愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

伏見 西岸寺油掛け地蔵尊

2015年02月11日 | 石仏:京都

京都市内に二体有る油掛け地蔵の内、嵯峨の油掛け地蔵は、その実「阿弥陀如来石仏」伏見のこれは名実共に油掛け地蔵尊・・・・・。

グ-グルストリートビュー の画像からですが、あの坂本竜馬で名の知れ渡った「伏見寺田屋」のちょうど二筋裏・・・・・・、

マンションの高い建物に隠れる様に狭い境内の西岸寺ある。

昔、山崎の油商人がこの地蔵尊の門前で転び、油桶を落とし油を流してしまった。

大切な油を失って落胆したが残った油を地蔵尊にかけて供養し行商したるところ商運大いに栄え大金持ちになったと言う。

以来、地蔵尊に油をかけて祈願すれば商売繁盛、願望成就、家内安全と商家の信仰を集め、油かけ地蔵尊と称するようになった。 

 

因みにこの地蔵石仏は、高さ1.7m、幅80cmの花崗岩の表面に、像高1.27mの定形地蔵立像。

像容、詳細等は御覧の通り、黒い油滓がうず高く全身に纏わり付き、ようとして知れない。

油を落として調査すれば刻銘も有りそうだが、そうも行かないようで・・・・大まかには鎌倉時代の造立とされています。

境内脇にはこんな阿弥陀小石仏が一体祀られて居ました。

撮影2012.9.8 


桂地蔵寺の石仏 

2015年02月10日 | 石仏:京都

真新しい桂地蔵寺に残された石仏さん達・・・・・しかしこう言うふうにコンクリート漬けでは可哀想。

京都六地蔵は、「平安時代」都への六街道入口に祀られた・・・・その内ここは旧山陰街道桂川の西、桂六地蔵尊地蔵寺。

再建されて間もないのか?眩いくらいに新しく整備されすぎ、ちょっと風情には欠ける。

 

 本堂の中央には、かの小野篁(おののたかむら)が、一木より刻んだ六体の地蔵菩薩の一つで有る、と言われる一體が安置されている。

本堂の再築と同時に補修されたのか??ピンピカで・・・・どうもどうもです。

その向かって右隣に薬師石仏・・・いつもは秘仏だと言うので公開日に合わせて訪ねたが、やっぱり撮禁、実物は見たのですが、画像は寺の栞から拝借。

現物も須弥壇に下半身を隠され全体像を見ることが適いません・・・・。

資料に依ると等身大坐像、右手胸元で施無畏印、左手膝上にて薬壺を持ち、鎌倉期の造立。

得てして秘仏の場合は見せるのが憚られる程傷みが酷い事が多いとか??

境内脇にコンクリート付にされた石仏達から・・・・これは鎌倉期の定印阿弥陀石仏??。

山形二条線の阿弥陀板碑・・・室町期???

これも山形阿弥陀板碑・・・・・こちらの方が時代があるかも??

中央には鎌倉期の宝筐印塔・・・なかなかいいものたちが並んでいますが・・・・、イマイチしっくり来ないのは、周りの全てが新し過ぎるからなのか??

撮影2012.9.6


千本鞍馬口 引接寺(千本ゑんま堂)十重石塔 

2015年02月09日 | 石仏:京都

京都市街、「千本ゑんま堂」に建つ珍しい形の珍しい十重の塔。

多層石塔と言えば頭に浮かぶのは大抵十三重の塔なのに・・・ここのは十重の塔。

千本ゑんま堂は本尊に閻魔大王置き、平安朝京洛の中心道路である朱雀大路(現千本通)頭に位置する。

この辺りは、あの世へ通ずる処として亡きがらをここから送った事から精霊迎えの根本霊場として古来より有名。

そんな境内の片隅に「紫式部の供養塔」と言われる石塔が在って異彩を放って居る。

高さ約7m、三層から上は普通の層塔と変わりなくy根石を積み重ねているが、初層は裳階つきの屋根、二層軸部には角柱を設けた中、胎蔵界四仏の種子刻み込む。

初軸部の角は面取りを施し、各面に舟形を沈め中に四仏を刻み出している。

また基礎石は低い円柱形で側面には舟形の中、多くの地蔵立像を配し、これまでに見たこともない形式です。

初層、弥勒仏だと思われる脇面には南北朝後期の至徳三年(1386)の刻銘が読み取れる。

嘗て紫野白毫院にあったものをここに移したとか??・・・・またこの塔は2重の宝塔と十三重石塔の一部を組み合わせたものだとされて居る様です。 

撮影2012.9.6


上京区西町(下ノ森通) 金泉寺(こんせんじ)阿弥陀石仏

2015年02月07日 | 石仏:京都

京都市街、北野天満宮の南、金泉寺(こんせんじ)に安置されている阿弥陀石仏。

詳しい場所は説明し難いのでグーグルストリートビューに譲りますが・・・・狭い道路脇に三ケ寺も並び建つ、京都独特の密集市街地。

そんな金泉寺正面脇、体部と蓮台が妙に不釣合いな石仏が安置されて居る。

明らかに体部と蓮台は造立年代が違う、蓮台には元禄の銘が有り、江戸時代後補された様です。

石仏は高さ約1.4m、舟形状自然石に刻まれた定印を組み結跏趺坐する阿弥陀石仏。

像高90cm弱、力強い膝張り、引き締まった体部を持つ厚肉彫り・・・しかし尊顔は穏やかで落ちつき、鎌倉後期の特徴を表している。

京都の戦乱を幾度も目の当たりにし、やっとここに安住の地を見つけたのだろう・・・

撮影2012.9.8


旧加茂町当尾小学校前 宝珠寺地蔵石仏/他

2015年02月06日 | 石仏:京都

 

 当尾への東の登り口、宝珠寺境内に立つ地蔵石仏と五輪塔。

2012年3月廃校になった旧当尾小学校の向かい、郵便局東となりに小さい境内の宝珠寺があり、新しく造られた基壇に一列石造物が並べられて居る。

  

頭の丸い舟形光背を持つ定形地蔵石仏は像高約1m足らず。

新しい基壇の上、台石と石仏をコンクリートで固定しているのはちょっと艶消し・・・

しかしあまり聞き覚えのない明応8年の銘があり、室町中期の造立・・・

一方、基壇左端に据えられた五輪塔、やや小振り感は否めませんが・・・・・蓮弁台座に乗った重厚感ある五輪塔で 鎌倉末期の造立。 

 

撮影2012.7.29


旧加茂町 西小墓地地蔵笠石仏

2015年02月04日 | 石仏:京都

当尾の石仏の内昨日に引き続きもう一体の笠を落とした笠石仏を・・・・

ここは岩船寺近くではなく当尾西の入口近く・・・どちらかと言うと浄瑠璃寺に近い・・・浄瑠璃寺道筋。

道路脇に重文五輪塔で知られた西小墓地が有り、道路を挟んで板碑などと共にこの中型箱石仏が立っている。

箱石仏の上部には笠石を載せていた突起があり、脇にそれと思われる笠石や宝珠石が落ちている。

強い意思を示し、落ち着き払った穏やかな表情の定形地蔵立像。

像容が岩船寺ふきのものに相通じ南北朝期の造立だろうか・・・・。

撮影2006.12.1


旧加茂町岩船 地蔵石龕仏

2015年02月03日 | 石仏:京都

 

 先日の岩船寺箱石仏によく似た地蔵石龕仏。

岩船集落の中程、西の谷を抜け観音寺跡へと向かう途中の分岐を左手に取るとこの笠石仏にブチ当たる。

昼でも鬱蒼とした竹藪ジャングル、夏場に行くと目も当てられないのでご用心・・・・まあそんな物好きは殆ど居ませんが??。

ここは往時、観音寺の塔跡であったと言われてる場所、なぜこの石仏達だけがこの場所に残されたのだろうか??

観音寺跡として小公園になり石造物が集積されて居るのだが・・・

石仏は大小3体・・・・中央に笠地蔵石龕仏、向かって右脇に箱石仏。

地蔵石龕仏は総高約1m、板石状石材に枠を残し深く龕を彫り窪め、中に半肉彫りの定形地蔵立像を刻み出して居る

 

 尊顔は摩耗が激しく詳らかには不明ながら、落ち着いて穏やかな顔つき・・・南北朝期の造立とされて居る。

方や脇の箱石仏は意思の強い顔で見上げて居る。

この場所を訪れる物好きは、かなり少なさそう・・・

撮影2012.7.29


旧加茂町 岩船寺箱石仏

2015年02月02日 | 石仏:京都

 

岩船寺境内にある二体の地蔵箱石仏(笠石仏とも石龕仏とも言う)

岩船寺山門のちょうど左脇斜面に人知れず佇む地蔵石仏。

所謂、角取りをした枠を持つ箱石仏なのだが・・・・・

深く彫り沈めた中央に蓮台に立つ地蔵菩薩を中肉彫りで刻み出して居ますが・・・本体に対して上に乗る笠石の大きさがアンバランス、多分、多層石塔の笠部を載せて転用して居る。

その上どうも妙??・・・・、左手は確かに胸元で宝珠を掲げて居ますが・・右手に錫杖は???・・・

と言うより、こうして写真で見ると右手があるのか無いのか確認出来ません。

NET資料では阿弥陀と同じ印相としてるものも有ったが・・・少なくとも左手は阿弥陀の印相では無い。

もう一体の笠石仏がこれ・・・・同様の造りだが、これは間違いなく定形地蔵。

これは笠も当時のままの様に思われるが上に乗る宝珠は小五輪の火輪を転用してる様・・・・

顔の造りや像容は前者に酷似し、同一石工の手に依るもので・・・共に南北朝期造立だとされて居る。

撮影2012.7.29


笠置町 木津川七廻の磨崖石仏

2014年10月07日 | 石仏:京都

木津川上流域、笠置渓谷右畔、七廻の岩崖に刻まれた磨崖仏。

歴史の山、信仰の山、磨崖仏の山として知る人ぞ知る笠置山、その下を行く木津川は、それまで広かった川幅を一気に狭め・・・・

巨岩折り重なる渓谷となり伊賀方面上流へと続いている。

この木津川右岸の岸壁に磨崖仏が有ると言うのは古くから知っていたが、石友さんに具体的な場所も聞いたので、ついでにちょっと寄って来た。

その場所は右岸旧道脇の絶壁、右岸からは近づく術が無いので左岸河川敷道よりの撮影と成る。

中央に小さく見える磨崖仏が判るでしょうか??

少しズーミングするとこんな具合・・・、切り立った岸壁の中央部、激しい水の流れが幾度となく岩肌を削り取って行ったのでしょう・・

確かに、頂部の丸い光背を深く彫り沈めていますが、殆ど像容も判らない程に摩耗しています。

磨崖の不動明王だと言う事ですが・・・どうも僕には確認できません。

地蔵だと言われれば、それはそのまま信じてしまいそう・・・・おまけに立像なのか坐像なのかも見分けが付かない。

いつごろ誰が何のために刻んだのかは全く不明ですが、それでも間違いなくそう新しくない磨崖石仏には違いありません。

帰りがけ、享禄阿弥陀の刻まれた河川敷大岩脇で見かけた二体の地蔵石仏。

一体は反花坐に載る舟形光背を持ち蓮弁に立つ中小型の定形地蔵立像。

かたや頭部を欠損するも大きい連弁に結果趺坐する地蔵坐像。

いずれもその様式像容は、かなり古い匂いがする。

撮影2014.7.12


笠置町 北笠置峠有市墓地地蔵石仏

2014年10月06日 | 石仏:京都
 
旧伊賀街道、笠置峠脇の有市墓地にある地蔵石仏。
 
 
峠の頂上部からそれらしき墓地道を少し歩けば、ぽっかり拓けた集落の古い墓地。
 
 
この墓地ではまだ土葬が行われているのか古いしきたりの葬儀呪具が置かれている
 
 
所謂この墓のお迎え地蔵さんなのでしょうか・・・総高1mばかし、ちょっと荒っぽい造りですが、室町後期の造立。
 
 
しかしこれだけ地衣類が侵食してしまうと、もう全く手も足も出ない。
 
撮影2012.5.28

笠置町 下有市よかん堂の地蔵石仏

2014年10月05日 | 石仏:京都

 国道163号線、昨日の南山城村からの帰りに寄った下有市の地蔵石仏。

下有市は旧伊賀街道、笠置峠を越え、木津川と伊賀笠置山系に挟まれたの最初の集落。

木津川右岸の長閑な緩斜面、木津川に注ぐ横川を挟む家並の中に点を突き刺す大杉が建ち・・・・・

脇の簡素なお堂に3体の石仏が並び立っている。

中央は十九夜塔の如意輪観音石仏、向かって右手は現代石仏の地蔵さん。

左手に顔部、光背を襷がけに大破断裂した地蔵石仏が安置されている。

総高約1m程の右手錫杖、左手宝珠の定形地蔵で室町末期の造立だとか・・・

しかしここまで傷みも激しく、これだけ風化が進んでしまうと・・・もう尊顔を窺い知ることも叶わない。

撮影2012.5.28


南山城村 中山峠の地蔵石仏

2014年10月04日 | 石仏:京都

今は廃道と成り下がった旧伊賀街道中山峠に残された古式地蔵石仏。

南山城木津川市から木津川右岸沿いに伊賀市方面に抜ける旧伊賀街道国道163号線、笠置町と南山城村境を越えた辺りが旧中山峠。

現在国道はなだらかな登となっているが、峠と呼べる程の登りでは無い。

今は通る人とて居ない旧伊賀街道中山峠は向かって左、ブッシュの斜面上にある。

往時、この石仏の前を伊賀街道がすり抜けていたのでしょうか??

今でも近くの在所の人が訪れるのか、供花のシキミがまだ青いまま残って居ました。

板碑や宝筐印塔などの中央に立つ地蔵石仏は、首根っこで舟形光背と共に断裂するも、よく古式を踏襲している。

右手は腰辺りに下げて余願印、左手は胸前で宝珠を抱く古式の地蔵立像。

永仁三年の銘が確認されており、鎌倉後期、の造立。

鎌倉期の石仏としてはかなり洗練されてスマートに成って居ます。

石仏さんの後ろに回れば、現代の旅人がタイヤを軋ませ、走り去って行くのが見えます。

撮影2012.5.28


京都府笠置町 笠置山両面石仏

2014年06月20日 | 石仏:京都

まるで長いヒゲでも蓄えたように日陰草を垂らしていた磨崖仏。

実はこの磨崖仏は以前に紹介した笠置寺東山墓地への参道途中にある地蔵磨崖石仏の裏面に刻まれて居る。

資料には両面石仏と成っているが、分からず終いの侭だったが、石友さんが見つけ出し、僕はその「おこぼれ」を頂戴してきた。

良く見てみると明らかに現参道に面した地蔵磨崖より、現在裏面に成ってるこの髭爺さん地蔵の方が、明らかに大きく出来が良い。

これはきっと本来の参道はこの石仏の前を通って居たのだろうが?山崩れでも有って、いつの間にやら裏側に廻り込んだのではなかろうか??

髭爺さんも良い風情なのですが・・・もっと姿を良く見たいのでちょっと失礼して・・・

岩面に石龕ほどに深く彫り込んだ舟形の中、像高約50cm、厚肉彫りの定形地蔵立像が刻まれている。

龕外下部岩面に室町期の特徴ある蓮弁を刻み込み、龕内にも蓮台を設ける丁寧な造りと成っている。

穏やかな顔つきで四等身・・・・どう見ても現代人には幼児体型、頭でっかちに見えてしまうのだが??

こうして人知れず山中に身を隠してしまった磨崖仏もまだまだ一杯居るにに違いない

撮影2012.5.1


南山城村 佛谷・不動明王磨崖仏

2014年04月28日 | 石仏:京都

とても一人では行きつけ無い様な場所、今ではすっかり忘れ去られたかの様な不動明王。

名張川を堰止め出来た高山ダム湖はすっかり周りの姿を変え、この磨崖の不動明王もすっかり近づくのが難しく成った様です。

前回までの田山地区からダム湖に架かる高山大橋を渡り対岸の高尾地区へ、府道82号線を道成に南下、脇道をダム湖側に入って2~3軒の民家脇をすり抜けダム湖が見える場所まで・・・。

直下にダム湖の見える道無き道を湖岸まで下り、細い谷川口から見上げると、切り立つ岩盤に一筋の滝・・・。

ここが高尾の仏谷、滝の左壁面に彫られた不動磨崖仏が在る。

かってここは修験道行者の修行場だったのだろう・・・例え湖水の水嵩が増えたとしてもここまで湖面が上昇する事もなさそうで、火焔の赤い彩色も色褪せることもなく、そのまま残っている。

急な崖上に有り、真近まで近づくことはちょっと躊躇う・・・。

岩面に高さ約70cm程の丸みの有る舟形を彫り沈め、中に手馴れた線彫りの不動明王立像を刻み込んでいる。

その左手の枡形には「泰忍」と読める作者名か??

少し甘ピンですが・・・・線彫り不動明王は像高約55cm、火焔光背の朱が頭にこびり付く程印象に残る磨崖仏です。

まあ、しかしダム湖に沈む事だけは免れて良かった。

撮影2012.4.30


南山城村田山 華将寺跡磨崖仏碑

2014年04月27日 | 石仏:京都

オドロオドロしい程に荒れ果て、最早雑木混じりの竹林と化し、薄暗く近付く人さえ希な磨崖石仏。

<磨崖仏は右手ブッシュの奥に在る>

旧田山小学校の程近く、華将寺跡に有り、往時大阪城の石垣用材として持ち出されない様にこれらの石仏や碑を彫り刻んだと言い伝えられている。

入口側から正面を見るとこんな感じ、大岩は高さ約3.5m、幅約4.5m、奥行3.8mのなだらかな山形花崗岩。

南面する正面岩肌には地蔵石仏や五輪塔・碑型など約20基・・・・その異様さと数の多さに度肝を抜かされる。

続く東面には約40基が刻まれると言うが最早、苔むし過ぎて朧げながらそれと解る程度・・・・。

岩の上にも枯葉が積り、最早花を手向ける人も居ない事を悟らずにはいられない。

しかし正面側の石仏には見るべきものが有り・・・・

特に上部の最大石仏は像高約80cm足らず、そのスラっとした像容、蓮台形式から室町後期降らぬ造立だと考えられ、その後順次追刻を繰り返し、幕末安永頃までの銘が確認されて居る。

しかし哀しいかな、ここまで苔むすと、何が何やら・・・お手上げです

撮影2012.4.30