西田税
ロンドン條約をめぐって
日本國民党の結成
昭和二年夏の 天劔党事件 以來
・ 天劔党事件 (1) 概要
・ 天劔党事件 (2) 天劔党規約
・ 天劔党事件 (3) 事件直後に発した書簡
・ 天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録
鳴りをひそめていた西田税が、やおら世間の表面に顔を出すのはこの頃からである。
昭和四年の春、政友会の田中儀一内閣の時、不戦条約問題が起った。
西田税が他の右翼諸団体とともに果敢な批准反対運動をくりひろげたのがそのきっかけである。
昭和三年八月、フランスの外務省で十五ヶ国の代表者が集って不戦条約に調印した。
いわゆるケロッグ不戦条約といわれるものである。
わが国からは元外相の伯爵内田康哉が全権として出席、調印した。
ところが翌年春になって条文の第一条に
「 人民の名に於て厳粛に宣言す 」
とある一句が、君主国であるわが国の国体に反すると、野党の民政党から攻撃の火の手があがった。
当時もっとも有力な攻め道具である国体問題を、倒閣運動の材料につかったのである。
この不戦条約批准問題は、揉みに揉んだあげく六月の末に批准されるのだが、
この問題に右翼諸団体をあおったのは当時民政党の若手代議士であった中野正剛だった。
西田が後年
「 中野さんとの関係は、会いたいと思えば何時でも会って貰える関係でありまして、
それは昭和四、五年頃からであります 」 ・・( 小学館刊 『 ニ ・ニ六事件秘録一 P三六一 』 リンク→ 西田税 (四) )
と、述べており、
寺田稲次郎の追憶談によると、この頃はよく北邸に来ていたという。
この不戦条約問題のあとで張作霖爆殺事件が、満洲某重大事件として問題となり
田中内閣は七月のはじめについに倒れ、代って民政党の浜口雄幸が内閣を組織する。
中野正剛
この倒閣運動に、北も西田も一役買ったらしく、浜口内閣が出来たあと、中野正剛が北邸を訪れて
「 田中内閣打倒の論功行賞をするとならば、さしずめ北君はシベリア総督かなあ 」
と、冗談口をたたいたら 北一輝はサッと顔色を変えて
「 俺は天皇なんてうるさい者の居る国の役人なぞにはならん 」
と、本気で怒ったので、中野も興ざめた顔をして帰って行ったという。 ・・( 寺田稲次郎談 )
西田税もこの間の事情を
「 昭和四年、田中内閣当時、所謂不戦条約問題が発生しましたので
黒竜会、大化会、明徳会、政教社、愛国社と合同して、政府糾弾運動を行ったのであります。
不戦条約問題とは人民の名に於て条約を締結せんとした田中内閣に対し、
御批准反対を強請した問題であります。
次で、所謂張作霖爆死問題が勃発して、同年七月田中内閣は倒れたのでありますが、
私はこの爆死問題糾弾運動には反対でありました 」 ・・( 前掲書P三六九 リンク→ 西田税 (六) )
と、述べているように、西田は田中内閣打倒運動にはあまり関係していない。
・
この頃の西田の身辺は寥々りょうりょう たるものであった。
天剣党事件以来、革新的な青年将校の多くは彼の許から遠く去っている。
わずかに遠い鹿児島にいた菅波三郎や海軍の藤井斉との交流があるばかりで、
後輩の陸士三十八期の渋川善助が陸軍士官学校の卒業の直前、教官と衝突して退校になり、
この頃は明治大学の法科に籍をおいて、時おり西田の宅を訪れるばかりであった。( リンク→ 渋川善助の士官学校退校理由 )
このため西田は しだいに民間右翼の人々との交流を深めていったのだが、
この右翼浪人群と西田とは思想上からも、行動倫理の上からも合わなかったようだ。
西田が群鶏中の一鶴と自負していたのか、異質の徒として西田は彼らを遠ざけていたのか、
とにかく孤独な存在であった。
その西田が日本国民党の結成に参画し、
ついで ロンドン条約の紛糾をめぐって縦横に活躍して、関係者の注目を集めるようになる。
北一輝を中心にその頃西田と盛んに行き来して、日本国民党でともに活動する寺田稲次郎は
「 一口に言うと孤独であった。 もともと西田君は性格的に激しい所があるが、一面暗い所がある。
無口で人に容易に同調しない、人を人とも思わぬ所がある。
傲岸不遜ごうがんふそん とまではゆかないが、まあ それに近い感じだ。
このため民間右翼にはあまり人気がなかった。
子供あがりの時から軍隊の中で育ってきたから世渡りが下手だ。
人に不快を与えるような事も平気で言う。人は彼の実力は認めているが、あまり近よらない。
西田君も自分の不人気や不徳は自覚していた。
その西田君も日本国民党の結成がきっかけで、ロンドン条約の紛争のときには随分働いたものだ 」
と、語っている。
日本国民党時代の西田税をその著書 『 一殺多生 』 の中で、生き生きと描いている小沼正も
「 西田氏が、既成の愛国社陣営から好感をもって迎えられないのは、
西田氏の無若無人の言動が反感を買っていたようである。
しかし、公平に見て、西田氏はなんといっても、北一輝をバックに実力をもっていた。
なまじ歯の立たなかった人たちの岡焼であり、嫉妬でもあった。
ともかく、私自身が愛国運動の実態を知るうえに、西田氏の話はたいへんすばらしい勉強になった 」
・・( 同書 P二二三 ) と、述べている。
寺田稲次郎の追憶談と重ね合せてみると、その頃の西田の姿が鮮やかに浮び上ってくる。
こうした態度で右翼陣営の中で、久しく孤高を保ち続けていた西田税が、
ロンドン条約の紛糾をきっかけに果敢な行動や辛辣きわまりない文章をもって、
世間の表面に躍り出た心境はよくわかる気がする。
西田が二十九歳の秋から三十歳にかけての、気力充溢した年代のことである。
内田良平 頭山満
この ロンドン軍縮会議を英米、
とくに米国による功名な対日圧迫の手段とみた陸海軍人の有志と国家主義者たちは
条約の調印をもって英米への屈服であると断じた。
こうして政党対軍部の抗争から、政党政治への不信感を深め日本の危機感を強く抱き、
やがては国家改造運動を具体化してゆくのである。
このロンドン海軍軍縮会議の開催が伝えられると
真っ先に立ち上がったのは黒竜会の内田良平である。
彼は玄洋社の頭山満とはかって、全国の同志に檄を飛ばし 「 海軍軍縮国民同志会 」 を結成した。
この軍縮会議は英米ニ国が合意した上で会議を招請したこと、
これを受けて起つ日本の外務大臣が、
かねてから親英米派の軟弱外交と悪評のある幣原喜重郎であることに、
内田も頭山もひとしお危惧の念と不安を抱いたからである。
そこで全国の同志の力を結集して国内の輿論を盛り上げ、幣原外交を牽制する。
その上全権団や海軍当局を激励し、幾分でも外交態勢を有利ならしめようとした。
昭和四年十一月二十五日、青山の日本青年館に有志五百余名が参集して大会を開き、
満場一致で次のような決議を行った。
一、補助艦の制限に関して均衡の精神を貫徹すること、但し、潜水艦は制限外に置くこと。
ニ、米国の謂はれなき補助艦勢力の拡張を阻止すること
・・( 『 国士 内田良平伝 』 P六五三 )
この決議文は、その夜代表委員内田良平ら五名によって若槻首席全権に手交された。
西田税もこの内田良平の呼びかけに応じて同志会に参加し、
実行委員の一人にあげられている。
実行委員は男爵菊池武夫を筆頭に、
海軍中将佐藤皐蔵、元駐独大使本田熊太郎、早大教授北昤吉 ( 北一輝の弟 )、
内田良平、葛生能久、大川周明、岩田愛之助、それに 西田税である。
錚々たる多彩な顔ぶれの中に駆け出しにも等しい二十九歳の西田税が挙げられたのは、
おそらく内田良平の推挙であろう。
この春の不戦条約批准の反対運動で見せた果敢な、幅広い行動力や、
その上 右翼浪人らしからぬ明快な思考力が内田に認められたものであろう。
西田税はこの二十日あまり前、同志と共に日本国民党を結成したばかりであった。
十一月三日、同じこの日本青年館で華々しく結党式をあげたばかりで、
ロンドン軍縮条約問題がはからずも国民党の初仕事になった。
西田は、後年 ニ ・ニ六事件で捕らわれた際、憲兵の訊問に答えて
「 この様にして、私は不戦条約問題から愛国政治運動の必要を痛感し、
愛国派の少壮有志が会合して日本主義政党を組織する必要を認めましたので、
中谷武世、津久井竜雄 等と相談の結果、夫々、
私は日本国民党、中谷は愛国大衆党、津久井は急進愛国党を中心として合同組織することに致しました。
私は日本国民党に於て表面名前を出さぬ心算つもりでありましたが、
結局同党の統制委員長となり、
昭和四年十一月、頭山満、内田良平、長野朗の諸氏を顧問として結党式を挙げたのであります 」
・・( 小学館刊 『 ニ ・ニ六事件秘録 一 』 P三六九 リンク→ 西田税 (六) )
と、述べている。
西田が政党の必要性を痛感して中谷らと相談している折に、
八幡博堂から日本国民党の話をもちこまれて話に乗った、というのが真相であろう。
これに関して、藤井斉の手紙 ( 昭和五年一月二十二日付 リンク→ 藤井斉の同志に宛てた書簡 (1) ) がある。
「 日本国民党は八幡博堂氏 ( 土佐の人、信州に長く在り痛快男子、三十歳位新聞関係の人 ) が信州国民党を組織し、
此地に於て日本大衆党を奪還し勢を得、行地社に合同を申し込みたる様子、
長野氏、津田氏 個人として之に加る。
西田氏また かの不戦条約問題に於る内閣倒壊の際、頭山、内田 翁一派及明徳会 ( 塩谷氏主幹 八幡氏関連あり )
を糾合して戦へり。
この機縁により信州国民党を拡大して大衆自覚運動のために、日本国民党は組織せられたり。
それ以前に、西田氏、津久井竜雄氏 ( 高畠門下 ) 中谷武世の三名にて大衆運動をなさんとする議ありたり。
ここに於て此等の人々は皆、日本国民党結成準備会には出て相談しつつありき。
その内 中谷、津久井氏等は地盤を別にして、愛国大衆党を組織し 各々別方面に戦い、
招来は合同せんとの約束にてこの二党に分れたり。
( 中略 )
国民党は大車輪の働をなしつつあり。
八幡氏大いに戦いつつあり。
一道二府二十五県に組織完了せりと。
その執行委員長は北氏一派の寺田氏 ( 秋水会 ) なり。
統制委員長は西田氏、幹部の胆はらは政治的大衆運動にあり、
今度の選挙にも代議士として当選可能の所は大いに戦い、然らざる所も大衆獲得のため戦う由 」
( 後略 ) ( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五一 )
と、当時の動きを克明に伝えている。
「 今度の選挙 」 とは、少数与党の浜口内閣が一月二十一日議会を解散して、
二月二十日の総選挙で野党の政友会に百名あまりの大差をつけて勝った選挙のことをしたものである。
しかし、日本国民党の推した中立諸派は七十八名の立候補に対して、わずか四名しか当選していない。
・・( 年史刊行会編 『 昭和五年史 』 P六〇 )
西田たちも大衆獲得の政治運動の限界を知ったことであろう。
藤井斉もあとで 「 大衆に革命は出来ない、出来るようなら革命の必要なし、暗殺は革命の大部を決す 」
と 言いきっている。 ( 『 現代資料4 』 P五七 リンク→ 藤井斉の同志に宛てた書簡 (8) )
・
日本国民党結成のいきさつであるが、
寺田稲次郎の記憶によれば、
西田から相談をうけた寺田は
八幡を中心に、鈴木善一や旧行地社以来の友人である長野朗や津田光造らに呼びかけて
結党準備会を開いた。
結党趣意書は西田の案文を 「 たたき台 」 にして、一同が討議して作った。
「 西田君の文章は固いけれども、味があるんだ。
なかなかの名調子でね、勝手に熟語を作って書くんだが、その造語が妙に文章を生き生きさせるんだ、
みんな感心したものだ 」 ・・( 寺田稲次郎談 )
結党準備会は芝の日陰町にあった小西という人の家を借り、二ヶ月間に七、八回の会議を開いて、
宣言や政策綱領を作った。
表面は合法政党を装い、場合によっては非合法活動もやろうという肚であった。
寺田の談によれば政綱は 「 民生を安んずる 」 を根本とし、五ヶ条、二十項目にまとめていた。
西田税の発議で特にこの中で 「 広義国防 」 を強調し、陸海軍の現有勢力を確保することを主張したという。
これは後に、ロンドン条約の反対運動で西田が筆陣を張って世論に訴えるが、
軍人出身の西田にとって、これは平素からの持論であった。
結党式は昭和四年十一月三日、青山の日本青年館で行われ 満員の盛況であった。
中央委員長に寺田稲次郎、書記長 八幡博堂、次長 鈴木善一、
常任中央執行委員 花田筑紫、奥戸足百、永富以徳、小島好祐、小西久雄、長野朗、津田光造、杉山民成、
そして統制委員長に西田税、顧問には頭山満、内田良平の両巨頭を推戴し、
党本部を四谷の永住町に設けた。 ・・( 小沼正著 『 一殺多生 』 P一八七 )
組織が左翼風になっているのは左翼出身の八幡博堂が、すべての采配をふったからで、
寺田も 「 八幡はさすがに左翼で活動しただけあって、組織づくりは実に巧かった 」 と語っている。
金解禁
都市の明けた昭和五年一月十一日、浜口内閣は金輸出解禁を断行した。
蔵相井上準之助が在野時代は反対であった金解禁 ( 金の貨幣または金の地金の輸出禁止を解くこと ) を、
ついに断行したのである。
しかし、世界的な恐慌のさなかであったから、井上の目算ははずれ、日本経済は破壊的な打撃をこうむり、
不況は一段と深刻さを増した。
西田はこの金解禁のさい、井上蔵相と安田銀行との醜関係をキャッチし、
怪文書を配って浜口内閣にゆさぶりをかけた。
「 昭和五年一月頃金解禁当時、井上準之助と安田保善社との醜関係告発問題に関係して
警視庁に約十日間拘留され 」 ・・( 小学館刊 『 ニ ・ニ六事件秘録 一 』 P三五四 リンク→ 西田税 (一) )
と、述べているのがこれである。
西田は結局不起訴になるが、頭山満の機嫌をそこね 日本国民党からついに手をひかざるを得なくなる。
「 西田氏は金解禁に際して安田銀行の不正貸出し大穴ありと暴露し、
又 井上蔵相の○○○○事件を摘発し其他首相に金の入りこめることを暴露し、
内閣打倒を企てるも早く知られて恐らくは失敗ならむ 」
・・( みすず書房刊 『 現代史資料4 』 P 五二 リンク→ 藤井斉の同志に宛てた書簡 (1) )
これは昭和五年一月二十二日付の藤井斉の手紙の一節である。
藤井の予想通り、西田は財界攪乱の怪文書を配布したことから、頭山満に叱られ統制委員長を辞し、
表面上は日本国民党から手を引かざるを得なくなった。
寺田稲次郎の証言によると
「 いや、西田君の怪文書で、安田銀行も井上も大変弱ったんだ、
どうも醜関係は事実のようで、これ以上騒がれると井上も失脚しなきゃならん。
そこで政界の黒幕辻喜六に泣きついた。
辻喜六という人は表面には絶対出ない人だったが、大した怪物だった。
『 それはだ、これはだ 』 という口癖の人だったが、政財界に顔が広くて実力がある。
さしもの巨人頭山先生でさえ、辻さんには頭が上がらなかったといわれた。
辻さんから頭山先生に話があり、頭山先生が西田君を呼びつけて手を引けと叱った、
というのが真相のようである 」 と、語っている。
しかし、西田は表面は日本国民党から退いた形になったけれども、
党本部にたえず出入りしていたことは事実で、小沼正の著書 『 一殺多生 』 に、
生き生きとその頃の西田の姿が描かれている。
須山幸雄 著 ( 昭和54年 ( 1979年 ) )
『 西田税 ニ ・ ニ六への軌跡 』 から