愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

南山城村田山  茶屋出地蔵立像石仏

2014年04月26日 | 石仏:京都

引き続き南山城村田山の石仏から、ちょっと風変わりな地蔵石仏。

ツルギ道と呼ばれる旧森山神社の入口に立ち、裳裾を広げ、総高の割には像高の小ささが気になるローカル色豊かな地蔵さん。

高さ140cmの舟形自然石の中央に巾一杯の大きな蓮台造り、その上に立つ像高43cmばかりの地蔵立像を中肉彫りで刻み出す。

大きな錫杖と広がった裳裾は伊賀名張地域や、その辺境でよく見かける石仏の特徴・・・大和文化圏とは言え独特なものが有ります。

しかし、ここまで来ると、とても京都府内とはとても思えない。 

肉眼ではとても確認できませんが、応仁3年(1469年)、の銘が有り室町中期の造立。

撮影2012.4.30


京都府南山城村田山 だんだ坂の二尊磨崖石仏

2014年04月25日 | 石仏:京都

先日紹介の南山城村、田山地区に残された磨崖の二尊石仏。

田山地区は南山城村にあって古い歴史を有する処、木津川上流の名張川を堰止めた高山ダム右岸の高原域に在り、山を伐り拓いて造られた茶畑とわずかばかりの水田に囲まれた桃源郷を思わせる様な土地。

集落の中心部、諏訪神社から程近い集落外れ、昔は渡船場へと続く旧道脇の大岩に枡型を彫り窪め、中に阿弥陀と地蔵の二尊を刻み出している。

向かって右に来迎印の阿弥陀、左手は定形の地蔵、共に像高約35cmの蓮台に立つ。

既に花を手向ける人もなく苔生し・・・その上地蔵の頭部などは削られた様にも見えるが・・・。

もう地元で聞いても知らない人の方が多いかも??

撮影2012.4.30


京都府南山城村  北大河原「阿弥陀六地蔵磨崖仏(隠れ地蔵)」

2014年04月24日 | 石仏:京都

いつか青空の下に立ちたいと乞い願っている磨崖の六体地蔵と阿弥陀さん。

南山城村は京都府に唯一残された村、京都府最南東端部に在り、南は奈良市に、東は伊賀市に境を接する長閑な高原里山地域です。

そんな村役場から程近い、木津川に注ぐ「渋久川」河口近くの河川敷に大きな岩が重なるように有り、その下面に石仏が刻まれて居ます。

大岩は地上高2.3m幅約3m、奥行2.4m・・・・この奥行が石仏面の高さに成る。

石仏の刻まれた面は、ちょうど下にある「支え石」に寄り添い、その僅かな空間からなんとかその存在が確認できます。

こちら・・・隙間からなんとか見える阿弥陀如来立像。

舟形光背を彫り沈めた中、像高約30cmばかりの来迎印の阿弥陀立像 。

岩の間に溜まった土をスコップで掘り出し、なんとか上半身を潜り込ませ10mm超ワイドレンズで捉えた全容。 

幅約1m、高さ約40cmの長方形彫り沈め、蓮台に立つ像高34cmの六体地蔵を中肉彫りで刻み出している。

この三体は奥手の三体・・ピントは甘いですが・・

これが一番手前、向かって再右端の地蔵さん・・・なかなかの童顔

この地蔵さんはみぎから二番目の矢田寺型地蔵さん

ちょっとピンボケが酷い右から3番目、金剛幡を持っている。

この磨崖石仏は所謂六体地蔵と、その左右両枠外に阿弥陀を刻んだ珍しい石仏。

いつの頃からか斜面の磨崖がずり落ち、昭和28年(1958)の南山城水害で巨石下の土砂が流されこの石仏が発見された。

現在では確認できないが天文14年(1545)の銘が確認されて居て室町後期の造立。

隠れ地蔵の名で呼ばれて居るようですが・・いつの日か、ちゃんと青空を拝める石仏さんになって欲しいものです。

撮影2012.4.30


南区上鳥羽 浄禅寺(鳥羽地蔵)その他の石仏

2014年01月12日 | 石仏:京都

前述、浄禅寺(鳥羽地蔵)の六角地蔵堂脇に安置された石仏さん達。

現代地蔵石仏の両脇に数多く並び立てられた石仏の内、これはと思う2~3躰の中世石仏。

向かって左基壇、中列中央に安置された阿弥陀石仏・・・その後列にも二体の阿弥陀石仏。

総高80cm程の中石仏・・・舟形光背を持ち古式な蓮台に坐する定印阿弥陀如来坐像でよく整った像容からは鎌倉様式を踏襲した南北朝期の造立か???

背後の二体に共に同じく同高、同時代のものではないだろうか??

特に中央の阿弥陀坐像は戦火に遭ったのか黒く焼け焦げた痕が生々しい

片や、右手基壇にも小石仏の中央には、ちょっと小さい中石仏

舟形光背を背負い小さいながら堂々とした肉付きの定印阿弥陀坐像石仏。

膝張りの力強さは、体躯のひ弱さは気に係るが、鎌倉期の造立を思わせる。

この石仏も戦火にまみれたのか?黒焦げの痕が痛々しい。

撮影2012.9.6


南区上鳥羽 浄禅寺(鳥羽地蔵)の阿弥陀石仏

2014年01月11日 | 石仏:京都

京都六地蔵」の一つ、上鳥羽地蔵として知られる浄禅寺の東西両参道脇に立つ二体の石仏。

上鳥羽地蔵「浄禅寺」は、恵光山浄禅寺という浄土宗の寺院ですが、小野篁(おののたかむら)縁の六地蔵の一体を祀る地蔵堂が建ち・・・

今でも信仰篤く、八月の縁日には人波の耐えることはない。

また浄禅寺は「恋塚浄禅寺」とも呼ばれ、通りに面した木立は袈裟御前の首塚(恋塚)といわれ、平安時代の悲恋を今に伝えて居る。

参道は恋塚を挟む様に南北に有り、その両参道入口にそれぞれ古石仏が立って居る。

向かって右手、南側参道脇に安置された石仏は像高約1m・・・・

頂部は欠けて居ますが、丸みのある舟形光背を持ち、

大きい二重蓮台に結跏趺坐する定印阿弥陀坐像を厚肉彫りで刻み出して居る。

力強く彫り出された像容や蓮台形式から鎌倉期の造立。

しかしその頭部、肉髻には大きな穴が穿たれ痛々しい。

片や、向かって左手北側参道入口わきにも一躰の阿弥陀石仏。

こちら植え込みに半身隠れる様に有り殆ど目立ちませんが・・・・・南側の石仏に酷似するものの、光背は頭部上方で欠損。

上から覗くと蹲にでも転用していたかの様な大きな窪み・・・。

この二体の石仏達もまた、京都を揺るがした戦乱や災禍にに翻弄され続けたのだろうか??

撮影2012.9.6


京都市南区  羅城門矢取地蔵石仏

2014年01月10日 | 石仏:京都

平安京の南門、羅城門址脇に「矢取(やとり)地蔵」と呼ばれ、空海ゆかりの地蔵石仏が有る。

京都のシンボルタワーとして親しまれる東寺五重塔、その西約300mに今は小さな児童公園と化した地に、「羅城門遺址」の石碑が立って居る。

その入口脇に地蔵堂らしからぬ納屋風建物が有り、中に矢取地蔵が祀られて居る。

しかし正面はしっかり戸締、格子戸に貼られた透明樹脂越しの撮影で思うに任せられません。

供台が蓮台の前を隠し 、頭には頭巾を被り何とも判断は付きかねますが・・・・見たところ蓮台に載る像高約1mの程の丸掘り半身地蔵石仏。

敢えて坐像としないのは胴から下が直ぐ蓮台のようで足元が覚束無い。

穏やかな面相、三道もしっかり有り、それほど新しいものでは無さそうですが・・・

由来記に有る平安初期、天長元年(824)以前までは遡れないだろう・・・。

一方地蔵堂から庇を伸ばし覆い屋とし、下に小石仏や石塔の残欠多数と、中央に等身大の石仏が安置されて居る。

これらの石仏達は昭和の初期、この辺りの工事中、地中から出土したものだそうです。

石仏は大きい舟形光背を持ち、蓮台の上に立つ長身の地蔵立像。

光背には円頭光の線彫り、宝珠をもつ左手首から先を欠損・・・・地中から掘り出されたのではしょうがなのかも??

像容、蓮台から室町後期の造立だと思われます。 

撮影2010.2.20:2012.9.6


京都市中京区壬生椰ノ宮町 壬生寺(みぶでら)の石仏達

2014年01月09日 | 石仏:京都

京都壬生、新選組で馴染み深い壬生寺(みぶでら)には多くの石物仏が安置されて居る。

壬生寺は二条城の東約1km、四条壬生川通りを下がって一筋西へ行った町並みの一角に大きな境内を持って居る。

元は平安時代中期の正暦二年(991)、天台宗の地蔵院として開基、後鎌倉期に「律宗」へ改宗、現在に至り律宗別格本山「壬生寺」と称している。

境内に入って直ぐ右手には、総高152cm地蔵立像石仏が立ち、水掛け地蔵として今も信仰が篤い。

中世仏の面影を色濃く残す慶安二年(1649)銘が確認され、江戸時代初期の造立。

江戸時代の地震で倒壊、断裂痕を残すが保存状態は申し分なし。

阿弥陀堂の前に立ち尽くしていた夜啼き地蔵(おせき地蔵)と呼ばれる石仏。

もとは、塔頭中院に祀られ、病気平癒、幼児の夜泣きに、ご利益があるという。

一見笠塔婆をかと思われる形態、古い形の蓮台に立つ定形地蔵立像は南北朝期の造立か??

<層塔の四方仏軸部が蹲に加工され>

境内のあちこちに置かれて居る石仏達は、明治期の市電軌道敷設工事の際に各所から掘り出され、この寺に集められた石仏だと言われています。

一石五輪塔を背にずらりと並べられた中石仏・・・なかなか味わい深い中世石仏が殆ど

こちらは蓮台に結跏趺坐する定印の阿弥陀坐像石仏。

こちら施無畏印、与願印の阿弥陀さん。

こちらは多分薬師如来かな・・・

とにかく境内のあちこちにこれでもかと云う程多くの石仏が集められています。

それでも置き場所に窮したのか?十三重石塔を頂にし、パゴダ風のコンクリート塔を造り、周りに石仏を螺旋状に並べた「千体仏塔」 がある。

大凡殆どが40~50cmの中世「小阿弥陀石仏」・・・しかし中には興味を惹く三尊仏が見えたりしますが・・・・、この塔には立ち入り禁止で事細かには解りません。

京都市街の地中には、まだまだ夥しい数の石仏が眠って居る事だろう。

撮影2012.8.25


京都市下京区朱雀裏畑町 権現寺の石仏

2014年01月08日 | 石仏:京都

京都中央卸市場の直ぐ近く、商店や民家の家並に埋もれる様に建つ、浄土宗「清光山権現寺」に安置されて居る石仏。

七条千本商店街の中、路地の様な参道を進むと瀟洒な山門が有り、狭い境内に地蔵堂と本堂が通路を挟んで並び建って居る。

石仏は地蔵堂の脇、軒下に小石仏20躰程と、見るべき二躰の中石仏が一同に並べられて居る。

向かって右端には地蔵菩薩坐像、左端には観音菩薩坐像・・・・、これらの石仏は明治末期、現JR京都駅の拡張により現在地に移転、その際、敷地依り出土したと言う・・・。

出土した石仏は「権現寺」の前身の一つでもある祇陀林寺(ぎだりんじ)の遺仏だとされ、出土時には火災に拠る煤で真っ黒であったと伝えられる。

左端の観音石仏は高さ1m程の舟形状自然花崗岩にれんげ坐に結跏趺坐する像高75cmの厚肉彫り聖観音坐像を刻み出して居る。

火災に拠る傷みは激しいものの、右手には未開蓮華を捧げ持ち、全体に力強い造形、よく整った像容から鎌倉後期の造立。

一方向かって右端の石仏は幅の広い舟形光背を背負う、錫杖を持たない古式の地蔵坐像石仏。

やっぱり火災のために傷みが激しく両手首共に欠損・・・・ちなみに像高、造立は左端の聖観音石仏に同じく。

この地も「応仁の乱」では焼け野原に成ってしまったのでしょうか??

撮影2012.9.6


京都市左京区北門前町 聞名寺(もんみょうじ)阿弥陀石仏

2014年01月07日 | 石仏:京都

京都東山三条から一筋上がった東側、時宗「小松院聞名寺」墓地に安置されて居る阿弥陀石仏。

聞名寺は市街中心部、京極大炊御門に有り時宗の修業道場として知られていたが、江戸時代中期、宝永5年3月8日(1708年4月28日)、宝永の大火で焼失、多くの寺院と共にこの地に再建移転した。

鴨川の東側のこの一帯は正しく寺町、今でも20ヶ寺ばかりが甍を連ねて居る。

寺は東山通に面して山門を構え、地蔵堂の本尊「明眼(あけめ)地蔵」は、第58代・光孝天皇(830-887)の念持仏と言われ、今も眼病平癒の信仰が篤い。

参道正面、本堂の裏に墓地が有り、風情のない民家のブロック塀を背に、無縁仏墓石の中尊として阿弥陀石仏が安置されて居る。

大火で焼きだされ移転を余儀なくされたのだろうが・・・この背景の環境は頂けないにも程が有る。

石仏は大家に罹った事もあってか赤錆色に変色しているが、良質の花崗岩製で総高1.6m。

二重円光背を負い、蓮華座に結跏趺坐する定印阿弥陀石仏を丸彫りに近く厚く刻み出して居る。

石仏は大火の折りにでも類焼したのであろう、首筋と両腕に補修の痕が痛々しく残っている。

光背には11個の月輪を浮彫りし、阿弥陀の「キリーク」の種子を刻み、その像容は「石像寺」の阿弥陀石仏によく似ている。

そのため鎌倉末期に「石像寺」の阿弥陀石仏を模して造られたのではないかと考えられて居る。

しかしどうせなら、もう少し背景の良い場所で観たいものです。 

撮影2012.9.26


京都市北区紫野大徳寺 地蔵宝塔二面石仏(平康頼の塔)

2014年01月06日 | 石仏:京都

清凉寺二面石仏(弥勒宝塔石仏)に良く似た二面石仏があの大徳寺にも有ると言うので出かけて見た。

臨済宗大徳寺派の大本山、洛北一の壮大な寺域を占め、街中に塔頭を連ねて居る。

境内東側にある総門より入って直ぐ、右手に勅使門、真正面に「平康頼之塔」と刻まれた石碑の建てられた切石で組まれた塚が有る。

「平康頼之塔」と呼ばれる石仏は塚の上、中央部の自然石を基台にして立つ地蔵宝塔二面石仏。

東向けに立つ二面石仏は総高140cm足らず、正面には舟形光背状に仕上げた中、蓮台上に立つ、厚肉彫り地蔵立像を刻み出して居る。

地蔵立像は像高約100cm、地蔵に有っては珍しく右手は下げて与願印、左手は胸元で宝珠を抱いている。

背面には石高一杯に宝塔が刻み出され、塔身部には「清凉寺」のものと同じく釈迦如来と多宝如来が並座、両面共に古式を良く伝え、鎌倉後期の造立だと言われている。

一方、大徳寺三門脇の参道を隔て小石仏の集積が有り・・・

小石仏ながら中には鎌倉期の造立だと思われるものも何体か・・・・

きっと街中に埋もれて居たものも有ったことだろう。

古い街には古い石仏。

撮影2012.8.25


上京区般舟院町 伝・式子内親王(のりこないしんのう)墓石仏

2014年01月05日 | 石仏:京都

2~3日前に紹介した「釘抜地蔵」の石像寺より少し下がった千本今出川東入る北側、般舟院陵脇に立ち並ぶ石仏。

般舟院陵は般舟院に隣接する御柏原天皇の母、「源朝子」陵以下三分骨所十墓からなる陵墓で、般舟院が伏見より寺の移転とともに移されたと言われて居ます。

その脇の小高い土壇の前に小石仏を10體程従え、中央に叡山系の阿弥陀石仏が有る。

この小高い土壇は百人一首「玉の緒よ 絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする」で馴染みの「式子内親王」の墓と伝えられ、頂部にが五輪塔も建って居る。

中央に立つ阿弥陀石仏は幅の狭い舟形光背を背に蓮華坐に結跏趺坐、定印を組み厚肉彫りで刻みだされて居る。

総高1.4m、像高88cm、尊顔体部の肉付けも良く、鎌倉期の特徴を良く現して居る。

両脇には小石仏ながら薬師と地蔵も並べられ墓守の石仏なのだろうか??

ここは宮内庁管轄の陵墓内、土日は扉が閉じられ拝観出来ず、注意を要する。

撮影2012.9.6


右京区嵯峨 嵯峨釈迦堂(清凉寺)釈迦如来石仏

2014年01月04日 | 石仏:京都

昨日紹介の清凉寺境内で見かけた釈迦如来石仏。

あの独特な像容を持つ清凉寺釈迦如来像を安置する「本堂(釈迦堂)」・・・・・その裏「納骨堂」の前に、ちょっと不自然に立っていた。

元はどういう形で何処に有ったのだろうか??、自然石を基台がわりに幅の狭い二重光背を背に、蓮台の上に立つ等身大の釈迦如来を半肉彫りで刻み出して居る。

まるではにかむような微笑みを湛えていますが・・・・像容に少々写実さを失い、南北朝後期以後の造立??

本尊釈迦如来を模して造られたのでしょうか??  

撮影2013.8.25


右京区嵯峨 清凉寺二面石仏(弥勒宝塔石仏)

2014年01月03日 | 石仏:京都

ずっと以前、2008年にもUPした事の有る嵯峨釈迦堂「清凉寺」に立つ、珍しくも独特な二面石仏。

清涼寺は観光地嵯峨野の中心部、嵐山の渡月橋から北に向かって真っ直ぐ伸びる道路の突き当たり、道路の真正面に釈迦堂と呼ばれる清凉寺の大山門がそびえている。

清凉寺は平安中期、宋より帰朝した然(ちょうねん)上人が開闢、後その高弟が開山したという名古刹・・・・、広い境内には由緒深い建物が建ち並ぶ。

石仏は駐車場より境内に入って直ぐ、一切経堂と通路の狭間、木立の植え込みの中、正面を西向きに立って居る。

駐車場、東側から見ると御覧の通りの宝塔が刻まれて居る。

 

二面石仏は弥勒宝塔石仏呼ばれ、自然石の基壇の上、複弁反花座に立つ高さ2.1m。

西側正面の石仏は大きな天蓋の下、蓮華座に座す、右手胸前で施無畏印、左手は膝先で蝕地印を示す弥勒仏を半肉彫りで刻み出して居る。

 

宝塔は背面を一杯に使い、塔高約2m・・・

塔身の扉は開かれ、中に併坐する小さな釈迦如来と多宝如来が刻まれて居る・・・とは言え、殆ど何が何やら状態ですが。

全体像容から鎌倉前期の造立だと言われて居る。 

撮影2012.8.25


京都市右京区  嵯峨油掛け地蔵(阿弥陀三尊石仏)

2014年01月02日 | 石仏:京都

全身を油にまみれ、「油掛け地蔵」の名の許に信仰篤いその実、素晴らしい像容の「阿弥陀三尊石仏」です。

嵯峨大覚寺の南約1km足らず、有栖川に架かる「油掛橋」の四辻の脇に「大覚寺油掛信徒会館」なる建物が建ち、軒先を突き出した地蔵堂に安置されて居る。

堂内は油の匂いがプンプン立ち込め、足元はヌルヌル・・・・、石仏にはどす黒い油糟がそうに成って纏わり付いて居ます。

石仏は高さ1.7m、幅約85cm、厚さ40cmの板状花崗岩の正面に舟形状枠を残し、中に像高113cm、定印を組み蓮華坐に結跏趺坐する阿弥陀坐像を中肉彫りで刻み出して居る。

油まみれとは云え、端正な顔立ちと堂々とした体躯が窺えます。

背に線彫りの二重光背を負い、脇に「観音」の種字「サ」と「勢至」の「サク」を刻み阿弥陀三尊として居る

背面に右に「延慶3年(1310年)庚戌12月8日」左に「願主 平重行」の銘が刻まれ、鎌倉後期の造立。

一度油にまみれて居ない素顔で、お目に懸かってみたい気がします

撮影2012.9.6


京都市上京区花車町 石像寺(しゃくぞうじ)「釘抜地蔵」の阿弥陀三尊石仏

2014年01月01日 | 石仏:京都

釘抜き地蔵尊」の名で今も広く信仰され、訪れる人の絶える事の無い浄土宗「家隆山光明遍照院石像寺」に安置され、重要文化財指定の阿弥陀三尊石仏。

京都市街の中心、「京都御所」の裏、今出川通を西へ約1km、千本今出川で右折、千本通りを300mも上った右手に釘抜き地蔵の看板が有り、建物に囲まれた路地の様な参道奥に、山門、その奥に境内が有る。

境内正面には大きい釘抜きのオブジェが有り・・・その奥に小ぢんまりした本堂が有る。

本堂に安置する本尊地蔵菩薩は、苦しみを抜き取るというところから、「苦抜き地蔵」といい、それがなまって、釘抜き地蔵と呼ばれて居るようです。

本尊地蔵菩薩は像高1mばかりの地蔵立像石仏らしいのですが確認は出来ず終い。

地蔵堂は、お礼参りの八寸釘と釘抜を貼り付けた奉納絵馬でびっしり埋め尽くされて居ます

本題の阿弥陀三尊石仏は本堂裏、簡素な小堂内に多くの小石仏と共に安置、祀られていた。

堂内を正面から見るとこんな感じで阿弥陀三尊と向かって右端にもう一体・・・。

二重光背を持つ阿弥陀坐像を中尊に、向かって右には左手に蓮華を持つ観音菩薩立像、左には合唱する勢至菩薩。

中尊の阿弥陀坐像は光背面に11個の月輪を配し中に「キリーク」刻みつけ、定印を組み、いかにも気魄溢れる生気にみなぎり、その像容は木彫仏を思わせるほど。

総高168cm、像高120cm、赤錆色に変色して居るが花崗岩の一石調整・・・定印を組む両手先が欠損、胸元辺りも断裂したのか?継ぎ目が気に掛かります。

しかしそんな事を差し引いても、その見事な像容は全く色褪せない。

向かって左手には中尊に同じく二重光背、11個の月輪内に、勢至の種子「サク」刻んだ高さ約103cmの勢至菩薩立像。

右手には同じく、高さ約103cm観音菩薩立像・・・・・、その更に右にはその月輪内種字から弥勒仏だとされる一体。

中尊阿弥陀の光背裏面には、「元仁元年十二月二日奉始之、同二年四月十日奉開眼之」の記銘が有り、鎌倉中期の元仁二年(1225)の造立。

一石一尊形式の三尊石仏としては最も古いと言われて居ますが、共に仏身に断裂痕があり、赤錆色に変色・・・、戦火にでも出遭った事が窺われる。 

撮影2012.8.25