緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

懐かしいもの

2023-01-07 21:55:31 | その他
この正月休みに実家の自分の部屋で懐かしいものを写真に撮ってきた。
実家の自分の部屋は高校生のときの状態とほぼ変わっていない。

高校生のときに鉄道にすごく関心を持ち始め、駅や近所で鉄道の写真を撮ったり、鉄道雑誌を買って読んだりしていた。
将来は国鉄職員になりたいな、と本気に思っていた。

下の本は高校2年生の11月に修学旅行で東京に行ったときに、新宿の紀伊国屋本店で買った本だ。
表紙を写真に撮るのを忘れてしまったが、誠文堂新光社から出ていた「ディーゼル機関車ガイドブック」というタイトルだったと思う。





(表紙を撮った写真がありました)



恐らくディーゼル機関車の全てが紹介され、専門的なことが書かれていた。
今でも時々見かけるDE10も、運転席が横向きになっているのが写真で分かる。
修学旅行で、函館駅で青函連絡船にこのDE10が貨物車を積み込むために、機関士が横向きに運転していた姿が今でも記憶に残っている。
DE10は積み込み用の機関車なのだ。

それに対しDD51は長距離運搬用だろう。
この模型は修学旅行から帰ってきてからどこかで買ったものだと思われる。



このDD51は私が高校生のときにたくさん走っていた。北海道では貨物をけん引するのはもっぱらこのDD51型ディーゼル機関車だった。
このDD51も数年前に完全に廃止された。

下の本は高校の修学旅行で先の紀伊国屋本店で売っていなかったため、注文してきた本だ。
後で郵送されてきた。この本も誠文堂新光社発行で、この出版社は「子供の科学」という独特の雑誌を出していて、人気もあったようだ(ラジオ製作や写真撮影などの記事が多かったかな)。





下の本はいつ借りたのか覚えていないのだが、多分高校の図書館で借りて、とうとう返さなかった本だ。









今は無き、歌志内線、夕張線、岩内線、胆振線など、廃止された多くの路線があったことが分かる。
ローカル線の廃止とともに、夏休みの高校生、大学生の貧乏旅行の姿をしだいに見かけなくなっていった。

下は、ドイツルガーやレミントンアーミーといった名銃(?)のレプリカ。
ミニチュアだが鉄製で重量感のある本格的なモデルガンだ。
これは狸小路の茶屋碁盤店で親父に買ってもらったもの。小学校6年生のときだ。
当時プラモデル作りに熱中していた親父の行きつけの店だった。
当時はモデルガンブームだった。そもそも今、モデルガンなんて売っているのか?。
そういえば、兄が少年ジャンプの裏表紙に出ていた通信販売の広告で「海賊ピストル」という小型の、火薬でピンク色の樹脂製の球を飛ばすピストルを買って、家でバンバン、と的めがけて撃っていたっけな。





この写真はなんだ?。
懐かしいものたちを写真に撮っているときの失敗作の写真だけど、偶然にもオーロラに見える。



下は中学2年生の時のノート。英語のノートがまだしぶとく残っていた。





それにしてもひどい汚い字だ。この頃って本当に勉強していなかった。頭の悪い中学生だった。
でも今までの人生で最も楽しかった時代だ。何をしても楽しかった。朝が来るのが待ち遠しい時代だった。

その後、いい高校に入れなくてそのくやしさと、嫌な学校から逃避するためにがり勉となった。
その時のノートもしぶとく残っていた。

高校1年生のときの地理Aのノート。
別人のようにきれいなノートに生まれ変わっている。いつ貧血で倒れてもおかしくないほど青い顔をしたがり勉に変身していたときだ。





高校2年生で英語の成績が飛躍的に伸びてきたときに買った、英単語集。
しけ単、でる単という愛称で呼ばれていた当時のベストセラー。
これは夥しい汗の黒い染みがまんべんなく付着するほど使った。
そういえば英語の授業中に、この単語集を読んでいたら、先生から思いっきり教科書で頭を叩かれたことがあった。
その先生、私に実家のすぐ近くに今でも住んでいるんだよな。







高校2年生のときの国語の教科書があった。



最も多感な時だった。
マラマッドの「最初の7年間」とか、作者は忘れたが「セメント樽の中の手紙」とかいった小説は今でも忘れないで覚えている。





授業はつまらなかったし、苦痛だったし、全く覚えていないし、先生は嫌いだったが、小説の内容は本当に頭に入ってきていた。
(高校の時の先生は本当に嫌だった)

こういった品々は取っておいて良かったのではないか。
こういう物で記憶の隅っこに追いやられていた昔の思い出が蘇ってくることもあるのだと思う。
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4 コメント

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久々に見ました (武田の赤備え)
2023-01-08 22:09:14
いつも楽しく拝見させていただいてます。出る単
という単語久しぶりに聞き、懐かしさを感じました
私も高校卒業まで英語の勉強をどうすればいいのかわからず、卒業から予備校入学までの間、出る単、
出る熟、駿台英作文700選を片っ端から覚える作戦
にしました。英作文を500位覚えると不思議な事
にCNNのキャスターが言っている意味が分かりました。入試で英語は得意科目になり、大学入学後も
教養の英語は苦労しなかったです。
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Unknown (緑陽)
2023-01-09 00:11:40
武田の赤備えさん、こんばんは。コメントありがとうございました。
武田の赤備えさんも「出る単」の世代なのですね。
しかも出る単で英語が飛躍的に向上したのですね。
確か私も駿台の「英作文700選」、持っていました(表紙のデザインは白地に青いデザインだったような)。
私の場合は、美誠社の「総解英文法」(高梨健吉著)が運命的な出会いでした。
高校1年生の時、正直、中学1、2年生程度の英語力しかありませんでしたが、この本で英語が好きになり、人生を変えてくれました。
(中学時代に最も嫌いだった理科だけはその後も好きになることはありませんでしたが)
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青春の輝き (fado)
2023-01-09 17:42:16
緑陽さん、こんにちは。

太郎眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
二郎眠らせ、二郎の屋根に雪降りつむ。

中学校のとき、国語の時間に髙橋先生が、この詩を黒板いっぱいに書き、大きな声で諳んじながら、しみじみと『どうだ、いい詩だろう。先生が書いた詩だ』と、微笑みながら、私たちの顔を見た。

髙橋先生は、私が中学校に入学した時、隣町の中学校から転勤してきた先生だ。年齢は20代後半、国士舘大学を卒業した、体育会系の先生だった。空手2段の猛者、野球部の顧問。当時、野球部は、不良の集まりだった。しかし、髙橋先生の厳しい指導により、不良たちは全て改心し、全員、素晴らしい生徒へと変わった。そして野球部も素晴らしい部活へと変化していった。

ある日のホームルームの時間だった。私の友人の金田君が泣いていた。そこに、野球部のキャプテンでピッチャーをしている、沼田君が金田君の所にやって来て、『あいつにやられたのか?』と、阿部君を指さした。沼田君は腕っぷしも強く、中学校で番長でもあった。阿部君は中途半端な生徒で不良でもあった。彼にいじめられた生徒はたくさんいた。沼田君は真っすぐに、阿部君の席に行き、一言二言話をしてから、いきなり阿部君の胸ぐらを掴み、右手の甲で左から右へと阿部君の頬を張った。担任の先生は、その様子を見ていたが何も言わなかった。それ以降、阿部君のいじめは、ぴたっと止まった。

6月の晴れた日、『お前たち、国語の教科書をもってついて来い』と言って、私たち生徒を誘導し、野外へと向かった。私たちは、先生の後ろを、ぞろぞろとついて行った。他のクラスの先生や生徒たちは、何事がおきたかと教室の窓ガラス越しに我々を見つめていた。
生徒たちは、髙橋先生に誘導されて、外のグランドを横切り、グランドの左手より、少し高いところにある東山公園と向かった。
『国語の教科書の○○ページから○○ページまで、2回読みなさい。読み終わったら遊んでいいぞ』と言って、髙橋先生は、公園のベンチに腰かけた。
髙橋先生は、とても厳しい先生だったが、生徒への差別もせず、教科書が読めない生徒には同じ個所を根気よく、出来るまで読ませたりしていた。だから、私たち生徒は、皆、髙橋先生が大好きだった。昭和30年~40年ごろは、途轍もなく優しく素晴らしい生徒や、信頼できる教師が沢山いたように思う。

昨日も、夜、寝付かれず、スマートフォンで、緑陽さんのblogを読んでいました。また、音を小さくして緑陽さんの演奏している曲を聴いていました。そして、昨日は緑陽さんの綴るblogに、中学生時代のことを思い出してしまいました。緑陽さんの綴る文章と写真は、情景だけでなく、緑陽さんの醸し出す雰囲気や心根までしっかりと表現されていますね。毎回、読む度に、懐かしさがこみあげてきて、何か・・・。心が「ほっこり」しますね。

モデルガン・マッチガン・戦艦大和・切手収集などなど・・・昭和の時代は懐かしさの宝庫ですね。

髙橋先生が『俺の書いた詩だ』と言っていた詩が、三好達治の書いた『雪』と知ったのは、高校生のときでした。(笑い)

緑陽さん、中学校時代は、楽しかったのですね。曇り空の高校生時代、受験だけの時代。それもまた、「青春の輝き」ですかね。

北の街角より。
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Unknown (緑陽)
2023-01-09 22:35:22
fadoさん、こんばんは。コメントありがとうございました。
いい話を聞かせていただきました。おっしゃるように私も昭和30~40年代はとてつもなく優しく、また正義感に満ちた人がまだたくさんいた時代だったと思っています。
この時代は、日本が最も輝いていた時代だったのではないでしょうか。
私は学校の先生には運が悪かったのか恵まれませんでしたが、一人だけ素晴らしい先生がいました。小学校5年生の春に転校先の学校の担任の先生で、名前は須藤先生という50代半ばくらいの男の先生でした。
この先生との出会いで、今まで引っ込み思案で何をやっても自信がなかった私が、色々なことに思いっきり挑戦できるようになりました。書道が上手くなったり、徒競走が速くなったり、そして一番の思い出が、それまでオール2だった成績がこの須藤先生のおかげでオール4にまで上がったことでした。自分でもこれほどうれしかったことはありません。
(しかし6年生で担任が変わってから元の成績に戻ってしまったばかりでなく、その先生から生涯残るトラウマを受けました)。
子供って、先生や友達で随分変わるのだと思います。
私は須藤先生のときの1年間で、学校の楽しさを心底味わいました。楽しかった居残り授業、夏の暑いときに授業を打ち切って木陰で本を読ませてくれたことなどが蘇ってきます。
心の柔軟な年ごろの時代の教育者の存在というものが、いかに大切なことか今になって身に染みて分かります。
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