緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

マンガ「聲の形」を読む

2020-09-06 20:58:11 | アニメ
7月31日にテレビで放映された、アニメ映画「聲の形」が思いの外いい内容だったので、その後原作のマンガ(コミック全7巻)を中古で買って読んでみた。
昨日完読したが買ってよかった。
アニメ映画はだいぶストーリーを省略していたが、原作(大今良時)はもっと細かいニュアンスが描かれている。
アニメとマンガで決定的に異なるのは、アニメの方が高校最後の学園祭以降、成人式までの日々をカットしていることだ。
ただ、私はアニメの終わり方、とくにラストシーンはマンガよりも優れていると感じた。
このアニメのラストシーンは素晴らしい描写だった。
このラストシーンこそこの作品の最も根幹となるテーマの完結を意味しているからだ。

この作品の舞台となる学校生活はとても過酷に思える。
恐らく現代の学校生活というものはこのようなものなのだろう。
裏切り、不信、悪意、狡猾といったものが渦巻いている。
人の心を深く傷つけることが平然と何の良心の呵責も無く行われているし、しかも容認されている。
ものを隠す、落書きをするなど、実行者が特定されないことを計算のうえで実行する。
卑怯なやり口が当たり前のように認められている。

1970年代までは確かにあった子供らしい純粋な気持ちを持つことがある意味で危険だということが分かる。
仲良しグループだったのに、ある日突然、何のいわれも無く無視され、孤立していく。
取っ組み合いのケンカが無くなった代わりに、陰湿ないじめや嫌がらせが横行するようになった。
この作品の中では、主人公や聴覚障害の少女を始め、描かれている苦悩は生々しく、読むのがつらくなってくる場面もある。

人間不信になって当然の社会だ。
不登校や引きこもりが拡大するのも無理はない。
私がもしこの今の時代に少年時代を送ったとしたら、不登校となるに違いない。

しかしこの作品はこの過酷な学校環境の中で、いかに人間信頼を取り戻し、自分を肯定し、他人を愛することができる人間にまで成長するために何が必要なのか、という問いを提示する。

ここに登場する人物は、主人公を含め、程度の差があれ、過去にトラウマや傷を抱え、そういう自分を嫌い、憎み、悲しみを抱えながらも世の中との関わり合いの中で逃げずに生きていくことを選択する。

とくに主人公が小学校時代に聴覚障害の少女をいじめた報いとは言え、逆に理不尽な制裁やいじめを受け人間不信となり、自己嫌悪に心が支配されるなか、中学、高校と学校内で誰とも交流を持たず孤立する学校生活を送る。
しかしこの主人公は覚悟を決めた捨て身の行動がきっかけとなり、人間性と人に対する信頼を取り戻していく。

いや、この主人公はどんなに過酷な環境に置かれても、心に奥底に埋もれていた「良心」という人間性を失うことはなかった。
心の最も深いところに埋没していた「良心」に反応する人たちが現れた。
その人たちも癒し難いトラウマを抱えていたが、彼らが主人公のこの抑圧されていた「良心」を無意識的に引き出していく。
これこそが人間の意識の枠を超えた根源的な本能なのだと思い知らされる。

人は愛されなかったとき、大きな選択を強いられる。
愛されなかった人は、心に大きなダメージを受けている。
心の癒し難い傷の解決方法として、ときに人は大きな過ちを犯す。

①他人を傷つけることで解決しようとする。
②自分を責め、自分を傷つけることで解決しようとする。
③傷に真正面から向き合い、本質的な解決を行おうとする。

①と②の違いは何であろうか。
それは人間的な「良心」あるか否かではないか。
それは小さいときに少しでも愛情がはぐくまれた経験があるかないかによって決まるのではないか。
②は人間的な良心を自ら捨てることが出来なかった。
②は心が破壊され(言い方を変えれば自ら心を破壊し)、最後に自殺する。
自らの命と引き換えに「良心」を守り通す。

主人公は②の選択をしたが、あるきっかけで③の方向に向かう。
このきっかけは偶然のように見えて、そうとは思えない。
埋没していた「良心」がこの主人公を突き動かし、最後に「捨て身の決断」をしたからである。

この作品は、自分を裸にし、真正面からぶつかっていかないと、決して人との信頼関係を得られないことを随所に強調している。
ぶざまでも、悪くても、未熟でも、おのれの真の姿を受け入れ、相手に真正面からぶつかっていく強さを持つことの大切さを訴えていることが伝わってくる。

物質的に豊かになった反面、精神的には昔よりはるかに生きにくくなった現代社会。
人間が人間性を失わずに生きていくために、どうしたらよいのか、愛されなかった人間はどう生きていったらよいのか、という問いかけに対する本質的な答えを提示した貴重な作品だと評価したい。

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島原地方の子守唄の演奏と秋虫の鳴き声を多重録音してみた

2020-09-06 18:02:40 | ギター
そろそろ秋がやってくる。
待ち遠しい季節だ。
朝、夜が明けるのが遅くなったし、日が暮れるのも早くなった。
秋の虫の鳴き声もさかんに聴こえてくるようになった。

この秋の虫の鳴き声をバックにギター曲の演奏を録音してみようと思いった。
夜遅くに秋の虫が鳴いている頃を見計らって録音してみたが、虫の数が少ないのか、殆ど聴こえない。
そこで以前、だいぶ前に公団に住んでいた頃に録音した秋虫の鳴き声と、今日自宅で弾いて録音した「島原地方の子守唄」を重ね録音してみたら結構うまくいった。
演奏の方はベストとは言えないが、この辺で妥協した。


島原地方の子守唄の演奏と秋虫の鳴き声のミックス


ギター録音
録音日:2020年9月6日17:07
録音場所:自宅
録音機:SONY PCM-D10
(音加工一切していません)

秋虫録音
録音日:2006年頃?の某日(深夜)
録音場所:以前住んでいた公団のトイレ(窓半開き)
録音機:ZOOM H4
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マンドリンオーケストラ・コンコルディア第48回定期演奏会を聴く

2020-09-06 01:02:15 | マンドリン合奏
今日(5日)、東京小平駅近くにあるルネこだいら大ホールにて、マンドリンオーケストラ・コンコルディア第48回定期演奏会が開催されるので、聴きに行っていた。

コンコルディアの定期演奏会を聴くのは昨年に引き続き2回目。
コロナ禍で全てといっていいほどのマンドリンオーケストラ団体のコンサートが延期になっているなかで、この時期に開催を実現したことに少なからず驚きを感じるとともに、主催者の熱意に並々ならぬものを感じた。
6月末から練習を再開し、再開後わずか2か月の練習期間にもかかわらず開催を実現したということは、やはりどうしても伝えたい曲があり、その曲に思いを込めた自分たちの演奏を是非とも聴いてもらいたい、という気持ちが強かったからなのだろう。
今日の演奏を聴いて、その思いを十分に感じることができた。
来てよかったと思う。
予定されていた熊谷賢一や帰山栄治などの大曲が他の曲に変更されていたのは残念といえば残念ではあったが、代わりに演奏された曲目もテーマを綿密に検討されたものであり、何故この曲を選曲したのか?、という背景も熟考されたものであった。

プログラムは下記の通り。

第Ⅰ部
・翼の歌(中野 二郎)
・行進曲「空をゆく」(英雄葬送曲)(武井 守成)
・行進曲「陸をゆく」(服部 正)
・行進曲「海をゆく」(大澤 壽人)
・Prelude 冬の樹(小林 由直)

第Ⅱ部
・交響的前奏曲(G.デ.ミケーリ/中野二郎編・石村隆行校訂)
・歌劇「シュヴァルツェンベルクの城」第一幕への前奏曲(I.A.フィリオリーニ/石村隆行 編曲)
・組曲「エジプトの幻影」(G.デ.ミケーリ/中野二郎編・石村隆行校訂)

第Ⅰ部はマンドリン創成期の作曲家と私とほぼ同時期に大学のマンドリンオーケストラを経験された邦人作曲の曲であった。
中野二郎はマンドリンオーケストラではイタリア人作曲家の編曲でよく知られているが、クラシックギター界ではフェルナンド・ソルなどギター黄金期の作曲家の楽譜の監修者として知られている。
現代ギター社から出版されている中野二郎監修「標準版ソルギター曲集」の序文を読むと、中野二郎がソルの時代、すなわち19世紀の出版事情をくまなく調査し、ソルのオリジナルとして最も信頼のおける譜面(Heugel版)を提示していることが分かる。
それだけにとどまらず巻末にHeugel版の誤植を指摘し、考証も行っていることも特筆すべきことである。
今度記事にしようと思っているのだが、ソルの有名な練習曲はセゴビアなどの諸ギタリストの恣意的な改訂によりソルのオリジナルが歪められ、原典が何であるかの判別すら出来なくなっているのが実情だ。
驚くべきことに中野二郎の譜面の公開は、例えばソルのop.15のような殆ど知られていない曲の原典、フランスのユージェル版とかドイツのジムロック版など、複数の資料をあたってなおかつ細部にわたって検証されていることだ。



今回中野二郎のマンドリン曲を初めて聴いたが、氏の誠実な性格が感じられる佳曲だと思う。
因みに中野二郎は、「学校を出て最初に取りついたのがマンドリンだった」と言っている。

武井守成のマンドリンオーケストラ曲を聴くのも初めてかもしれない。
ギター独奏曲ならば学生時代に弾いたことがある。
譜面は実家にあるので今は手許にないが、「やどかり」という名前の付く曲を弾いたことがある。
随分前(35年くらい前なので記憶に自信が無いが)。
武井守成にしても鈴木静一にしても中野二郎にしても、この時代の作曲家はマンドリンのみならずギターにも造詣が深かったことが分かる。
今は無くなったが、邦人のギター曲の作曲に「武井賞」というものがかつてあった。
武井賞を受賞した曲で印象深いのは、野呂武男の「コンポジションⅠ・Ⅱ・Ⅲ」、宍戸睦郎の「ギターのためのプレリュドとトッカータ」、原嘉寿子の「ギターのためのプレリュード、アリアとトッカータ」、内藤明美の「シークレット・ソング」だ。これらの曲の感想は以前記事にした。
クラシックギター作曲家としての武井守成を讃え、「すぐれたオリジナル・ギター作品の振興およびその顕彰、普及に大きく貢献してきた」章だと言われている。1952年から始まった。



コンコルディア演奏の行進曲3曲を聴いて最も印象に残ったのは、行進曲「陸をゆく」(服部 正)。
とくにベースとマンドローネの演奏が素晴らしかった。
曲に対する熱い気持ちが強く伝わってきた。
今日のコンコルディアの演奏で感じたのは低音系の充実の必要性だ。
自分の学生時代のマンドリンクラブのカラーは低音系のパワーと言われていた。
ときに炸裂するようなパワーを生み出していた。
思うに、マンドリンオーケストラ曲というのは、聴き手にとって、おのずと腹の底から煮えたつようなパッションを感じさせる音作りでなければ、その独自性、存在意義というもの感じ得ない。
そのための手段として低音系を充実させることも大きな要素であることを今日の演奏会で感じ取った。

第Ⅱ部はイタリアの曲。
3曲の中では、歌劇「シュヴァルツェンベルクの城」第一幕への前奏曲が良かった。
マンドリンのハーモニーが美しいし優雅だ。
イタリア人作曲家の曲を聴いていつも思うのは、ハーモニーの美しさを知り尽くしているということ。
邦人作曲家でも藤掛や熊谷や帰山の一部の曲で、極めて美しいマンドリンのハーモニーを聴くことがあるが、それとは本質的に違う。
このハーモニーの美しさというのは独特だと思う。普通のオーケストラでは決して聴くことのできないものだ。

最後の組曲「エジプトの幻影」は36年前の学生時代に実際に弾いた曲(1984年演奏)。



学生時代に弾いたときはこの曲は好きになれなかった。
正直つまらないという印象だった。
今回、聴き手の立場から鑑賞した印象ではかなり違っていた。
第3楽章は忘れていなかった。
超絶技巧の要求されるフレーズと、マンドリン+ドラ、マンドリン+セロのユニゾンのソロが印象として残っていた。





コンコルディアは1973年から毎年欠かさず演奏会を開催してきたことがプログラムの演奏会記録で分かる。
その特色は選曲にある。
邦人作曲家、熊谷賢一、帰山栄治など、現在の団体が取り上げない大曲かつ難曲を常に取り上げてきたことだ。
選曲に物凄い神経を使っていることが分かるし、選曲の動機も聴衆に妥協しない、一本筋の通ったマニアックというか、素晴らしいものを伝えたいという気持ちが感じ取れる。
技巧面では、昨年聴いた以上にハイレベルなものを感じた。
私の所属する団体もトップレベルだと思っているのであるが、技巧面では同等かそれ以上のものを感じた。
このコロナ禍の状況のなか、ハープ2本とオルガン(?)を含めた他楽器と、ソプラノを配置させた編成には驚き以上のものを感じた。

久しぶりに聴いたマンドリンオーケストラ曲。
自分もこの分野の音楽を極めていきたいと、感じさせるコンサートであり、とても刺激を感じるものであった。
来年も期待したい。

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