らの心境は
まさに悲壮であるといわねばならない。


軍人勅諭


だが、静かに考えれば彼らの心境はより複雑であったであろう。
死は覚悟してもあまりにもその真精神が歪曲せられ 「 反徒 」 として処断をうけては、
もはや、この世には神も仏もなかったであろう。
・・・リンク→ 
大御心は一視同仁 
ただ、軍人としては大元帥陛下にたてつくことはできない。
ここに彼らには人に、いや親兄弟にも語られぬ無念さがあった、
と 見るべきではないだろうか。
・・・以上
大谷敬二郎著  ニ・ニ六事件事件 から

「 君、 君たらずとも、ですよ
 あの人達はきっと臣道を踏まえて
神と信ずる天皇の万歳を唱えたと信じます

でも日本の悲劇ですね 」
・・・三島由紀夫