今日もあと残り少ないが、何か書いておこうと思う。
今日たまたま「ギター・ミュージック」という雑誌の古いバックナンバーを読んでいたら、ブラジルの作曲家、ヴィラ・ロボスの夫人であるアルミンダ氏の寄稿文が掲載されているのを見つけた。
興味を惹いたのが、セゴビアに捧げられた「ギター協奏曲」のカデンツァ(ギター・ソロ)挿入のいきさつ(裏話?)がアルミンダ氏自身のコメントして紹介されていたことである。
セゴビアはヴィラ・ロボスにギター協奏曲を書くように催促してくれと、アルミンダ夫人に再三頼んできた。
そして夫人は、自分が間に入らなかったら、ヴィラ・ロボスはこのコンチェルトを作曲しなかったはずだ、と考えていた。
しかしこの寄稿文では、夫人詩人の言葉で「それは違っていた」と否定している。
当初ヴィラ・ロボスはソロ無しの「幻想曲」(オーケストラとギターのための)を作っていたが、その曲にはソロがなかった。
セゴビアは大変残念がり、ヴィラ・ロボス自身が指揮をするハープ協奏曲を聴きにいくためにフィラデルフィアに行き、そのハープ協奏曲には長いソロがあったのだが、その実演を聴くと、自分のためにも、同じようなソロを作って欲しかったとヴィラ・ロボスに申し入れた。
ヴィラ・ロボスは、自分の根気強い仕事が気に入られなかったと知ってがっかりした。
その後、ニューヨークのホテルでセゴビアが催した夕食会でヴィラ・ロボスは、セゴビアのためにコンチェルトにソロを入れることを決意し、幻想曲はギターとオーケストラのためのコンチェルトになったのだという。
これまでこの「ギター協奏曲」はアルミンダ夫人の介添えがあったから誕生した、ということが知られていたと思う。
しかしこの婦人の寄稿を読むと、このコンチェルトの作曲がセゴビアのヴィラ・ロボスへの強い働きかけがあったからこそ完成された、と思える。
夫人はこのコンチェルトが1955年、アメリカのヒューストン管弦楽団との共演で初演され、大成功だったと述べているが、その時の音源は公開されていないし、その後セゴビアはこの曲をレコーディングすることはなかった。
話は反れるが、ヴィラ・ロボスの「12の練習曲」の楽譜を初めて見たのが、中学3年生のときの札幌ヤマハセンターだった(1978年頃)。
その時見た「12の練習曲」の楽譜(当時で2,900円)は、その4年後に手に入れたマックス・エシッグ版(かさはら楽器店で入手、4,800円)とは違ったものだと記憶している。
輸入版で間違いないが、表紙の色は白地に確か青の文字、練習曲第1番のアルペジオは1段づつ記載されていたような気がする。
あとで手に入れたマックス・エシッグ版の表紙の色は肌色で、赤文字だったので、店の人に「これ本当に本物ですか?」と聞いたぐらいだ。
今日たまたま「ギター・ミュージック」という雑誌の古いバックナンバーを読んでいたら、ブラジルの作曲家、ヴィラ・ロボスの夫人であるアルミンダ氏の寄稿文が掲載されているのを見つけた。
興味を惹いたのが、セゴビアに捧げられた「ギター協奏曲」のカデンツァ(ギター・ソロ)挿入のいきさつ(裏話?)がアルミンダ氏自身のコメントして紹介されていたことである。
セゴビアはヴィラ・ロボスにギター協奏曲を書くように催促してくれと、アルミンダ夫人に再三頼んできた。
そして夫人は、自分が間に入らなかったら、ヴィラ・ロボスはこのコンチェルトを作曲しなかったはずだ、と考えていた。
しかしこの寄稿文では、夫人詩人の言葉で「それは違っていた」と否定している。
当初ヴィラ・ロボスはソロ無しの「幻想曲」(オーケストラとギターのための)を作っていたが、その曲にはソロがなかった。
セゴビアは大変残念がり、ヴィラ・ロボス自身が指揮をするハープ協奏曲を聴きにいくためにフィラデルフィアに行き、そのハープ協奏曲には長いソロがあったのだが、その実演を聴くと、自分のためにも、同じようなソロを作って欲しかったとヴィラ・ロボスに申し入れた。
ヴィラ・ロボスは、自分の根気強い仕事が気に入られなかったと知ってがっかりした。
その後、ニューヨークのホテルでセゴビアが催した夕食会でヴィラ・ロボスは、セゴビアのためにコンチェルトにソロを入れることを決意し、幻想曲はギターとオーケストラのためのコンチェルトになったのだという。
これまでこの「ギター協奏曲」はアルミンダ夫人の介添えがあったから誕生した、ということが知られていたと思う。
しかしこの婦人の寄稿を読むと、このコンチェルトの作曲がセゴビアのヴィラ・ロボスへの強い働きかけがあったからこそ完成された、と思える。
夫人はこのコンチェルトが1955年、アメリカのヒューストン管弦楽団との共演で初演され、大成功だったと述べているが、その時の音源は公開されていないし、その後セゴビアはこの曲をレコーディングすることはなかった。
話は反れるが、ヴィラ・ロボスの「12の練習曲」の楽譜を初めて見たのが、中学3年生のときの札幌ヤマハセンターだった(1978年頃)。
その時見た「12の練習曲」の楽譜(当時で2,900円)は、その4年後に手に入れたマックス・エシッグ版(かさはら楽器店で入手、4,800円)とは違ったものだと記憶している。
輸入版で間違いないが、表紙の色は白地に確か青の文字、練習曲第1番のアルペジオは1段づつ記載されていたような気がする。
あとで手に入れたマックス・エシッグ版の表紙の色は肌色で、赤文字だったので、店の人に「これ本当に本物ですか?」と聞いたぐらいだ。