「天皇のロザリオ」 (上・下)鬼塚英昭 著 成甲書房2006年刊
天皇のロザリオは、1938年生まれの郷土史家である鬼塚英昭氏が昭和天皇九州巡幸時の「別府事件」を元に10年にわたる取材調査の末書き上げた天皇家とキリスト教との係わりについてまとめた大著です。
戦後まもなくの占領期、日本をカトリック教国に仕立て上げる謀略があり、昭和天皇をキリスト教徒として洗礼を受けさせる計画があって結局失敗します(別府事件)。しかし皇太子(平成天皇)他皇室家族にカトリックとしての教育を受けさせ(家庭教師のヴァイニング夫人、常陸宮もキリスト教に熱心で宮中聖書事件の元になる、高松宮、朝香宮は改宗)、クリスチャンの嫁(正田美智子)をあてがい(テニスコートの恋を演出)、昭和天皇はある時期からキリスト教とは一線を画するけれども宮内庁職員始め天皇以外の人達にはかなり浸透した、という事実があります。マッカーサーは本気で日本をキリスト教国に変える気であったことが証明されており、1949年当時の陸軍長官ケネス・C・ロイヤルが来日した際の記録にも公文書として「日本の軍事基地化と経済復興、またマッカーサーの日本キリスト教国化構想を支持する」とした大統領が署名した文書が残っています(日本占領の使命と成果、板垣書店1949年)。キリスト教国化の手本はマッカーサーの父アーサーがフィリピン総督に1900年になった際に、フィリピン原住民から母国語を奪い英語を押し付けてキリスト教と民主主義を暴力的に強制する(水攻めで原住民の六分の一が死亡とのこと)ことに成功した体験に基づいていると説明されます(本書11章)。
様々な客観的資料に基づく大著なのでこれ以上の説明は省きますが、現在の皇室のあり方にも不可解な部分が多く、我々国民が知る皇室と内情は大分異なっていると思われます(愛子さんが明らかに複数いるとかーこれは医学的にも明らか)。それも元をただせば、戦後の米国による日本・皇室改造計画に端を発していると思われます。私はこの本を読んで以前ブログにもしましたが、鬼塚氏が神道とは別の「天皇教」と表現している「天皇を神と規定」する明治以降の特殊な神道のあり方、その変遷に興味を持ちました。以下少し本とは離れる部分もありますが、一神教になれなかった天皇教について考察したいと思います。
古来、日本には「自然と先祖」を神と崇める古代神道の思想が根付いていたと思われます。それは恐らく縄文時代に発していて当時の身分差のない集合体社会の中で1万年近く続いていたのではないかと思われます。その後弥生時代になって農業を中心とした土地信仰になり、呪術的な宗教を中心に各地に有力者が出現してきたのだろうと考えます。その中で日本を治めると言える程に勢力を伸ばした一族が「王」を名乗るようになり、各地の伝承を集めて自分が先祖の中で傑出した存在であることを示すために記紀を編纂させ、古事記は国内向け、日本書紀は中国など海外へ「王」としての権威を確立するための書物としてまとめさせたのが「国造り神話と天皇」の神話として残ってゆくことになったのでしょう。しかし古来からの神道は民間信仰としてずっと存在し続けて山や木、自然を神とする神社、偉人を神とする神社もずっと存在し続けて民衆の信仰を集め続けます。天皇はむしろ外来の宗教である「仏教」の布教に力を入れて、仏教による民の統治を考えていたように思います。法隆寺などを国力の総を尽くして建立します。しかし寺の無事建立を祈願して神社を建てるといった民衆への配慮も必要になります。江戸期までは天皇は神道よりもむしろ仏教を重んじていたと言えるでしょう。京には寺ばかりありますし、伊勢神宮に天皇が自ら参拝することは滅多に無かった事実からも伺われます。
これは否定も肯定も証明しようがありませんが、鬼塚氏によると明治維新により、孝明天皇、皇太子睦仁は暗殺され、南朝由来ということにして長州の田舎から大室寅之助なる若者を明治天皇として据え、天皇は神であるという専制君主の地位を一神教的神道、つまり天皇教を作ることによって近代日本が作られていったということになります。この一神教という精神的支配構造を作るにあたっては、明治4年に米欧を1年かけて視察した岩倉具視を始めとする「遣欧使節団」の記録が欠かせないと説明されます。遣欧使節団が見た「一神教の狂気」が民をまとめ、強国を作るうえで欠かせないのではないかと。
キリスト教の根本にあるのは「動物の肉を食する事、異種の民族に取り囲まれて暮らす」ことから来る歴史に基づく病理現象であり、この病理現象が「罪の意識と贖罪感」を生み、神を創造し、その神が罪の意識と贖罪感を持たぬ者、すなはち原罪を知らない者を「下等」とした。キリスト教的文明とは、原罪を知らぬ下等人間、下等動物は皆殺しにしてもよいとする文明である、と説明されます。この説明は2千年来現在も中東で行われている全ての戦争、アメリカ原住民の虐殺、アフリカの奴隷貿易をも見事に説明しています。そして日本への原爆投下の説明にもなります。
戦国大名たちがイエズス会の宣教師たちから火薬の硝石と引き換えに多くの日本人を奴隷として売り払っていた事は「天正少年使節団」の報告書にも「行く先々で見かける南蛮船で奴隷として売られた50万人もの日本の娘たちがあはれである」と記載され、アフリカの黒人を奴隷として送り出した海岸が黄金海岸と呼ばれたのに対して、イエズス会師達は日本の女性達を奴隷として送り出した海岸を白銀海岸と呼んだと記録されていることからも明らかです。それもこれも「下等人間」は人として扱わなくて良いという一神教の思想に基づいていることは明らかです(本書第9章)。これを行っていたのは宣教師達なのですから。この実体を知った秀吉、後に家康らがキリスト教を禁教とし、鎖国をして貿易を幕府直轄のごく一部に限定したことはまさに慧眼といわざるを得ません。
明治政府は狂気の一神教を神道に当てはめて、天皇教を作り上げ、天皇は現人神という扱いになります。しかし終戦により天皇は現人神から「日本の象徴」に変わります。マッカーサーは一神教である天皇教の代わりに同じく一神教であるキリスト教を日本の国教にするため、皇室をキリスト者にする、日本全体をキリスト教国家にする計画を立て、米国も占領政策としてその計画を認めていたというのがこの本の主旨です。結果的には神道は前々からブログで記しているように多神教であり、形がない事が神道の真髄であり、日本人のDNAに深く根付いているものであったから日本にはクリスマスは根付いてもキリスト教が根付くことはありませんでした。またマッカーサーと米国の試みは朝鮮戦争の勃発による日本を共産主義の防波堤にする、という反動化推進により断念され、マッカーサーは朝鮮戦争の司令官として日本を去ることになります。マッカーサーは日本占領期においてキリスト教を布教した東洋のパウロを本気で目指していたとされますが、本書のキャッチフレーズ「日本版ダ・ヴィンチ・コード」という文句もあながち外れではないように思います。改憲、平成天皇譲位、象徴天皇のありかたといった問題を考える上で一読に値する本と思いました。
他方、美智子妃が「お声を失った」という騒動を記憶しています。当時、マスコミの報道への抗議としてのポーズであるとか、ショックによって失語症になったという具合に説明されていた。しかし、「昭和天皇伝」で側近らの証言が取り上げられていましたが、宮中で聖書朗読会であったかキリスト教関係の催し物を美智子妃が開催した事があったそうです。その際、平時、殆んど苦言を呈することもなかった昭和天皇が催しものの終わった後に「神道の場である事を考えて」と短い忠告を発した、と。そのショックや心痛が失語症騒動の真相であったと記していました。
仏教の寺社が古代史の或る時期に物凄く日本列島に増え、また、それは蘇我氏の活躍した時代などと合致している。仏教擁護者の目線だと仏教が日本列島に広がったと捉えるのですが、実は仏教は国を治める為の道具として日本列島に入ってきたのではないかという意見があります。つまり、仏教伝来以前は、大王たちが日本各地につくった神社、神社にも惣社と分社とがありますが、確かに古くは有力者の領地として神社が普及していた節があるんですね。それを打ち破ったのが仏教を抱いていた寺院の普及だったのではないかという考え方があるようです。
皇室自体が戦後開かれたようで本書でも触れられていたのですが極めて閉鎖的で自由な報道や取材ができない状態になっている。美智子妃も結婚した時と胞状奇胎で一時表に出なかった時の後では体型や表情が随分変わっている。しかしそのような事については触れないことになっているんですね。
皇室について深追いする心算はありませんが、日本人のDNAに染み付いている神道的や道教的な考えについてはこれからの日本を形作る上でも重要と思うので検討は続けたいと思っています。
それで最近の話を書きます。
カトリックも司祭の成り手がなく、最近は私が通うていた教会など、韓国人の神父さんが増えております。あの国は嫌いですが、私は別に嫌韓運動してる訳ではない。
ただ…説教に歴史問題をチラチラ匂わせるので、
私どもと何度か衝突があつたと思い下さい。
平壌五輪を讚美する説教をなさり、その瞬間に
信徒が退席する事件がありました。
私は世俗権力と宗教的権威を分離した事が、
実は天皇の帝と幕府の将軍が両立してきた我が国と似ていると感じています。
で、日本の皇族の方は自分達の権威を利用して
ロビー活動したり商売したりされませんね?
世俗権力とは分かつ!
それが最近、北京政府との合議で、司祭の任命権について、北京の推薦する者を承認する合意に達しましたね?
宗派は違えども温州でプロテスタントが弾圧され、教会や十字架を破壊されとるのに!
これは世俗権力の上に神の教えがあるというドグマに判するでないか!?
と信徒が騒いだ。そして礼拝で揉めた。
これは韓国人司祭が五輪讚美したりした事と絡んで、「神聖な聖堂で政治活動するな!」と
騒ぎになったんですよ。司祭は言葉を選んでらっしゃるが、明らかに政治的、歴史的問題について、キリスト教としてでなく、韓国人と中国の歴史戦に基づいて話とるだろと!
私は離脱しましたが、これは先の法王庁と北京政府の合意とは無縁でないと思ってます。
そして「里山の自然と神社の杜を守る運動」で
世話になる宮司に相談したのです。彼は宮司さんですが元は地元の悪友です。
「うちの氏子になるか?
うちなら廃教しないでも氏子になって構わないよ」と。
「そんな事を出来るの?」
「八百万の神々には道教や半島の起源と推察される神様もいる。ゾロアスター教や景教の影響を受けていると推察される神もおわす」
要するに、自分の神様だけ敬ったり、他の神様を軽んじたり、自分の信仰を押し付けたりしない。そういう事を約束できるなら、別にイエス様を拝んだまま氏子になっても構わないよ。
唯一神でなく他の神々も敬えるならば。
私はカトリックでしたが、猟友会の先輩たちと、獲物の心臓を山神に捧げたりしてきました。世俗と権威が分離するように、割りきってきたのです。その時に気がつきました。
俺は本質は多神教でないかと。何よりもその懐の深さに思い至る事がありました。
聖堂で政治対立とか、君らの司祭への言葉は民族差別だ!とか、なら押し付ける司祭は偏向してないのか?とかウンザリなんです。
何の為に聖堂があるのか解ってるんですかね?
神道の何を求めて礼拝やミサに参加するのか?
解ってるんですかね?
もう心底に嫌気がさしました。
神道は良いですよ。心臓手術後に里山や武蔵野を歩いていて、本殿に鎮座する神体。
鏡や石や…簡素なものです。歩くうちに解った気がするのですが、先生、俺は間違ってますか?
御神体は例えば草鍵の剣が熱田神社にあり、しかし形代が皇居にあります。
モノでなく、実は神社の杜。神社を囲む里山や杜そのものが神様なのでは?
そう思い至ってから…癒されるんですよ。
正直に旧友の宮司に明かしたです。何も言わなかった。でも、うちは他の神様を押し退けるような事をしないと約するならば、イエス様を捨てなくても氏子に向かえると。
そして私は改宗しました。
朝日に自然に手を合わせたり、そういう行為。
さらに主を主宰するバチカンが日本国と対峙したり、そもそも天皇の上なのか?
そういう信仰とのギャップは少なくとも解消されてホッとしてます。
うまく言語化できないのですが、ホッとしてます。昨日、鷲宮神社に近い田畑に、激情に駈られて潰したクルスを埋めてきました。
埴輪を発明して生け贄や殉死を辞めさせた土師の氏神を祀る土地とメロンぱんち様に聞きました。何故かホッとしています。
キリスト教その他の一神教というのは所詮40億年の地球暦のなかでこの二千年程度の歴史しかなく、しかも不完全な存在である「人間が適当に定めた教義」にすぎないのに、何故かくも完璧な物であるかのように皆信じているのか不思議だというのが私の感想です。皆が自分の都合の良いように解釈して自分達の煩悩の成就に利用しているだけだから争いが絶えない。これが客観的な各種宗教の実体ではないですかね。勿論信仰や教義そのものを貶めるつもりは全くありませんし、信じている人と争うつもりもないのですが、所詮は不完全な人間が決めたものだという覚めた(さめた)認識がないと単なるカルト宗教の洗脳と同じになってしまう。
それはサイエンスが「演繹法による理論の上でのみ成り立つ真実」であって「絶対的真実ではない」という理解の上に成り立っているという認識と同じで、それがないと「疑う事を知らない愚かな科学万能主義」というカルト宗教と同じになってしまうということ。
山童さんのコメントの答えになっているかどうか解りませんが、私はそう思っています。
rakitarou様のお答えで感じたのは、人智を超えたスーバーパワーとしての神がおわしますとして、
認識する人間の方は欠陥だらけ…という事でした。根元的な意味での神が存在するとして、それを在るがままに認識するできるかというと、
つまらない見栄だの小賢しい知恵だのに邪魔されるでしょうし。その地域や時代の価値観に影響されるでしょうから、解釈は歪むでしょう。
人間のやる事を出ないのですね。
いろいろと反省する事が浮かびました。では。7258