rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

映画 ヴェニスに死す(Death in Venice) 感想

2019-06-24 18:25:23 | 映画

映画 ヴェニスに死す(Death in Venice) 感想

ルキノ・ヴィスコンティ 監督 1971年 主演 ダーク・ボガード(アシェンバハ教授)、ビョルン・アンドレセン(タージオ)

名画の評判高い作品だったのですが、未見であったのでケーブルTVの放送をやや楽しみにして視聴しました。うーん、一言で言ってしまうと、名曲マーラー交響曲5番アダージオを主題に使いながら、芸術に行き詰まった音楽家(教授)が美少年(タージオ)に恋をすることで禁断の完全なる美に目覚めるという内容。マーラーの好きな私としては、管楽器を使わず、休符のない絹を丁寧に折り畳むようなこの弦楽の重奏からなる曲のイメージを、この映画に描かれる美に落とし込んでしまう事に抵抗があって、主人公の気持ちに感情移入できませんでした。

割と上流階級のご子息タージオは休暇でベニスに家族で来ている。 アシェンバハ教授は彼の美に惹かれて魅入られてしまう。    美を求めながら息絶える教授(賛否別れる最期のシーン)

 

私自身が美少年に惹かれる所がないからかも知れませんが、日本は「衆道は武士の嗜み」みたいな文化もあり、キリスト教の同性愛へのタブー感もありませんし、劇間で戦わされる「平凡から逸脱した常識に捉われない、観念よりも感覚を重視した、堕落した美にこそ究極の美がある・・」的な論争と美少年への愛をそれに重ねて行こうとする長い件にどうも冗長さ以上のものを感じないのです。主人公の教授は奥さん子供もいて、娼婦も買ったりして少年への感情が単なる衆道ではない事は割とくどい程劇中で描かれます。しかし私としては、マーラーはこの曲にもっと深い観念的な美を求めていたように感じたいです。映像は黒澤監督的な俯瞰と長尺を使ったり、工夫の跡も見られるのですが、ヴィスコンティやアシェンバハ教授と同年代の、やや枯れ気味の現在の自分から見てもあまり良いと感じなかったのは文化と時代の違いも大きいかも知れません。


コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大麻(マリファナ)解禁と麻... | トップ | 医療における価値・価格の考え方 »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (河太郎)
2019-06-25 01:09:11
先生こんばんわ。
この映画は「地獄に落ちた勇者ども」「山猫」と供に三本だて(若い人には解らないでしょうね)映画館で見ました。
にも関わらず…あまり記憶がない。なんとなく最後のアッシェンバッハがタージオに恋い焦がれながら海辺のチェアで陽光の中で死ぬシーンだけ覚えています。
私的には何故かパトリシア・ハイスミス原作(記事の表題作はトーマス・マンであったような…)「太陽がいっぱい」のラストに被るのですね。山猫のアラン・ドロンのせいか?(笑)
「地獄に…」は軟弱坊やがSSの制服を着た途端に妙に精悍な男に変身するとか鮮烈に覚えているのですが。
ルキノ・ビスコンティは、その三本立ての後に「パピヨン」
「仁義なき戦い」「ヴェニスに死す」という滅茶苦茶な三本立て(笑)で観ているのですがね。それも新宿東口にあった
ヤクザ映画専門館という場所で。売店に木刀が常備されているような映画館でした。なのに作家の死の海辺しか記憶していないのです。観客は極道かチンピラの場所で何故に?
と思うのですが、フロント企業時代に映画や小説の鑑賞の仕方を教えてくれた上司(企業舎弟)が連れていってくれました。極道たちがマックイーンとダスティン・ホフマンの別れに歯を食い縛り涙しているのに対して上司は寝ており、
作家の死に極道がイビキをたてている中で上司が真剣に観ていたのを覚えています。上司についてはメロンぱんち様の映画欄の「スタンド・バイ・ミー」のコメント欄に詳しく書いております。「獣道」を歩くならば真剣に教養を身に付けろ!と諭した不思議な経済ヤクザでした。
「地獄」「山猫」「ヴェニス」の三本を見た後に、
「共通点は?」と聞かれて「退廃美ですか?」と答えたら殴られました(笑)
本当の上流階級と知識階級の生活を見ろ!という話であったらしいですね。
当時はスマホもWebも存在さませんから、神保町に行きパンフレットを入手してヴィスコンテイを調べました。
この監督、本物の「貴族」なんですね。どうりで山猫のあらゆる小道具までリアルであった訳です。だって自分の遺産の「本物」を用いているのだもの。
明治いらいの祖国の文学が白樺派にせよ「安っぽく」感じられた経験でした。記事を読み懐かしく思い出した次第であらます。
返信する
貴族趣味 (rakitarou)
2019-06-25 08:43:37
ああ、確かに映画の細かい造り、何より主人公達の生活、のったりとしたストーリーの展開自体がヨーロッパの貴族趣味を表していたのかも知れませんね。
我々アジア最果ての人種や、アメリカの田舎なり上がり金持ち(ハリウッドやウオールストリート含めて)にはこの良さは解らんだろう?的な突き放し感があったように思います。そう考えると鼻持ちならないクセのある映画かも知れません。
返信する
同性愛を抜くから意味が不明に、 (宗純)
2019-06-25 16:08:40
パトリシア・ハイスミス原作の「太陽がいっぱい」のアストがなんか変ですよ。そもそもの筋書きも変です。
実は、日本人では、同性愛を抜くから意味が不明になるだけで、欧米人には黙っていても良く分かる仕組み。
パトリシア・ハイスミスはレスビアンで、あれは同性愛を密かに描いたもので、禁断の愛そのもの。
我々一神教的世界感とは無関係な日本人には理解が不能なのです。
返信する
同性愛の位置づけ (rakitaoru)
2019-06-25 17:05:47
このヴェニスに死すで出てくるタージオも周辺にいる若者達とのいちゃつき具合が普通でない様子なんですね。宗純さんが仰るその手の「禁断の愛」がハイソな人達であるパスポートというか不文律的な所があって、我々には理解できない部分になっているかも知れません。
カソリックの高僧達の長年に渡るペドフィリアとか今になって明らかにされ、問題になってますが、それなりの社会階層にとっては「何を今更」なのかも知れません。
返信する

コメントを投稿

映画」カテゴリの最新記事