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あるマーケティング研究者の思考と行動

大学は何に敗北したのか

2010-01-14 23:14:48 | Weblog
『中央公論』2月号は「大学の敗北」というタイトルの特集を組んでいる。これはいろいろな意味に解釈できる。冒頭の文章を読むと,最近経営が苦しくなってきた一定数の大学(院)を「敗北した」と呼んでいるように思える。あるいは、日本の大学が国際競争で敗北した,という見方もあり得るだろう。少子化が進んで受験者総数が減る一方で,国家財政が厳しい状況になって教育・研究支出が削減されようとしている。こういう時代の流れに対して、大学が敗北しつつあるのかもしれない。これは,大学教員としては深刻な話である。

中央公論 2010年 02月号 [雑誌]

中央公論新社

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この特集で最も印象的なのが,慶應義塾大学の西田亮介助教による「ある若手研究者の悩み多き日常」だ。それは文科省が最近導入した,任期付の助教という職位にある若手研究者が,例の事業仕分けを「リアルタイムに」見守りながらどのように感じたかの記述から始まる。仕分けで行なわれた議論は,テニュアを獲得していない研究者にとって,未来に暗澹たる思いを抱かせるものであった。その元凶として「経済合理性」が槍玉に挙る。たとえば,経済合理性を基準に研究を評価することへの疑問が表明されている。

経済合理性を否定しないまでも抑制することで,どのような大学の未来像が見えてくるのだろうか。近年相次いだ大学(院)への参入や事業拡大がもたらした問題について,教育ジャーナリストの小林哲夫氏は,同じ特集の「学生を路頭に迷わせた『失敗』の履歴」で文科省の政策を批判している。ここで元凶として「市場原理」,つまり経済合理性に近いものが挙げられている。だが,それを否定することが文科省による統制強化につながり,各大学からダイナミズムが失われていくとしたら元も子もない。「第三の道」は可能だろうか。

その点で,全岐阜大学長・黒木登志夫氏の「地方大学は生き残れるか」が興味深い。それによると,日本の大学間研究費配分は,米英に比べて極度に上位集中的である。その一方で,研究費が集中する旧帝大が研究業績で傑出しているわけではない。11の地方総合大学と比べると,獲得した研究費ほどは研究成果(論文数や引用度)が高くないのだ。黒木氏は,高等教育への公的支出をOECD諸国の平均である GNP の 1% に上げることを提案する。これと大学間配分の適正化が行われれば,地方国立大学に光明が見えてくる。

ただ,それだけで大学が「敗北」から抜け出せるのか。私立文系学部の教員としては,理工系学部とは別の問題に思いが至る。その意味でも,東京大学・吉見俊哉氏の「爆発の時代に大学の再定義は可能か」というやや難解な論文の結びが気になっている。
・・・大学を、それ自体閉じた空間と考えるのでなく、それが未来的な知のネットワーク全体の中で占めていくべき場所に照準することで、実験室、博物館、図書館、出版、ウェブなどの様々な知識装置の編成の中で、それらと結びつき、対立もする有力な存在としての大学の未来を構想していく必要がある。
それが何だかよくわからないが,そういう方向であることだけは共感できる。社会科学は社会のなかに,経営科学は市場や産業社会のなかにもっと根を張らないと,大学のなかだけで棲息することは難しくなる。ただ,大学の外の社会が知識に価値を認める余裕を失い始めるとそれは難しい。

大学だけが敗北したのではないということだ。