あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

西田税と大學寮 2 『 靑年將校運動發祥の地 』

2021年10月08日 20時22分59秒 | 西田税

大正末期、革命への起爆薬として軍部に注目した大川周明と北一輝のうち、
大川周明は行地社から軍中央部の中堅将校に接触していったが、
大川と分裂した北一輝は陸軍士官学校生徒との接触から始まった。
それが三十四期生の西田税、三十五期生の大岸頼好、三十七期の菅波三郎らであったが、
若い 政治的にも未熟な将校生徒にとって、
『 
日本改造法案大綱 』 の示す国家改造案は一途な彼らの正義感を激しく燃えたぎらせた。
法案に初めて接した将校生徒は、みな一様に異常な感動にうち震えている。
西田税 
西田税は、
「 法案こそ吾等が魂の戦いに立つべき最後の日の武器なりと信じているのだ。
げにそれは大川氏の言う如く、日本が有する唯一なる日本精神の体現であり、
唯一の改造思想であり、然して同時に世界に誇るべき思想であるのだ 」

また、満川亀太郎から直接法案の解説をうけた
西田の盟友 福永憲 ( 34 ) は、
「 満川の説明に聴き入っているうちに、次第に頬が熱くなり、
頭が充血してくるような圧迫感に襲われました。
卓抜な国家改造の具体策が次々に紙面に躍動して、構想の雄大さと自信に満ちた名分の迫力には、
果てしない地の底に引きづりこまれてゆくような、妖しくも不可解な魅力がありました 」
と 語っている。

さらに陸士生徒時代に、ある夜 同期生からひそかに法案を渡されて熟読した

菅波三郎は、
「 あたかも、乾いた土が水を吸うように心魂にしみとおった 」
と 回想している。

大正末期といえば現在とは比較にならないくらいはるかに情報不足の時代である。
しかも陸士では政治教育は全く行われない。
したがって、政治的には無色透明で多感な二十一歳前後の青年にとって
日本改造法案大綱 』 やその著者 北一輝 がどんなに魅力的であったか想像に難くない。
忠君愛国の軍人精神が政治への批判と接続したとき、
日本改造法案大綱 』 は その魔術的魅力を以て青年将校運動の思想的中核となり、
革命への起爆薬となる。

革新派靑年將校の誕生

大正十一年七月、
陸士を卒業した西田税、福永憲 ( 後の朝鮮軍参謀・中佐 ) 、宮本進 ( 大正十二年八月所沢飛行学校で練習中墜落死 ) らは、
陸士内にひそかに設立した 「 青年アジア同盟 」 によって大ジア主義を志向してくたが、
日本改造法案大綱 』 にふれて 国家改造運動に転換し、
それぞれ各聯隊にあって横の連絡をとりつつ 国家改造思想の啓蒙普及運動を開始した。
ところが西田は、この運動が師団、聯隊首脳の忌避きひにふれて、
羅南の騎兵第二十七聯隊から広島の騎兵第五聯隊に転属となった。
この後 発病した西田は、故郷米子で病気療養中の大正十四年七月、
自ら予備役となり、政治革新運動を志して上京、
大川周明らの主催する宮城内北の丸の 大学寮  において、
寮監兼講師として、機関誌 「日本 」 の編集と国防問題を担当し、
青年将校および陸士生徒の同志獲得をはかった。
大学寮は元の名称を社会教育研究所といい、大正十年の秋、教育者の小尾晴敏が安岡正篤と提携、
時の宮内次官 関谷貞三郎を口説いて、全国の農村青年約二十名を集めて日本精神鼓吹の教育を行っていた。
ところが、大正十一年の春に安岡からすすめられた大川周明が参加し、
名を大学寮と改められ、行地社の設立とともにその運動の一環となり、
これを不満とした安岡はやがて金鶏学院創立のため去ってゆく。
この頃、すでに満川亀太郎、大川周明、北一輝によって 大正八年八月に設立された猶存社は、
大川、北の性格的確執から対立となって分裂解散し、
大川は大正十三年四月に東京青山に行地社を設立していた。

こうして大学寮時代の西田税は、行地社の一員として大川周明に強力していたが、
この頃は、後年西田自らが語っているように、編集と講義に追われた革命への研究時代であった。
ところが、大正十四年後半の時期を契機として、
陸軍内において革新への道を志す青年将校および将校生徒たちが、
次々に大学寮の西田を訪れるのである。
・・・挿入
末松    古賀さんが大学寮に行ったころと、僕が大学寮に行ったころと大体似ているんだがね、
           宮城のなかの・・・・。あんたの行ったのは何年ごろですか。
古賀    大正十四年の冬休みだった。
末松    ああ・・・・大正十四年の冬休み・・・・。
古賀    そのとき西田税氏とはじめて会った。
片岡    大正十二年ぐらいでしょう。あの大川周明・・・・じゃない、安岡正篤が日本精神の研究を出したのは。
古賀    私は藤井 ( 斉 ) が読めというので読んだ。
末松    僕が大学寮に行ったのは大正十四年の秋だな。
古賀    僕は冬休みだから・・・・そのときにね。
末松    陸軍と海軍が大体同じ時期に、互いになんの連絡もなく、すでに同じ穴をほじくりよったわけだ。
古賀    私が行ったときにね、さっそく西田税と会ったしね、その時にね、ちょうど行地社の東京支部というのかな、
           その発会式をやりよった。大川さん、満川亀太郎・・・・。
・・・( 『 政経新論 』 昭和三七年五月号 座談 「 五 ・一五事件 」 より。
なおこの座談会の出席者は古賀不二人 ( 清志 )、三上卓、佐郷屋嘉昭 ( 留雄 )、末松太平、片岡千春の五氏  )
・・現代史資料4 国家主義運動1 から

大岸頼好
西田が大川周明を頼って上京した直後に、
まず、青森歩兵第五聯隊の大岸頼好少尉 ( 35 ) が大学寮に西田を訪れる。
一方、西田が上京する二ヶ月前の大正十四年五月頃、
陸士在学中であった三十七期生の菅波三郎が 『日本改造法案大綱 』 に魅せられ、
同志とともに渋谷千駄ヶ谷の北一輝を訪れる。
北一輝は菅波を自己の理論的後継者と目して最も評価し、また 期待する、
そして菅波は、
「 初めて思想家といえるような人物に会ったような気がした 」
と 感激する。
菅波はこの後にに下を訪れて二人の初対面となる。
・・・挿入
大正十四年五月初夏、
ふとしたことから私は、北一輝著 「 日本改造法案大綱 」 を入手して、
爾来 不退転の革新運動に身を投じたのであるが、
同年七月二十日頃、日曜日、
著者北一輝氏を訪ねて初対面、親しく謦咳に接した。
三日後に陸士本科卒業、鹿児島に帰隊して、
十月、陸軍少尉に任官。
その年の暮、
年末休暇を利用して単身上京、大学寮に初めて西田税を訪う。
西田は既に現役を辞して大学寮の学監であった。
爾来十三年。
彼が刑死するまで、その親交は変わらなかった。
永遠の同志、戦友である。
彼は陸士第三十四期生。 
私は三十七期生。
この間に三十五期の大岸頼好がある。
それに海軍兵学校第五十三期生の藤井斉( 私と同年輩 ) と。
この四者は、特に忘れ難き同志網の図根点を形成する。
西田さんに初めて会った時は、丁度大学寮が閉鎖になる間際だった。
一寸険悪な空気だった。
満川亀太郎さんが現れて 「 今後どうするか 」 と 西田さんに問う。
愛煙家の西田さんは大机の抽出を開いて、
バットの箱が一杯つまっている中から新しいのを一個つまみ出し、
一服して、
「 決心は前に申した通り。とにかく私はここを去る 」
と 吐きすてるように言った。 ・・・菅波三郎 「 回想 ・ 西田税 」 


次に この年 ( 大正十四年 ) の十月、青森歩兵第五聯隊の士官候補生として、
大岸少尉によって革命への道に魅力をいだいた末松太平が、
陸士入学直後に友人とともに大学寮の西田を訪れる。
末松太平 
・・・挿入
西田税とのつきあいは、大学寮に彼を訪ねたときからである。
大正十四年の十月に、青森の五聯隊での六ヵ月の隊付を終えると、
私は士官学校本科に入校するため、
また東京に舞戻ってきた。
そのとき、まだ少尉だった大岸頼好が、
東京に行ったらこんな人を訪ねてはどうか、
と 筆をとって巻紙のはしに、
さらさらと書き流してくれた人名のなかに、西田や北一輝があった。
しかし入校早々、すぐにも訪ねなければ、とまでは思っていなかった。
が、入校後間もない土曜日の夕食後、
青森で別れたばかりの亀居見習士官がひょっこり学校にやってきたのがきっかけで、
まず西田税訪問が急に実現することになった。
亀居見習士官は士官学校本科を卒業する前に航空兵科を志願していたので、
そのための身体検査に出願するよう通知をうけ、
検査地の所沢に行くついでに立ち寄ったのである。
「 五十二が廃止になり、
知らぬ五聯隊にやられて面白くないので航空を志願しておいたが、
大岸さんや貴様らと過ごしているうち考えが変った。
身体検査は合格するにきまっているが、志願はとり消しだ。」
こういった亀居見習士官にとっては、
いまはむしろ所沢に行くほうがついでで、
目的は私らを誘って西田税を訪ねるほうだった。
・・ 中略 ・・
「大岸さんが貴様らを誘って西田さんを訪問してはどうかといっていたが、
明日は別に予定はないだろう。」
明日は日曜で外出ができる。 別に予定などあるはずはない。
どうせいつかは訪ねてみようと思っていたことである。
こういった亀居見習士官の誘いは私にとっては、いいついでであった。
翌日、約束の場所で落合って西田税を訪問した。
同じ聯隊からきていた同期生の草地候補生も一緒だった。
訪ねた場所はその頃西田税が寝起きしていた大学寮である。
健康上の理由で朝鮮羅南の騎兵聯隊から 広島の騎兵五聯隊に転任した西田は、
結局は健康上軍務に耐えられぬという口実で少尉で予備になり、
大学寮にきていたのである。
大学寮という名称がすでに妙だが、あった場所も妙だった。
が亀居見習士官は大岸少尉から、くわしく場所をきいているとみえ、
一ツ橋で市電をおりると、ためらわず先に立った。
すると皇宮警守が立ち番をしている門にさしかかった。 
乾門である。
右手に見上げるように、昔の千代田城の天守閣跡の高い石垣がある。
その先の木立のかげの平屋の建物が大学寮だった。 
木造のちょっとした構えである。
案内を乞うと、
声に応じて長身の西田税が和服の着流しで姿を現した。
「大岸は元気ですか。」
招じいられた部屋での西田の第一声はこれで、
変哲もなかったが、つづいての、
「このままでは日本は亡びますよ。」
は、このときの私たちには、いささか奇矯だった。
天壌無窮の皇運のみをたたきこまれているだけに、
このままでは----の前提条件はあるにしても、
日本が亡びるということには不穏のひびきを感じないわけにはいかなかった。
当時の世間一般の風潮からいえば必ずしも奇矯なことではなく、
私たちと同年輩のもののなかには、
もっと過激なことをいうものもいたにちがいないが、
武窓にとじこめられた教育をうけている私たちには刺激の強いものだった。
こう受取られる傾向が、
その後、北、西田の思想が国体に背反している危険なものと軍当局ににらまれ、
二・二六事件で難くせつけられることにもなるわけである。
そういった私たちの反応を、同じ軍人であっただけに内幕は知りすぎているから、
はじめから計算にいれているかのように西田は、
亡国に瀕しているという日本の現状を語りつづけた。

・・
天劔党事件 (4) 末松太平の回顧録 

やがて末松の同期の澁川善助らも大学寮に来る。
つまり、西田は大学寮時代に 大岸、菅波、末松という、
後に青年将校運動の指導者となる連中に会って、一応同志的接触に成功している。
さらに、戸山学校に派遣されていた西田の同期 岩崎豊晴中尉も、
西田が上京すると直ちに大学寮を訪れて会っている。
もっともこの岩崎中尉は、思想的には西田に共鳴していたが、
むしろ予備役になって国家改造運動に挺身する西田の将来を心配していたよき友人である。
こうしてみると、
西田が活躍していた時期の大学寮は、青年将校運動発祥の地といっても過言ではないだろう。

芦澤紀之著  『 暁の戒厳令 』
革新派青年将校の誕生  から