rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

映画 セッション(Whiplash) 感想

2016-06-07 19:13:02 | 映画

セッション(Whiplash)2014年米国 監督 デイミアン・チャゼル 主演マイルズ・テラー(アンドリュー)、J/K シモンズ(フレッチャー)

 

偉大なジャズドラマーになるべく名門シェイファー音楽学校(バークリーみたいな所)に通い、練度ピカイチのジャズバンドに参加することになったアンドリューだが、その指導者(フレッチャー)の指導が人間の極限を追求する理不尽なもので多くの若者は挫折してゆく。最後憎しみ会う程対立する二人だがその対立の頂点で珠玉の演奏が生まれるというもの。

 

   映画表紙  度を超した指導(なかなかこんな先生いない)  血が出るまで練習   熱演でアカデミー賞を授賞したJK Simmons

 

実際に視ていないと音楽を通した映画の緊張感は理解できないと思いますが、教育者のフレッチャーのやり方は度を超していて現在の日本ではまず受け入れられないとは思います。しかし小中学校の音楽の授業ではなく、プロのしかも時代を代表するような天才ミュージシャンを育てたい、或は才能を引き出したいのであれば、こういった教育方法もありではないか(勿論映画のはやり過ぎですが)と思わせるものがあります。

 

「この演奏が好き」という場合、ミュージシャンの人柄や人生とは関係なく「演奏自体が良い」というのが聴く人の本音だと思います。そこが絵画や小説のようにある程度作者の人間観と共鳴する部分を持つ芸術と音楽の違いでしょう。だから「究極の良い演奏」を追求するには奏者の日常生活や感情を切って捨てて音楽そのものに全身全霊のめり込む必要がある、というのがフレッチャーの思想なのではないかと思います。音と譜を極限まで追求して指揮する者と演奏する者の時空が完全に共有されて初めて満足のゆく演奏に至るという考えなのでしょう。フレッチャーの悪い点は「こいつは行ける」と見込んだ相手をとことん追いつめて潰してしまう所です。主人公のアンドリューも追いつめられながらも必死に反発して答えようとして遂に壊れてしまいます。多くのカリスマ的ジャズミュージシャンが薬などに溺れて短命であるのはそういった純粋さから来るものかも知れません。米国のジャズ奏者は即興部分を徹底的に練習してから演奏する(もはや即興とはいえない)と言われていますが、一見自由に演奏しているように見えるジャズもそういった厳しさがあるから素晴らしい演奏に繋がるのだろうと思います。自分自身の仕事への情熱や厳しさを改めて見直してみるという気持ちにさせる映画でもあります。その点音色が複雑な管や弦でなくあえてドラムスを主題とした事で訴えかける内容が解りやすくなったと思いました。

Law & Orderで渋々の役を演じたスコダ先生、このwhiplashでアカデミー助演男優賞も授賞していて実は幅の広い上手な役者なのだなと感じました。全ての男児に一見の価値ありの映画です。


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