rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 いのちを受けとめるかたちー身寄りになること

2015-10-13 08:59:47 | 書評

書評 いのちを受けとめるかたちー身寄りになること 米沢 慧 木星舎 2015年刊

 

ホスピスや老いをいかに生きるかを深く考察する米沢 慧氏の新刊で、年4回福岡で開かれている氏のセミナーの講演を採録し本にしたものです。この本で注目すべき点は、癌死を「終わりが見える死」とすればホスピスや「本人の意思を尊重した緩和医療」がその「死」に向き合う方策であるとするならば、老死・老衰は「終わりの見えない死」であり、その「終わりが見えない死」にいかに向き合ってゆくかを明確な形で示した点であろうと思います。

 

以前upしたがん死についての講演で示した死の三態(本のテーマは中央でなく下の自然死の方)

 

高齢化社会を迎えて「健やかに老いるためには」といった本は巷に溢れていますが、もうひとつ先の老死をいかに迎えるか、「健やか」が終わった状態の残りの人生をいかに迎えるかについてはどうしてもその人の人生にとってネガティブなものにならざるを得ず、「社会から捨てられる」、「社会や家族に迷惑をかけずにいかに終わるか」といった話になるからあまり語られることがないように思います。しかし医療や介護の現場、或いは行政においても実はこの老いの終末期といかに向き合うかが最も大きな問題になってきていると言えます。

 

著者はこの老いにおける終末期を人生における「たゆたい期(老揺期)」と名づけて、ボケや身体が不自由になることによる「魂の不安定性」を「身の置き所を求める」という言い方で見事に表現しています。「身」という表現は肉体のみならず、魂を含めた自分の存在そのものを示す日本語であると説明されていますが、高齢になって精神、身体機能が明らかに衰えた状態になると「自己の存在をどこに安心して預けるか」、「身を置けるか」に不安を生ずるようになり、氏の表現を借りると自分が無防備な状態で生まれ落ちて母親に無条件で庇護してもらえた記憶が残る「故郷の生家」を探すようになる。それが痴呆老人の徘徊や管理的な施設への拒絶につながっているのではないか、と説きます。

 

そして「身の置き所」を提供する一つの答えがこの本で紹介されている「宅老所」ではないかという事です。宅老所が所謂老健施設と異なることはその「自由さ」にあります。痴呆が入っている老人が「自由に身を預ける場所」は肌の触れ合い(職員との間にも老人同士においても)が必要であり、それらが「身寄りになる」という表現につながるものでもあります。「身寄り」とは「肉親」を意味する言葉ですが、逆に老揺期においては過去の長い人生を知る肉親はなかなかボケてしまった親兄弟をそのまま受け入れることが難しい、他人として身の置き所を提供する「身寄り」になるというのが、氏が提唱する患者―家族―医療・介護提供者のバランスの良いトライアングルを形成する上で良いのではないかというものです。

 

ボケた人を自由にすることは「管理が不十分になる」こととの対置であり、何かと責任の所在を求められる現在の社会、特に医療・介護の分野においては難しい問題をはらみます。しかも医療・介護は金のかかるものであり、ボランティアでできるものではありません。きちんと料金を取ってしかも管理責任については鷹揚であるためには、「高齢者の行きようとはこんなもの」といった社会的コンセンサスが必要です。その意味で私は社会制度作りと同時に日本人の死生観について、宗教界を含めたコンセンサス作りの運動が必要なのではないかと感じています。

 

キリスト教やイスラム教などの一神教の世界観では、人は神が一代限りのものとして創造したものであって、神が蘇る際に審判が下されて天国や地獄に行くことになっています。よって現世と冥界を何度も行き来する輪廻転生といった考え方は原始宗教の影響を受けている一部の派にはあるようですが、原則としては信じられていません。しかし多くの日本人は生まれ変わりや輪廻転生を自明の事として思考過程の中に組み込んでいて、亡くなった人の魂は生きているときと連続しているものと考えています。仏教的な教えから現世を「修行の場」と考えて因果を誤魔化さず(不昧因果)現世において帳尻を合わせる、因果を報いるに至らなかった場合は来世においてさらに修行を重ねるといった思想は日本人に広く受け入れられているものではないかと思います。欧米における神との一代限りの契約に基づいて自己の才能を生かして社会において早期に収益を上げれば後は享楽的に過ごすも可也という思想はグローバリズムにおける1%の支配者達の拝金主義を肯定するバックボーンになっているものであり、畢竟、日本人には社会全体の不利益を省みずに何故使い切れないほど金をもうける必要があるのか理解に苦しむ所となります。

 

老揺期の過ごしかたが管理責任などを厳しく問わないような、もっと肩肘の張らない環境が整ってゆくことが日本における高齢化社会の問題を円滑に解決してゆく鍵になるだろうと思います。孤独死を問題にする風潮がありますが、その老人が身の置き所としてそこで安らかに死んでいったのであれば、皆で寿いであげればよいのではないでしょうか。


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