rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 市民ホスピスへの道

2016-01-17 14:02:55 | 書評

書評 市民ホスピスへの道  山崎章郎、二の坂保喜、米沢 慧 著 春秋社 2015年刊

日本におけるホスピスのあり方について、実践を通して進めてきた医師である山崎章郎氏と二の坂保喜氏、そして高齢者や終末期医療のあり方について研究を進めておられる評論家の米沢慧氏のそれぞれの著作と対談形式でのまとめを示した8部構成になっています。

 

前半は「いのちを受け止める町」と題して、米沢氏の項では長寿高齢社会において、痴呆を含めた高齢者が自由に有意義に過ごせる「場所」をいかに工夫するかが各地における試みとともに解説されています。前回紹介した「宅老所」の話も出てきます。山崎氏の項ではホスピスを25年運営して終末期医療にかかわってきた中で今話題となっている「スピリチュアルペイン」「スピリチュアリティ」にどう向き合うか、そもそもスピリチュアリティとは何なのかを氏の経験と考察を元に解説されています。二の坂氏の項では「医療は在宅へ」という日本および世界の流れにおいて、ホスピスケアを在宅において行うモデルをインド、バングラディシュにおけるコミュニティを中心にしたケアから学ぶことについて解説されています。

 

それぞれについて、普段このような問題に関心がある人にとっては示唆に富む深い内容を持った物と思います。本当は身近な問題になりつつある終末期医療や高齢者の介護の問題も、自分の問題として直面してみないとこれらの話題についてゆくのは困難かもしれず、一般受けする内容の本ではないのはしかたありません。

 

私はこの本を読んでホスピスや高齢者医療についての思索が「技術的或いは制度的」な医療や介護の視点から「生き方や死生観」といったより深い視点に進化してきているように感じました。終末期医療を考える上では生き方や日本人独特の死生観といったものを抜きにして語ることは現実的に不可能であることは日々の臨床の上でも感じることであり、今までのブログで取り上げてきたとおりです。この前半の内容では特に山崎氏が解説するスピリチュアリティについて学ぶところが多いと思いました。一部紹介しますと、

 

人間の苦痛を構成する4つの要素にはキューブラー・ロスが提唱したように

1) 身体的苦痛

2) 社会的苦痛

3) 精神・心理的苦痛

4) スピリチュアルペイン

 

の4つがあるとされています。肉体的苦痛は身体的苦痛であるし、病気によって社会生活から途絶してしまうのは社会的苦痛になります。そして将来への不安や希望の喪失は精神的苦痛といえます。ではスピリチュアルペインとは何か、いままであまり語られていない、或いは良くわからないとされてきました。

しかしWHOの健康の定義にもスピリチュアルに健康であることを入れようという動き(否決されましたが)があったように、世界においてスピリチュアリティは人類が生きてゆくうえで重要な要素になりつつあるのです。

 

スピリチュアルペインとは「看護に生かすスピリチュアルケアの手引き」という本によると

・人生の意味・目的の喪失

・衰弱による活動能力の低下や依存の増大

・自己や人生に対するコントロール感の喪失や不確実性

・家族や周囲への負担

・運命に対する不合理や不公平感

・自己や人生に対する満足感や平安の喪失

・過去の出来事に対する後悔、恥、罪の意識

・孤独、希望のなさ、あるいは死への不安

 

と紹介されています。なんとなくまだ具体的に判りにくいです。所詮英語で表現された抽象的な精神の表現を日本語で適確に示すことに無理があるだろうと言うのが私の意見です。しかし人間である以上喜怒哀楽や生き甲斐についての基本的構成は万国共通であり、「日本ではこのように取り組んでいる」という世界への情報発信も必要であることは確かです。

 

山崎氏はスピリチュアリティについての論考のまとめとして

「スピリチュアリティとは人生の危機的状況のなかでも人間らしく、自分らしく生きるために自分の外の大きなものに拠り所を求めたり、内省を深めることでその状況における、自己の在りようを肯定しようとする力のことである」とし、「スピリチュアルペインとは、スピリチュアリティが適切に力を発揮できなかった結果出現するその状況における自己の在りようを肯定することができない状態から生ずる苦痛であり、人間らしく、自分らしく生きることができない状態からくる苦痛である」と定義しています。

 

これはかなり判りやすいかもしれません。氏は「人間の存在」を構成するのはスピリチュアリティを中心に身体、社会、精神心理がそれを取り囲むようにオーバーラップしながら存在する3重円のようなものであると解説しています。

ここで私は人間存在についての仏教の定義と重なることに気がつきました。前のブログで紹介したように人間の存在は五蘊の集まり、つまり色・受(身体と感覚)、行(行動としての外界への働きかけ)、想(精神・心理)、識(阿頼耶識、価値観)によって形成されるという中で、スピリチュアリティとは正に「識」に相当する部分ではないかということです。

人間を見極めるには論語で言われるように、「その人の行動を見て何を考えているかを見て何に満足するかを見れば良い」というその満足の基になる部分が「識」なのですが、「識」のない人間はある意味魂が抜けた機械のような存在と言えますし、「識」を遮断した生活を強いられれば単に生きているだけの意味のない人生になるでしょう。スピリチュアリティとはこの「識」のことではないかというのがrakitarouとしての解釈です。

 

後半は「ホスピスは運動である」と題されて、二の坂氏は小児ホスピスのあり方から重度障害児施設の経験、英国での小児ホスピスのありかたなどから、ホスピスを特別な隔離場所でなく地域の一部、日常生活の一部にいかになってゆくかの論考をしています。山崎氏は厚労省が進める地域包括ケアシステムと在宅ホスピスをどう整合するかという視点で論考を進めます。そして米沢氏は「市民ホスピスへの道」と題していままでのホスピスの歴史を踏まえた今後の生活に溶け込んだホスピスのあり方について提言をします。

 

「ホスピスは運動である」というフレーズはやや捕らえどころがないように感ずるかも知れません。何か政治的、流行的なムーヴメントとしての「運動」ととらえると敷居が高いもののように感ずるかも知れません。「ホスピスは運動」というフレーズを用いたのは最初に日本にホスピスを紹介した岡村昭彦氏ですが、私はもう少し平易に言うとホスピスとは施設や制度のことではなく「道」つまり柔道や華道、書道といった「行いに精神的なあり方」を含んだ「道」としてとらえるべきだという意味ではないかと思います。つまり「ホスピス道」としてそのあり方を検討してゆく物ではないかという事です。ただし伝統的な確立された「道」というものではないので、師範や経典、免許皆伝といったものもなく試行錯誤の中で今後最も望ましい形を皆で確立してゆくというものではないかと考えます。ホスピスは運動、「ホスピス道」としてそのあり方を考える、そう捕らえると本書の題名「市民ホスピスへの道」という意味がすんなりと理解できるように思いました。


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