あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

小笠原長生『 ロンドン條約と西田税 』

2021年09月10日 05時45分21秒 | ロンドン條約問題

此度の事件に対する私の考と、
事件前後に於ける私の行動に就いて申上げます。
此度の事件の遠因は、
遠く 「 ロンドン 」 條約當時に発端するものと考へますので、
先づ 「 ロンドン 」 條約當時に於ける狀況を述べたいと思ひます。
憲兵聴取書 から

小笠原長生
「 ロンドン 」 條約に就て
當時の狀況は御承知の如く、
統帥權干犯問題を中心として非常なる紛糾を生じたのでありますが、
「 ロンドン 」 條約に就ては當時 東郷元帥も大變反對でありりまして、
若し其條約が成立するときは我國防上の重大なる欠陥を生ずるを以て、
御批准あらせられざる様との御意見でありました。
當時私は東郷元帥を輔けて、御批准あらせられざる様に色々奔走致しました。
當時、海軍大臣事務管理 浜口首相は
軍令部長の同意を得て回訓案が出た様に申して居た様でありますが、
當時の軍令部長は非常に反對でありまして、知らなかったのであります。
加藤軍令部長は此旨上奏の考へを爲して居りましたが 其機を得なかった爲、
特命檢閲に關する奏上の際 其顛末を奏上したので、
財部海軍大臣を御前に召されたと漏れ承つて居ります。
其後、財部海軍大臣が東郷元帥に報告致しました事柄に就き、
東郷元帥より私が呼ばれまして、
其際 元帥の申されますには、
財部が來た、
御上には御批准を御望み被遊たとの事であつたが、自分は左様に思はない、
元帥会議 若しくは軍事參議官會議 并に 夫々の機關を開き、
然る後 御裁斷あらせらるべきものである、
それも無いのに、御上に於て左様に思召さる様な事は無いと思ふ、
若し左様な思召されたとしても、御意見申上げるのが臣下の道である、
自分は左様な事では元帥の役目を果すことが出來ないから、闕下に骸骨を乞ひ奉る、
と 申されましたので、
私は此時から最も重大だと痛感致したので有ります。
其処で、私は閑院宮殿下に申上げ、又、上原元帥に話をして、
東郷元帥は御批准あらせられない様にしたいとの意見を有して居られるから、
元帥会議御諮詢の際は、東郷元帥の意見に賛成せらるゝ様
當時の金谷参謀總長に努力方を依頼し同意をえたのでありますが、
遂に元帥會議に御諮詢あらせられず、軍事參議官會議が開催されましたので、
私は當時統帥權干犯に對して非情に憤慨したのであります。
そして、爾來 「 ロンドン 」 條約に反對し、吾々の主張に同意し協力するものは
悉く同志として頼もしく感ずる様になつたのであります。
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昭和5年 ( 1930年 ) 浜口内閣、ロンドン軍縮条約調印
左から    加藤寛治 カトウ ヒロハル    東郷平八郎    財部 彪 タカラベ タケシ
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加ふるに當時の社會情勢は反軍思想高潮の時代でありまして、
軍部は政府、民間より非常な壓迫を受け、
軍人自らも電車の中等に於て小さくなつて居らなければならぬ情態にありましたが、
他面、政党政治の弊害は凡ゆる方面に於て惡事が行はれ、實に嘆かはしい狀態にありました。
彼の三月事件、十月事件、五 ・一五事件等は、此の環境に於て、
「 ロンドン 」 條約の締結、統帥權の干犯に源を發するものと思ひます。
當時、我々同志たる 反 「 ロンドン 」 條約主張者は、
非常なる壓迫を受けたのでありますが、

當時我々の主張に對し
北一輝、西田税等は民間に於ける諸方面の有力なる參考材料を提供して、

我々の行動を援助して呉れたのであります。
・・・中略・・・
同志の意義
私が同志と申しましたのは、所謂 反 「 ロンドン 」 條約派の謂でありまして、
海軍に於ては所謂艦隊派と稱せらて居りまする鞏硬な國體擁護論者であります。
其主なものは、
加藤寛治大將    有馬良橘大將    千坂海軍中將    南郷海軍少將
末次信正大將    大角岑生大將    山下源太郎大將    山下海軍大佐
等であります。
山下英輔大將は財部大將の従兄弟でありまして、我々とは別個の立場にあるものと考へて居ります。
そして、
西田、北 等は
我々の考へと同一な志士的な思想の持主だと考へて居りました。

 西田税
對西田税關係

西田税と初めて知りましたのは 「 ロンドン 」 條約問題の起つた時でありまして、
當時西田が私の家を訪問し、統帥權干犯問題に就て憤慨して居りました。
そして我々の統帥權擁護運動について、色々有利な參考資料を知らして呉れました。
それ以來度々私宅を訪問して、色々情勢を知らせて呉れて居つたのであります。
西田はいつも私に對し、
社會改造に 非合法手段を用ふる事の不可であること、
青年將校等が時勢に憤慨して尖鋭化するので、常に説得の役目をしていること等話をし、
曾て參謀本部で大川一派に爆弾三百發を渡しているが、
累を閑院宮殿下に及ぼす様な事があつてはならぬから、
速かに回収の方法を講ぜられたき旨申して來ましたので、
此の當時の小磯陸軍次官に話して、回収の処置を講じた事があります。
此等の言から考へて、西田は暴力には全然反對であり、
漸進的社會改造を考へて居る至誠の士であると考へて居りました。
・・・
小笠原長生
憲兵聴取書
昭和十一年四月一日
東京憲兵隊本部
福本亀治憲兵少佐

二 ・二六事件秘録 ( 二 ) から


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