rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

いまさら?という名画2本The wizard of Oz(1939), The sixth sense(1999)

2020-06-29 18:31:20 | 映画

オズの魔法使 1939年米国 MGM ライマン・フランク・ボーム原作、ヴィクター・フレミング監督、主演 ジュディ・ガーランド(ドロシー)

 

「純真な子供の頃に見ると大変感動する良い映画」という評判があり、還暦を過ぎてから初めて見るような映画ではないのですが、今まで観る機会がありませんでした。見ようと思ったきっかけは、映画の各所にフリーメーソンの世界が描かれているという触れ込みがあったので昔からの名画であることは知っていたのですが、その興味本位で鑑賞しました。

エメラルドシティへのレンガ道と登場人物達      主人公のはずのオズ(おっさん)

ストーリーはカンザスの農場に住む少女ドロシーが愛犬トトをミスガルチから守るために旅に出るのですが、エム叔母さんが心配しているという占い師の言葉で家に戻ります。しかし大竜巻に家ごと巻き上げられて天上の世界へ。マンチキンという小人達に迎えられるのですが、カンザスに戻るために黄色のレンガ道をたどってエメラルドシティに向かい、オズの魔法使いに帰る方法を教えてもらう旅に出ます。途中知能のない案山子、心のないブリキ男、勇気のないライオンと出会って一緒にオズの魔法使いに会いに行くのですが、やっと会えた魔法使いから「西の悪い魔女(ミスガルチとかぶる)」の箒を持ってきたら希望を叶えると言われて魔女の所に。ドロシーはとらえられるのですが魔女は水を被ったら死んでしまい、一件落着。しかしオズの魔法使いは実は詐欺師の人間で気球にのってカンザスまで送るという。犬のトトが逃げ出して気球に乗れなかったドロシーは北の良い魔女に「家に帰りたい」と一心に思えば赤い靴が連れて行ってくれると教えられて、気が付くと家で目覚めるというハッピーエンド。

 

子供心には感動するストーリーということなのですが、どうも純真でない初老男には違和感ばかり感ずるストーリーでした。日米の文化的違いもあるかと思いますが、以下まとめてみます。

 

フリーメーソン的な所

キューブリックの遺作となったEyes wide shutのような秘密結社を暴露する陰謀論的な内容はありません。「虹の向こうに夢の世界」はEyes wide shutでも「虹の向こう」に秘密の世界があるとして誘いの文句として描かれていました。「黄色のレンガ道をたどる」のは「石工の組合」であるメーソンリーを象徴する事象で、メーソンの活動目標が「知性」「心」「勇気」という途中出会う登場人物達が求める物であったこと。オズの宮殿や靴を奪うという行為もメーソンを象徴する事のようですが、特に深い意味はなくて、多分原作者のボーム自身かその近い人にメーソンの会員がいて影響を与えたという事の様に思います。

 

おとぎ話としての違和感

「家より良い所はない」という格言を得る事でドロシーは家に帰れるのですが、元々家に戻ろうとして竜巻に巻き込まれたのだし、家が嫌いであったわけでなく、ミスガルチから愛犬トトを守るために旅に出たのが始まり。エメラルドシティへの道中もずっと家に帰るためにオズに会いに行っていたのだから最後に家が素晴らしいと学んだわけではない。

 

魔女は魔法を使えるけど、主人公のオズは人間で詐欺師、はじめに出てくる占い師と一緒だし、宮殿の馬車の御者と門番も「オズと同じおっさん」というのは設定がチープなような。悪い魔女(ミスガルチと同じ)の方がまだ格が上に見える。

 

日本の昔話だと悪い奴は懲らしめられて「改心」してハッピーエンドが多いのに、悪い魔女は「死」あるのみ。悪役の死に対して他の皆はやけにあっけらかんとして善悪二元論すぎるというか「優しさ」が感じられない。悪い西の魔女はミスガルチの幻影なのだからもう少し人間的に扱っても良いように感じました。しかも最後に家で目覚めたという事はミスガルチはまだ生きていてトトを始末する問題は解決していないのでは?(自転車に乗ったまま竜巻に飛ばされて死んだという設定としても冷たすぎるような)

 

ミュージカル映画として楽しむ分には歌、踊り、カラーフィルムや手作りの舞台設定など莫大な予算と手間がかかったことを実感させる作品でした。メトロポリスやチャップリンの映画などは文化が違ってもストーリーに違和感を覚えないのに、おとぎ話には違和感というのは不思議に思いました。

 

シックス・センス 1999年 米国 M・ナイト・シャマラン監督/脚本、ブルース・ウイリス(マルコム・クロウ)ハーレー・クロウ・オスメント(コール)主演。

映画としてよくできた作品             後から名子役であることも実感

封切当時「衝撃の結末」ということで話題になった名作。何の知識もなく、一神教のアメリカ人にとって死者が見える、魂が彷徨うというのはどのような意味があるか興味があって今回録画してみました。

 

ストーリーは児童精神科医のマルコムが、死者が見える事で悩むビンセント・グレイというかつての患者に恨まれて撃たれてしまう所から始まります。1年後に同様な悩みを持つ少年、コールに出会い、今回は助けようとコールの相談に乗ってゆくのですが、死者がコール少年にこの世に残る恨みを伝えようとしていると悟らせる事で悩みを解決します。しかし驚くなかれ、実は悩みを解決していたマルコム自体が幽霊になっていてコールにしか見えていなかったという「オチ」が最後に明かされるというものです。

 

この作品は純粋に楽しめました。死者の描写の気味悪さも一級でしたが、最後に種明かしされてから「ああ、そういえば」マルコムは少年以外と口を聞いてなかった、他の誰もマルコムを気に留めてなかった、医者なのに車でなくバスで少年と移動していた、取っ手にマルコムの姿が映らなかったとか様々な仕掛けが反芻されて思い出され、二度楽しめるというのは「名作」に価すると思いました。死者の魂が彷徨う、生きている人に語りかけて影響するというのは「反キリスト教的」な様に思われるのですが、日本やアジアで信じられている道教的な死者観というのが実は世界でも違和感なく受け入れられている事も新鮮に感じました。ネタバレしてしまいましたが、一度は見る価値がある一本でした。


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6 コメント

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Unknown (イッシー)
2020-07-09 13:01:28
初めまして、イッシーと申します。
子供のときから、主人公の勝利ばかりが当たり前に賞賛されるアニメを見ては、たまには敵役にも勝たせてあげればと、ひねくれて見ていました。

「悪役の死に対して他の皆はやけにあっけらかんとして善悪二元論すぎるというか「優しさ」が感じられない。」という部分には、目からうろこです。

極端な例えですが、北斗の拳の雑魚キャラにも家族や人生があるわけで、そんなあたりも意図的に盛り込まれた作品があれば鑑賞してみたいものです。
作品が成り立たないかもしれませんが・・・
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外国の童話はあまり教育的でないかも (rakitarou)
2020-07-09 15:10:40
イッシーさんコメントありがとうございます。以前「人間には子供を育てる本能が少ないかも」という論考を欧州の貴族達が自分の子供を乳母に預けっぱなしにした文化から考察した事があるのですが、どうも欧米の文化では「子供を大事にする」「社会で育てる」という思考が足りないように感じます。グリムとか向こうの童話は怖いものが多いですし。日本の昔話の方が優しいし教育的かもですね。
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Unknown (イッシー)
2020-07-09 17:52:36
返信ありがとうございます。
たしかに、童話の類には社会としてのあるべき姿を子供に語り聞かせるという面もあることから、それぞれの国の根本的な考えや価値観が出てくるのでしょうね。
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Unknown (河太郎)
2020-09-13 00:38:56
先生こんばんわ。質問があります2つ。
①オズの魔法使い…これカラー作品(総天然色)でしたか?
私は50年前と45年前に二度みているのですが。ドロシーが竜巻な呑まれるシーン、セピア色のモノクロだったと記憶しているのですが。時期的には同時代の「風とともに去りぬ」がカラーでしたから変ではないのですが。ちょっと写真を観て驚きました。ただラストだけモノクロにした映画で、印象が強くてカラーだったと記憶違いした経験があるので、解らないのですね。
②シックスセンスとは?
標題は第六感つまり、語感とは違う感覚と思います。
ただ「経験からくる推理」と境界線があやふやで。
例えば剣道です。先生が若い頃になさっていたから。
あれは防御も攻撃も一本で成さねばならない競技です。両手を使えるボクシングより難しい。そして、籠手、面、胴の三手を基本にして、だいたい上半身を4つのゾーンに分けた方向から攻撃が来ますね。地吊り八奏のような下段構えを入れても6方向くらい。有効打の軌道は限定されるので、あるZONEを飛んでくる打撃を瞬時に判断し、それを切り返す事で競いますよね?
故に、この切り返しを徹底的に反復して、反射にまで持っていった奴が強い。だから練習がある。
それで第六感ならぬヤマ感なのですが、「機械的ファイター」はヤマ感で最後は闘います。相手がどう動くかまでは予測できないので、受け太刀から切り返すまでは、ほぼ自分の練習量からくるヤマ感に賭けて反射して動きます。
ところが、ある程度の高手になると「読ん」でくる!
姿勢、踏み込み、呼吸などで一手先を読んで動いてくる。
「推理」ですね。
ここまでは一瞬の闘いといえ、合理的な思考の戦いです。
しかし高手同志の戦いを観ると、読みあいをして、その判断の向こう側を僅差で掴んだものが勝つように思える。
これはシックスセンスなのかなぁ?と疑問におもってきました。高手同志ですと、構え!で剣先を触れ合う瞬間から、カチカチと竹刀で探りあいしているのが解る。その読みあいは解るのですが、互角な者の対決の、読みあいの向こう側に何かあるように思えてならない。
因みに経験からすると、例えば自衛隊時代の徒手格では、
「色」に反応しました。グローブはデカいし、黒または持論または紅など、視界に鮮やかな色が踊るので、ゾーンを飛んでくる打撃を予測し易い。なので視界に現れた色に反射するパターンを反復すれば同輩には負けませんでした。でも、
かれこそ「機械ファイター」です!
私の武道経験で、人より成功したのは射撃だけです。
これに関しては言える。五感とは違うものがある。
スコープを用いても、銃にはゼロインがあるので、放物線の弾道が、十字と着弾が一致するのは二点しかない。彼我の距離がゼロインからはずれた場合、十字の真ん中には命中しないので、風力や風向き、距離を計算して、そのズレを勘で撃つことになる。ここまでは「推理」です。
しかし、「その先」はあるのですね。実は。
私の場合、標的が遠くても、自分の鼻先(銃口)と標的の間に、糸で結ばれたような「引力」を感じました。
だからスコープなし、銃座なし、伏射でない立射でも、かなりなヒット率(統計的な以上数値)でした。
それで民間で害獣駆除している時に、何度も乞われて教えまさたが、これだけは伝わらない。幾ら工夫しても理解して貰えませんでした。
基本的な事、トリガーを引く(発射時に銃口が下がる)のでなく「絞る」事ができるように、水を入れたオチョコを重心に乗せて、溢さぬよう絞る…とか。そういう事は伝わる。
けど「糸の引力」だけは伝えようがありませんでした。
では。それはシックスセンスなのか??
いや、そんな勘を持っているならば、易などに凝らないし、
宝くじだって当たるでしょう(笑)
ぜんぜんに普通人なんですね。なのに伝わらない!
だとすると、あれはシックスセンスなのか?
いや、そんな勘や超能力を持つなら、もう少しマシな人生を歩いた気がするのですが。
シックスセンスってあるのでしょうか??
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Unknown (河太郎)
2020-09-13 01:12:39
但し…ですが「引力」とは思い込み…プラセボである可能性がも残ります。それでも……統計学的な的中率からすると、
私や選抜された者の命中率は、やはり異常なのですね。
体育学校に回された連中は、もっと異常数値でした。
果たしてアレは何だったのだろう?
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認識できるのは一部 (rakitarou)
2020-09-13 21:19:01
オズの魔法使 は現実の部分は白黒、ファンタジーの部分がカラーでできていました。3原色を別々に撮って合成したという当時ならではの作り方だったらしいです。

5感についても各人で能力の違いがある様に、5感以外の部分も得意不得意があるのだろうと思います。普段脳を使っている部分は全体の2-30%という話がありますが、自分が認識できている部分というのも働いている脳の一部なのではないか。認識していないうちに勝手に手足を動かしたり、気圧や磁力の変化を微妙に感じて無意識の部分に働きかける脳の能力が個人差を持ちながらあるのではないかと思います。
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