緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

最近のニュースを見て感じたこと

2023-12-21 20:35:46 | 時事
だいぶ冬らしい寒さになってきた。
最近見たテレビニュースで気になったテーマで久しぶりに時事関係の記事を書くことにした。

1.メーカーの検査不正 ものつくり大国は完全に凋落 失われた技術立国のプライド

またも世界的に名を知られた某自動車メーカーで検査不正が発覚した。
かつて世界市場を席巻した日本の製造業の大企業が次々と不正検査やデータ捏造などを長期間行っていたという事実が明るみにされている。
こういう事実が公表される会社は氷山の一角で、恐らく同様のことを行ってきたメーカーは膨大な数に及ぶのではないかと思う。

この自動車メーカーは記録を遡ると1989年から不正を行っていたという。
そして不正を行った原因は、短期間の開発スケジュールが強く推進されたことに開発要員が追従出来なかったことらしい。
世界市場での熾烈な競争に勝ち抜くためには、開発期間を出来るだけ短縮して量産品を市場投入しなければならない。
しかし安全で高品質な製品を世に出すためには、相応の品質基準をクリアしなければならず、そのために開発段階から量産化の過程でさまざまな試験、検査、品質レビューのプロセスが設けられている。
また量産化以降も当然、出荷検査や定期検査をクリアしなければ出荷することが出来ない。

開発スケジュールが過密だったというのは表向きの言い訳であろう。
もっと根本的な原因をさかのぼれば、このメーカーの社長が言っていたように、「自分さえよければ他人はどうなってもいい、という自己中心的な社風、組織風土があった」、「失敗やミスを叱責する」、「声を上げずらい雰囲気があった」ことなどが土台となり、不正に発展したものと思われる。
思えば私が社会人となった1987年の頃は日本の製造業は頂点を迎えていた頃であり、製造業の生産の殆どを国内でまかなっていた。
そして工場の末端の現場を中心に、草の根の小集団活動による品質管理運動が徹底して行われていた。
すなわち、現場で何か問題が起きたり、課題を感じたりすると、それを個人ではなく、職場みんなの問題として共有し、全員で解決に取り組んでいこうとする精神が浸透していた。誰が悪いとか誰に責任があるとかなど問わず、関係なく、みんなで知恵を絞って解決していこうという雰囲気が醸成されていて活気にあふれていた。
1980年代半ばに、「日本的経営」という分野で研究がなされていたことがあったが、恐らくその1つにこの草の根の品質管理運動の成果が論じられていたに違いない。
しかしバブル経済が崩壊し、日本の製造業は大きな転換を迫られた。価格破壊が起き、多くのメーカーはコスト削減のために製造拠点を人件費の安い中国などに移転した。
そのため日本の高度経済成長を支え続け、その後の世界への躍進に貢献した多くの中小企業が倒産に追い込まれ、その中小企業の優れた製造ノウハウや金型などが中国などに流出した。
そして国内では人件費の変動費化が促進され派遣労働が拡大し、国内技術力の衰退につながっていった。
人事評価制度もそれまでの年功序列、終身雇用形態が崩壊し、人材の流動化が一層促進されるとともに、欧米流の評価制度、すなわち個人別目標管理制度や年俸制などが急速に広まり採用された。
先に述べた「自分さえよければ他人はどうなってもいい、という自己中心的な社風、組織風土」はこのようなプロセスを経て徐々に形成されてきたと考えられる。

検査不正、不適切検査、検査データ改ざんといったものは、上からの指示ではなく、末端の作業者が行ったことが原因とされ、内部告発などで発覚することが多いようだ。
末端の作業者や設計担当者が自らの判断で行ったということは、企業倫理の掟を破ってまでも実行せざるを得ない背景があった可能性のウェイトが高いのではないかと思う。
その背景として考えられるのが、短納期での開発、設計、生産であり、問題の責任の所在、人事評価を個人に求める企業体質から来ていることだ。
近年、働き方改革関連法が施行され、時間外労働の上限が定められたが、「時短目標の達成が評価の対象」とされたことから、いわゆる「隠れ残業」が常態化し、帰宅後に深夜まで持ちかえって仕事を行っていた社員が自殺するなどの労災が社会問題として露呈した。
残業時間を削減する具体的な方策を組織内で講じることなく残業するな、と強制する行為、いわゆる「ジタハラ(時短ハラスメント」が社会問題としてクローズアップされ、先日のNHKのドキュメンタリーでこのハラスメントで犠牲となり自ら命を絶った中堅管理職の悲劇が放映されていた。
幼い子供を残して死んでいったこの社員はどれほど追い詰められ、苦しんだであろうか。「声を上げられない」のは、声を上げたことによる報復措置、すなわち役職解任、減給、配置転換、左遷などが暗に用意されているからである。利益至上主義の行き過ぎた企業が取る方策であり、従業員が生身の人間であることを度外視している結果が引き起こしたことと言わざるを得ない。
しかし、「失われた命は2度と戻ってこない」。そのことの重みを理解出来ないようでは、検査不正問題の解決も含め、日本の製造業の将来は無いと言わざるを得ない。
日本の製造業は評価制度の転換が迫られている。個人から組織レベルでの責任体制、評価体制に移行するとともに、徹底して若い世代の技術職の教育が求められる。
「日本の先進国からの脱落」は今すぐそこに来ているという実感がある。若い世代の人口減少が著しいが、それを補完するためにも高い技術力を習得できる教育に力を入れていかないと、日本という国は昔はちょっと経済大国で豊かだったこともあったらしいけど今は観光名所やカジノで成り立っている取るに足らない小国として見られるようになることは間違いないと思っている。

2.札幌市の中学校で中1女子生徒が自殺

昨日のニュースでまた痛ましい出来事を知った。
札幌市の中学1年生がいじめを苦にして自殺したというニュースだった。
この女子生徒は小学校低学年までは明るい活発な子だったというが、高学年からいじめを受け始め、中学1年生でもいじめが継続し、自殺に至ったという。
死んでいったこの子はどんなに辛かったであろうか。どんなにか生き地獄を日々味わったであろう。
驚くべきことに、定期的ないじめ調査でいじめがあることを記載し、何度も報告しているのに何の対策もなされなかったという。
何故対策を取ろうとしないのか。ことを荒立てたくないからであろう。
自分の身にやっかいなことが降りかかってくることを避けたかったためであろう。出来るだけ表に出さず、穏便に済ませたいというずるさがあったに違いない。
この自殺した少女は、そのことに対する怒りを自らの死を持って代弁したのである。
その怒りの感情の強さを最大限に厳粛に受け止める必要がある。
でなければ、普通に生きていればもっと素晴らしい人生を経験できたあろうこの少女の無念の気持ちが浮かばれない。
自ら死を選択するということは究極の決断である。しかもこんな幼い年齢で。これ以上の決断は存在しない。
その究極の決断をせざるを得ないほどの心理状態に追い込まれた、という事実を真剣に考えることの出来る教育関係者はどれほどいるのだろうか。




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