あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税と大学寮 1 『 大学寮 』

2021年10月09日 04時59分36秒 | 西田税



大学寮
大正十四年四月上旬 ( おそらく九日か十日 )、
西田税は革命運動の戦士を志して上京の途についた。
大学寮の入寮式が四月十三日で、寮生の入寮期限が十二日であったから、
西田は遅くとも十一日には、大学寮に入っている。
いま一ツ橋二丁目の毎日新聞社のある所は、その頃は竹平町といって、ここに文部省が建っていた。
竹橋を渡ると、左手は平河濠、右手は江戸時代の北の丸で、
いま国立近代美術館の経っている所から、国際文化会館にかけての一帯は、
教育総監部や、近衛師団軍楽隊の建物が点在し、
その先に 近衛歩兵第一、第二聯隊の広大な営庭があった。

平河濠を渡ると、
江戸城の本丸の跡地で、その頃は麹町区代官町といっていた。
ここに中央気象台があり、その傍らに午砲台が設けられ、
関東大震災までは、正午になると号砲を撃って時を知らせていた。
( 土曜日を半ドンというのは、この号砲の音からきている )
大学寮の建物は、この午砲台の近くにあった。

明治の初め頃に建ったものらしく、
古びた平屋建だが、広大なもので、四棟をロの字型に組み合せ、
中庭に面した側に廊下があり、部屋数も大小合せて十室あまりあった。
玄関の左右はすべて寮生の部屋で、
入って右手の一番奥に、広い講義室があり、
西田税はこの講義室から、五六室はなれた十八畳の部屋に一人起居することになった。
その頃、西田の部屋にしばしば訪れた辻田宗寛の記憶によると、
西田の部屋の中央には三尺四方の ( 約一メートル平方 ) の囲炉裏があり、
床の間に小机を置き、仏像をかざって、朝夕その前で読経していた。
この頃、辻田宗寛き侠客大杉精市の主宰する東海聯盟の事務所に起居していたので、
大杉統領の使いで、しばしば西田のところを訪れた。
「 たしかに西田さんの隣の部屋には村上徳太郎さんや中谷武世さんが居た。
よく西田さんの部屋にやってきて酒を呑んでいた。
西田さんは大きな囲炉裏に素焼きの燗瓶をさしこんで、一人でチビリチビリ呑んでいた。
軍人をあっさり止めたものの、なにかやるせない淋しさがあったのではないかと思う。
大学寮の行き帰りに、皇居の方で女官が桑積みしているのは、一、二度見かけたが、
皇后さんはお見かけしたことはない 」 ・・( 辻田宗寛 談 )

大学寮は、もともと社会教育研究所と称していた。
社会教育家の小尾晴敏という人が 大戦後の国民思想の後輩を憂いて、
大正十年四月、安岡正篤と語らって、社会研究所を創設した。
これには時の宮内大臣 牧野伸顕、次官 関谷貞三郎も大いに共鳴して、
皇居内の宮内省所管の建物を提供し、経費も宮内省から援助した。
各府県から優秀な青年教育者 ( 師範学校出が多かったようだ ) を、
二十名抜粋して社会教育研究所に入所させ、
一ヶ年みっちり仕込んで、地方に帰らせるしくみになっていた。
むろん月謝はとらない。
翌大正十一年 ようやく学者として知名度の高まった大川周明にも呼びかけ、
大川もその趣旨に賛同し、満川亀太郎とともに同人に加わった。
大正十二年の関東大震災のおり、鎌倉の常楽寺で焼け出された大川は、一時ここに住いをしたこともあった。
この頃から、小尾晴敏は主として地方の講演に出かけ、
留守をあずかる大川周明が、事実上社会教育研究所を主宰した。
大学寮と改称したのは大正十四年四月からで、
この年の三月に社会教育研究所の最後の卒業式を行っている。
「 社会教育研究所卒業式、
三月十日午前十時、麹町区代官町旧本丸の同所に於て、第三回卒業式挙行、
安岡学監の訓示 並びに卒業証明書の授与についで、
来賓 花田仲之助氏の挨拶、大川、満川両教授、小尾主幹の訓示あり、
のち 来賓 牧野伸顕 子、荒木貞夫少将、伊吹定条氏のあいついで祝辞、
並びに感想を述べられ、
卒業生総代 高橋完徳氏の答辞を以て式を終った。
尚 同期卒業生は十七名である 」 ・・行知社の機関紙月刊 『 日本 』 の創刊号 ( 四月号 ) の同人往来の記事。
忙しい牧野宮内大臣や当時憲兵司令官の要職にあった荒木少将が、
わざわざ臨席して祝辞を述べるほどの力の入れようであった。

この頃、北一輝や西田税と行き来をしていた寺田稲次郎 ( 後の日本国民党執行役員長、現在流山市に在住 ) は、
この間の事情についてこう語っている。
「 当時は大戦後の思想の混乱期で、社会主義思想が日本国中を風靡していた。
宮内省や陸軍省でも思想善導、赤化防止の見地から大川さんの事業の意義を認めて、
相当な金を援助していた。
しかし、秋頃になると北さんが西田君を使って宮内省の不正事件をつつく様になった。
宮内省は急に態度を変えて、大学寮を追い出し、とうとう大学寮はつぶれてしまった 」
この社会教育研究所は、四月から大学寮と名を変えた。
改称したのは大川周明である。
大川は後年、五 ・ 一五事件に連座して下獄した際、予審判事に語ったなかに、
「 その頃 小尾晴敏と云ふ人が
私の知人 安岡正篤氏等と旧本丸の一角に 「 社会教育研究所 」 を設け
地方の青年二十名前後を毎年募集し社会教育者としての訓練を与へて居りました。
( 中略 )
大学寮と云ふのは
「 大学之道、在明明徳、在新民、在出至善 」
とあるに因つたもので
明徳 即ち自己の道義的精神を明にし
其精神に則つて民 即ち国家社会を改新して行く人間を養成する所
と云ふ意味であります。

学生は応募者中より二十名内外を選択し
皆所内に起臥し 
午前の四時間は講義を聴き 其の余は自習の時間とし
夜間には 一週少くも二回は知名の士を招き学生をして其の智徳に接せしめました。
故海軍大将八代六郎男爵の如き最も熱心なる後援者でありました。
老壮会、猶存社以来の知人が多く
大学寮を訪問しました其の後 色々問題を起した西田税も
病気の為め軍人を辞めて大学寮に来り投じました。
西田氏は満川亀太郎氏の知人でした 」 と 述べている。
・・大川周明訊問調書、みすず書房刊 『 現代史資料5 』 リンク→ 
大川周明 『 大学寮について 』 
満川亀太郎
西田税が大川周明の主宰する大学寮に入ったのは、満川亀太郎の招きによったものである。
前年の六月頃から、西田は大川や安岡正篤と文通はしていたが、さして深い交際ではなかった。
西田はもともと 『 日本改造法案大綱 』 に魅せられて、北一輝の許に行こうとして、北からの手紙で思い止った。
それが猶存社で北一輝と袂を別った大川周明の許に入ったのは、満川亀太郎の熱心なすすめに従ったものである。
この間の事情を、半年ほど起居を共にしていた狩野敏 ( 財団法人善隣協会理事、東京在住 ) は、こう語っている。
「 満川亀太郎という人は、濃厚な学者タイブの人、実に謙譲な礼儀正しい端正な紳士であった。
しかし、文章は烈々火を吐くような激しい文を書く人で、胸中にはつねに燃えるような憂国概世の志を抱いている、
いわば気骨の人であった。
その頃の満川さんは大学寮や行地社のいわば事務局長的な存在で、親切に人の世話をやく人であった。
満川さんは士官学校の時から西田君を知っていたから、陸軍を止めた西田君の人物を惜しんで、
熱心に来るようにすすめたらしい。西田君がそう言っていた。
私も大正十四年の七月から半年ほど西巣鴨の家で、西田君と同居していたからよく知っているが、
その頃、西田君は熱心に読んだり書いたりしていた 」

大学寮は大正十四年四月十三日 第一回の入寮生二十名を迎えて、厳粛な入寮式をあげた。
行地社の機関紙 月刊 『 日本 』 第二号には次のように報じている。
「 大学寮開校。麹町区代官町旧本丸の一角を護国の聖域として、
大正十年以来、有為なる青年を訓育し来った社会教育研究所は、
新学年よりその教育部を独立して、大学寮と改称し、
大川周明、安岡正篤、満川亀太郎の三氏、専ら之が経営に当る事とし、
村上徳太郎、西田税 両氏を寮監、門脇酉蔵、福島定、酒井利晴 三氏を寮務として、
四月十三日入寮式を挙行、翌日より授業を開始した。
講師 及 担当学科は左の通り、
人生哲学    大川周明
孔老学    安岡正篤
二十世紀史、国際事情    満川亀太郎
日本文学    沼波武夫
国際学、民族問題    中谷武世
経済学    村上徳太郎
社会問題    松岡繁治
志那事情    柳瀬薫
ロシア事情    島野三郎
国防学    西田税
剣道師範    柳生厳長
馬術師範    西田税
新入生は在寮、聴講併せて二十名である 」

こうして、後年の昭和維新運動の揺籃となった大学寮は、皇居の一角の閑静な地に誕生した。
ここで西田は講義や執筆のかたわら 『 日本改造法案大綱 』 の謄写印刷版を作り、
後輩の同志を通じて、これはと思う陸軍士官学校の生徒ら秘かに手渡して、啓蒙活動をするのである。
後年、ニ ・ニ六事件に連座して禁固刑に処せられた菅波三郎 ( 元陸軍大尉、茅ケ崎市在住 ) や、
末松太平 ( 元陸軍大尉、千葉市在住 )  海軍の革新運動の草分けとなった藤井斉など、
昭和維新の運動を指導した人々が、西田を訪れたのはこの大学寮であった。
わずか九ヶ月の大学寮であったが、その歴史的な意義は大きい。

西田が上京して二ヶ月ほど経った六月のはじめ、予備役編入の辞令を受けとった。
大正四年九月一日 広島陸軍地方幼年学校入学以来、十年にわたる軍人生活は終った。
・・・中略・・・
大学寮での西田の講義は国防学である。
専門家だけに真剣に講義をし、時には現在の日本の国情を慨いて、涙を流しながら講義をした日もあったという。
「 陸軍省が思想善導の意味で後援しているだけに、
西田の講師は全く打ってつけの人物だと、その頃、なかなかの評判であった。
私が受講生の一人から聞いた話では、時には西田君が声涙ともに下る名講義をやる。
壇上で涙を流しながら時勢をなげく、学生は若いだけに、大きな感銘をうけたと言っていた 」 ・・( 寺田稲次郎談 )
しかし、西田の講義は単に国防学だけではなかったらしい。
『 日本改造法案大綱 』 も少しは話したと思えるのは、辻田宗寛に対して西田が自分から話していることでもわかる。
「 私も講義室に入って、諸先生のお話を聞いた。
大川さんの講義は日本精神、安岡さんは大塩中斉の 『 洗心洞箚記 』 をやっていた。
西田さんは私に 『 日本改造法案も話しているんだ 』 と言っていたから、
これも国防学の一環として講義していたのだろう。
学生も寮生のほかに、聴講生といって、外から通ってくる学生もいた。
満鉄にいた佐野学さんの紹介で、共産党の渡辺政之助も来ていたし、
あとで神兵隊事件を起した前田虎雄も聞きに来ていたそうだ 」
と、辻田宗寛は語っている。
とにかく、大学寮は四月発足以来、確実な足どりで、教育をつみかさねていった。
月に数回、外部から知名の専門家を招いて講演会を開いている。
月刊 『 日本 』 は毎号のように同人往来の欄で、大学寮の消息を伝えている。
しかし、大いに意気ごんで発足した大学寮も、わずか九ヶ月の寿命であった。
この年の十二月の終りには閉鎖せざるを得なくなり、十二月の末、ついに解散してしまった。
表向きの理由は、宮内省が建物をこわし、新しく図書館を建設するというのであった。
だが、宮内省の真意は寺田稲次郎の談話にもあるように、
北一輝や西田が宮内省高官の身辺を調べだしたため、( この年の暮れには西田は不正事実を確実に摑んでいる )
慌てた宮内省は急に態度を変え、名目をつけて大学寮を追い出したものであろう。

須山幸雄 著  ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
『 西田税  ニ ・ ニ六への軌跡 』 から

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西田税と大学寮 2 『 青年将校運動発祥の地 』 に 続く